七つ影、星供の裂け目
祠に着くと、滝姫は星辰盤を祠の前に置き、静かに真言を唱え始めた。
「南無星宿……天の光よ、地の影よ……この鏡に映りて、姿を顕し給え……」
星辰盤の縁が淡く光り始めた。
「オン・マリシリエイ・ソワカ」
湖面の星々が揺らぎ、まるで水底から星が浮かび上がるように見えた。
国豊は息を呑んだ。
忠行は目を閉じ、星の動きを読むように静かに耳を澄ませていた。
「オン・バザラタラ・ウクラ・ソワカ」
滝姫の声が、夜気に溶けていった。
北辰と七曜の真言が、静かな湖面に響いた。
滝姫の指先が星辰盤をなぞるたび、淡い光が波紋のように広がった。
そのとき、星辰盤の縁に落ちた影が、ふと揺れた。
賀茂忠行は、星辰盤の縁に走る黒い影に気づき、眉をひそめた。
「……これは……」
風はない。
焚火もない。
それなのに、影だけが揺れている。
次の瞬間、影が七つに裂けた。星辰盤の上で蠢き、寄り添い、また離れながら、生き物のように国豊の足元へ広がっていった。
国豊の背筋に冷たいものが走った。
影が、形を持ち始めた。
輪郭が伸び、歪み、やがて、国豊が見知った姿へと変化した。
――背は高く、肩は広い。猛き武者の覇気を帯びていた。
だが、その背後には七つの影が寄り添い、左目の重瞳には、
異界へ通じるかのような闇が宿っていた。
滝姫が震える声で呟いた。
「……怨影……」
声が聞こえる――耳ではなく、頭の奥に直接落ちてくるように。
それは将門の声に似ていたが、もっと深く、もっと底の方から響いてくる声だった。
――見ただろう……民の苦しみを……
――米を奪い、女を攫い、家屋を焼き払い……
――男は殺され、子供たちは火の海に沈んだ……
――正義はどこにある……?
影が揺れ、七つの影が国豊の周囲を巡った。
――国司、豪族の類は、小悪党にすぎぬ。
――己の欲を満たすことしか知らぬ、虎狼も同然の者ども。
――この地には、悪党を束ね、虎狼をも統べる王が必要だ。
国豊は身を強張らせた。
影の言葉は、怒りでも悲しみでもなく、もっと別の、底知れぬ『渇き』のように聞こえた。
――嘆き、哀しみが深ければ深いほど、堕ちる闇が濃ければ濃いほどに、
――人の世の千辛万苦が奏でる喜怒哀楽の唄……そのすべてが糧となる。
――苦悩が、叫びが、流れる血が……贄となり、さらなる厄災を呼び起こす。
――この地を統べる魔神は顕現す……我は待っていた……そのときを!
滝姫が星辰盤に手を伸ばしたが、影はそれを嘲るように揺れた。
――我らは、これまでも同じようにして、王なる王に力を与えた。
――朝廷の力は、もはや、この坂東の地には及ばぬ……
――坂東八国は、坂東の王が治めねばならぬ!
――それが、影たる我らの願い。
影の重瞳が、国豊の姿を凝視した。
――『まさかど』こそ坂東の王たる器、王の地位に相応しい漢。
その言葉を最後に、星辰盤の光が弾け、七つの影は霧のように散った。
湖面に静けさが戻った。
滝姫は震える指先を胸に当て、息を整えようとしていた。
国豊は、まだ影の残響を胸の奥に抱えたまま、言葉を失っていた。
その中で、ただ一人、賀茂忠行だけが、別の種類の沈黙を纏っていた。
恐怖ではなく、驚愕でもない。
忠行は、星辰盤の上に残る黒い痕跡を見つめながら、静かに口を開いた。
「……これは呪詛、怨霊の類ではない。将門殿は、異界の何者かに呼応している」
その言葉は、国豊を安心させるものではなく、滝姫を慰めるものでもなかった。
朝廷に報告すべき国家の危機を告げる言葉であった。
滝姫が不安げに忠行を見つめた。
「どうなさるのでしょうか……?」
忠行は、湖面に映る星を見つめたまま答えた。
「この異変を、陰陽寮へ持ち帰ります。されど、ありのままに伝えるわけには参りませぬ」
国豊が顔を上げた。
「……それは、いかなるお考えにございますか」
忠行は、国豊の目をまっすぐに見た。
「『将門の影が坂東の王を望んでいる』などと、そのまま朝廷に伝えれば……」
忠行は言葉を切り、静かに続けた。
「――即座に、将門殿を『朝敵』と見做すことでしょう」
国豊の胸が冷たくなった。
忠行はさらに言葉を継いだ。
「坂東の地は、ただでさえ公卿たちの目には『荒ぶる地』と映っています。『怨霊が坂東の王を望む』などと知られれば……討伐の名目が立ちます」
滝姫が息を呑んだ。
忠行は、星辰盤をそっと閉じながら言った。
「ゆえに、朝廷には『異変の兆し』として報告いたします。私も官人として、報告の務めは果たさねばなりませぬ。ただし、将門殿の御名も、『七つ影』のことも伏せておきましょう」
国豊は驚いた。
「……隠す、と?」
忠行は静かに答えた。
「隠すのではありませぬ。伝えるべきことを選び取るのです。朝廷に真実をことごとく明かす必要はない。仮に明かしたところで、容易には信じますまい」
その声には、冷静さと老獪さが同居していた。
忠行は最後に、国豊へ向き直った。
「国豊殿、七つ影は、この世の影ではありませぬ。されど、いかに向き合うかは、坂東の者が決めねばならぬ。――その行く末を、朝廷の政に委ねてはなりませぬ」
忠行は静かに告げた。
「坂東の未来は、坂東の者の手に委ねるべきものにございます」
その言葉は、国豊の胸に深く染みた。同時に、何か重いものが胸の底へ沈んでいった。




