浮島にて開かれる星の書
冬が去り、信太の浮島には春の風が渡っていた。湖面は鏡のように光を返していた。
賀茂忠行と滝姫の一行を乗せた舟が近づくと、岸辺には藤原国豊が立っていた。
傍らには、妻の五月が静かに寄り添っていた。
五月は、生まれたばかりの男児を胸に抱いていた。
「この子は……?」
滝姫はそっと身を乗り出した。
国豊は照れくさそうに微笑んだ。
「嫡男、清名にございます。つい先日、ようやく産声を上げましてな」
五月は柔らかく頷き、胸に抱いた小さな命を、滝姫に見せるようにそっと腕を緩めた。
清名は、春の光を受けて、まだ薄い睫毛を震わせながら、静かに眠っていた。
その頬は桃のように柔らかく、小さな手は、夢の中で何かを掴もうとするように動いていた。
滝姫は思わず息を呑んだ。
「……まあ……なんて愛らしい……」
その声は、星観の巫女ではなく、年相応の少女のものだった。
滝姫は清名の小さな手にそっと指先で触れ、微笑みながら言った。
「きっと……立派な跡取りになられます」
五月の目が潤んだ。
「ありがとうございます、滝姫様……」
忠行はその様子を静かに見守りながら、国豊に向けて小さく頷いた。
「子の誕生は、家の光。坂東の地にも、良き兆しが満ちておりますな」
清名を抱く五月の姿は、湖面の光を受けて柔らかく輝いていた。
滝姫と清名の触れ合いを見守る国豊の胸にも、温かなものが満ちていた。
「この子の未来が、どうか穏やかでありますように……」
五月が呟くと、滝姫は優しく微笑んだ。
「ええ……きっと。この子は、光をよく映す星を持っています。湖のように静かで、澄んだ星です」
その祝福の言葉に、国豊も思わず目を細めた。
浮島を巡る舟旅を終え、一行は館へ戻った。
夕陽が湖面を朱に染め、水鳥が巣へ帰る羽音が静かに響いていた。
館に入ると、滝姫は国豊に向き直った。
「国豊様……どうしても、お伝えせねばならないことがあるのです」
その声音は、先ほど清名を見つめていた少女のものではなかった。
星観の巫女としての声だった。
国豊は、胸の奥に小さな緊張を覚えた。
忠行もまた、その言葉の重さを悟った。「奥の間へ参りましょう」と、静かに促した。
滝姫は星辰盤を胸に抱き、しばらく言葉を探すように沈黙した。
奥の間は、星々の間に浮かぶかのような静けさに包まれていた。
やがて滝姫は、ゆっくりと顔を上げた。
「国豊様。これは星観の巫女としての言葉。どうか、心してお聞きくださいませ」
国豊は姿勢を正し、忠行は静かに目を閉じた。
滝姫は星辰盤をそっと開き、北斗七星の形を指でなぞりながら告げた。
「国豊様、あなた様の星は――『貪狼星』。
物事の理を見抜き、機を捉えて自ら道をひらく、才と行動力の星。
その言葉と振る舞いに人の心を引き寄せ、異なる志を持つ者とも縁を結ぶ力を宿しております。
……妲己(九尾の狐)の本体が封じられるといいます。
そして、運命は示しています。
『廉貞星』の男との出会いを。
情熱と殺気の象徴。
是非を分かたずにはおれぬ、激しい気性の星。
あなた様は、その御方とともに、父上の星、破軍星――揺光へと向かわれましょう。
けれど……その前後に、何らかの厄災が、国豊様の身に及ぶやもしれませぬ……」
国豊の胸に、静かに影が落ちた。
そして滝姫は、最後に告げた。
「あなた様の貪狼星は、北斗の柄杓の水を受ける側の端にあり、父上の破軍星は、柄の末にあります。同じ北斗に連なりながら、両端を隔てる星……。あなた様も、いずれ父上と距離を置くことになるのです。……それが、この星を負う者の運命」
滝姫の声は震えていたが、その言葉は、まるで星々が語る『決定された未来』のように重かった。
国豊は、しばらく言葉を失った。
忠行は、滝姫の言葉を聞き終えると、深く息を吐き、国豊に向き直った。
「国豊殿……星の示すものは、あくまで兆しにございます。厄災を前もって知れば、それを避ける術を探ることもできましょう」
その声は、陰陽師ではなく、政の真髄を知る官人のものであった。
忠行は、星辰盤を閉じながら静かに言った。
「星が兆しを示したのであれば、その行く先を確かめねばなりませぬ」
滝姫が小さく頷いた。
「賀茂様、国豊様……星供を、ここで行いたいのです」
国豊は驚いた。
「この浮島で……星供を?」
滝姫は、湖面の方へ視線を向けた。
「はい。この地は……星の声がよく響きます。水が鏡となり、天と地が重なる場所。
『裂け目』が開きやすいのです」
忠行は滝姫の言葉を聞き、深く頷いた。
「……確かに。この浮島は、古来より『水鏡の地』と呼ばれています。星の影が最も濃く落ちる場所でもあります」
国豊は、ゆっくりと頷いた。
夜を待ち、滝姫は星辰盤を抱えて湖畔に立った。
忠行はその背後に控え、国豊は少し離れた場所から二人を見守っていた。
風ひとつない湖面は、天の鏡のように星々を映していた。
湖の中央に浮かぶ小さな祠へと渡るため、三人は舟に乗り込んだ。
櫂が水を切る音だけが、夜の静けさを破った。




