星観の姫、初光
坂東の空には、冬の鉛色が深く垂れ込めていた。
雲は低く重く、風は肌を刺すほどに乾いていた。その奥では、星々がひそかに道を描いている。大気に潜む微かな濁り――それは、地を揺るがす運命の兆しにほかならなかった。
賀茂忠行は京を発つ以前より、その気配を感じ取っていた。
忠行が坂東へ下向したのは、将門に向けられた呪詛を術者へ反転させる「呪詛返しの修法」を行うためであった。――表向きの理由としては、それで十分であった。だが、忠行にとって呪詛返しは、中務卿から託された務めのひとつにすぎない。真の目的は、別にあった。
星辰盤を読み、未来の断片を垣間見るという「星観の巫女」――平将門の姫君、滝姫に会うことであった。
忠行は京を発つ前から、浄眼(千里眼)によって、幾度も滝姫の行く末を覗き見ていた。その凶像は胸の底に残り、払おうとしても消えなかった。むしろ旅路を進むほどに、輪郭を増していった。
滝姫の異能を確かめ、必要とあらばその運命に手を添えること――それこそが、彼が坂東へ向かう本懐であった。
鎌輪宿――将門の屋敷。
案内を辞し、庭へ出た忠行は、ふと足を止めた。
木枯らしは凪ぎ、世界そのものが息を潜めているかのようだった。
ひとりの少女が立っていた。
白い息を細く吐きながら、少女は星々の軌を追っていた。その姿は冬の闇に灯る小さな焔のようでありながら、どこか触れがたい静謐を纏っていた。夜空を映す瞳には、星の光が宿っていた。
忠行は、その眼差しに一瞬だけ言葉を失った。
滝姫は、夜空を仰いだまま静かに言った。
「星が……騒いでおります」
少女は忠行を振り返った。その声には、年齢に似つかわしくない落ち着きがあった。
「冬の北の空で、何かが形を変えようとしているのです」
その声音には恐れよりも、むしろ『覚悟』に近い響きがあった。
忠行は、冬の空気を切るように言葉を発した。
「姫君。……星は、何を告げているのですか」
少女はゆっくりと忠行を見つめた。その瞳の奥で、星の光が揺れた。
「まだ、言葉にはなりませぬ。ただ、ひとつだけ、確かに視えます」
「それは……?」
「あなた様が来られたことで、運命の流れが幾筋か変わりました」
その瞬間、遠くで梢が鳴った。風が戻り、冬の夜が再び動き始めた。
(この姫君か。星の道を読み、未来の影を視るという将門の娘……)
人払いした西対。
滝姫は星辰盤の前に静かに座した。
忠行は、少女の背後に控え、その儀式を見守っていた。
星辰盤の上に置かれた銅製の指標が、少女の呼吸に呼応するかのように微かに震えていた。
星供の灯火が揺れ、盤上の七曜――北斗七星が淡く光を放った。
その瞬間、滝姫の肩が震えた。
「……っ!」
星辰盤の光が揺らぎ、七つの星の中心にどす黒い波紋が浮かび上がった。それは星ではなく、影であった。渦巻き、濁り、形を求めて蠢く。忠行の目には、その影が次第に輪郭を得ていくさまが見えた。
滝姫は胸を押さえ、息を呑んだ。
「父上が……影に飲まれ始めています……。ああ、父上が……父上ではなくなっていく……」
震える声でそう言い、滝姫は星辰盤を抱きしめた。小さな手の震えは収まらなかった。
「……影が……濃くなっている……」
(これは……この影は、いずれ将門を覆う闇となる呪の胎動か?)
忠行は息を呑んだ。
影は、ついに立ち上がった。
その輪郭は、まるで将門を模したようであった。
七つの影が、滝姫を囲んで立ち並んだ。怒り、怨念、戦の気配――それらを吸い込み、声なき声を響かせていた。
忠行は呟いた。
「貴様は……呪か……?」
影は答えない。
ただ、将門の未来を暗く染める『兆し』として、そこに立っていた。
今は、この影に対峙することはできぬ。忠行はそう悟った。
胸の奥に沈んでいた予感が、確かな形を取った。この少女こそ、坂東の運命を揺らす鍵なのだ。
(……やはり、この娘は境に立っている。光と闇の、危うい均衡の上に)
星供が終わると、忠行は将門の前に進み出た。
「将門殿。滝姫様を、私の弟子として京へ連れて参りとうございます」
将門は唐突な申し出に驚き、娘を見つめた。
「……姫。お前は……どうしたい?」
滝姫は静かに答えた。
「父上。私は、この力の……正しい用い方を学びとうございます」
将門はしばし沈黙し、忠行の眼を見た。
忠行は言葉を添えた。「ただし、陰陽寮の官職に就くことは叶いませぬ。巫女として修行を積んでいただくことになりますが……」
忠行の眼には、欺きも野心もなかった。ただ、導く者の覚悟が宿っていた。
「……忠行殿に任せれば、悪いようにはなるまい」
将門は穏やかに微笑み、忠行に娘を託した。
上洛の準備が整うと、滝姫は忠行に願い出た。
「どうしても……浮島の大掾様にお会いしたいのです。あの島で、星供を行わねばなりません」
常陸国、信太浮島――海に囲まれた古の霊気漂う孤島。星々の力が最も強く降り注ぐ地。
「よいでしょう。他の陰陽師も連れ、ともに参りましょう」
忠行は頷いた。こうして、忠行と滝姫、そして陰陽師たちは浮島へ向かった。
滝姫は知っていた――。
あの島で星供を行い、国豊に告げねばならぬことがある。
それは将門を覆う闇と、未来の胎動に関わる縁であった。そして浮島での星供は、巫女にひとつの光を宿す秘儀でもあった。その光は、やがて運命を照らす初めの灯となる。




