貞盛、闇に沈む
平将門が武威と信望をもって坂東八国の調停者として名声を高めていた頃、坂東の片隅では、もう一つの影が静かに蠢いていた。
――平貞盛である。追討官符が出た以上、常陸のどの族も、貞盛への支援を躊躇った。
「貞盛殿……申し訳ない……。将門殿の武威には、到底……」
その言葉は、貞盛の胸に深く突き刺さった。
(……どこへ行けば……我は……)
坂東の地で、貞盛は完全に孤立していた。
そんな貞盛を拾ったのは、壬生氏であった。
(……あれは、貞盛殿ではないか)
壬生義宗――かつて信太浮島に渡り、国豊の暗殺に失敗した男である。だが、隠密としての腕は衰えず、坂東八国の情勢を探り続けていた。今朝方、行方郡の本拠へ戻ったばかりであった。
(……これは思いも寄らぬ拾い物よ)
義宗は、憔悴しきった貞盛を館へ招き入れ、兄の成宗に引き合わせた。
貞盛は、ひとまず壬生氏の館に身を落ち着けた。兄弟は義宗の集めた情報をもとに、将門の動向、良兼の病状、坂東平氏諸族の動静を、つぶさに貞盛へ伝えた。
数日後、壬生氏の館――。
薄暗い広間に、灯火が揺れていた。
成宗は、憔悴した貞盛を前に、静かに口を開いた。
「貞盛様は、高望王の嫡流。坂東平氏の正統なる惣領であられる。傍流の将門に、いつまで大きな顔を許しておくのです?」
貞盛は唇を震わせたが、言葉は出なかった。その沈黙を待っていたかのように、義宗はゆるやかに言葉を重ねた。
「しかし、追討官符に名を連ねる貞盛様が、無手のまま上洛しても──賊がひとりで都へ迷い込むのと同じこと。門前払いどころか、捕縛され誅殺されましょう」
貞盛の顔が強張った。義宗は、さらに言い募った。
「本来ならば、常陸一国の棟梁として、堂々と朝廷へ赴かれるべきお方です。されど、いま貴方様には強力な後ろ盾がない。まずは、それを得ねばなりません」
その声は、まるで貞盛の胸の奥に直接流れ込むようであった。
「さて……貞盛様。今後、いかがなさるおつもりで?」
貞盛の眼が揺れ、その奥に沈んでいた怨念が、ゆっくりと浮かび上がった。
成宗は、そこを逃さなかった。
「下野の藤原秀郷様の騎馬軍勢は坂東屈指。しかも、貞盛様にとっては叔父筋にあたるお方。これほど頼りになる後ろ盾はございません」
成宗は、声を潜めて続けた。
「秀郷様を恃みましょう。まずは、そこからです。ご安心を――私は秀郷様と、すでに約束を交わしております。必ずや貞盛様のお力となってくださいます」
貞盛の息が荒くなった。
義宗は、さらに言葉を添えた。その声音は甘く、しかし毒を含んでいた。
「秀郷様の後ろ盾を得て身の安全を確保したのち、堂上の公卿たちに賄賂を渡して味方につければよい。忠平卿ただ一人が反対しても、周囲を抑えてしまえば済む話です」
灯火が揺れ、貞盛の影が壁に大きく伸びた。義宗の言葉は、弱りきった心に絡みつき、逃れられぬ網のように締めつけていった。
壬生氏の兄弟には、別の計算があった。常陸介の親子は、将門を恐れて大掾の国豊に頭が上がらぬ小心者。そんな者たちに従っても、壬生氏に利はない。
(貞盛様の功を扶ければ相応の見返りがあろう。信太浮島、いや、それ以上の所領すら望めるやもしれぬ)
壬生成宗・義宗の兄弟の眼には、野望の光が宿っていた。
こうして、壬生氏は貞盛を抱き込み、次なる策へと動き出した。




