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北辰の冥影 ~将門炎舞記~  作者: 浮島太郎
弓袋峠の戦い

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放浪の果て

 筑波山の雪渓から逃れた貞盛は、息を荒げ、尾根伝いの獣道を必死に駆けていた。

 良兼の腕が首に食い込み、視界が白く霞んだあの刹那──

 胸に去来したのは、やはり“恐れ”であった。

(良兼殿は、やはり怖ろしき御方。討とうなどと、我が身の程知らずであった……)

 踏みしめる雪は凍りつき、足の震えは寒さゆえではなかった。

 外祖父の源護は、洞窟の崩落に巻き込まれ、蟲毒の壺を抱えたまま行方知れず。

 まずは真壁館(まかべのたち)に戻り、母御前にその旨を伝えねばならぬ。


 その後のことは、叔父・良正に相談すればよい──そう思いながら、北斜面の山道を駆け下りていた。

(良正殿ならば、良兼殿との諍いについても、何か道を示してくださろう……)

 真壁館には、源護の郎等、父・国香の旧臣らが集まっていた。

 貞盛は、ようやく安堵を覚え、館の敷居を跨いだ。

 母御前と妻に源護の消息不明を伝え、郎等を呼び集めて今後を議そうとした、その折──家司が、火の影に身を寄せながら、声を潜めて言った。

「貞盛様……実は、ただならぬ沙汰にござります。」

「我はようやく息をついたところだ。何事か。」

 家司はさらに声を落とした。

「……貞盛様と、お館さまに、討伐の官符が下されてござります。」

「……な、何と申した……?」

「良兼殿にも、同じくでございます。」

「真か……!」

「はい。官符の写しが回り来たり、この目で確かに拝見仕りました。」

「……な……に……?」

 貞盛は、膝から崩れ落ちた。

(我が……朝敵……?)

 常羽御厩を襲ったこと、将門の訴えが京にて容れられたこと、

 そして──自らの名が、朝廷に背く者として記されたこと。

(……なぜだ……なぜ我が……)

 胸の底に、黒い闇が沈み込んでいく。

(すべて……すべて将門のせいよ……!)

 憎悪は、もはや理を超えていた。

 家司は、さらに低く言った。

「もちろん、我ら一同、貞盛様への忠節は変わりませぬ。ただ……一族郎等の中には、心穏やかならぬ者もおり申す。」

 家司がそっと貞盛に耳打ちした。

「……与党の中には、心変わりする者も出ましょう。しばしは、屋形よりお出ましなき方がよろしゅうござります。」

 貞盛は唇を噛んだ。

(……我は、なぜこのような目に……すべて将門のせいだ……!)

 貞盛の心は、恐れと憎しみの狭間で、静かに、しかし確かに崩れ始めていた。


 何日目かの夜。

 ふと目を覚ますと、屋形の奥から、低い声が聞こえてきた。囲炉裏の火がまだ赤く残り、郎等たちがその周りでひそひそと語り合っている。屋形の中の空気はどこか冷たかった。

 貞盛は、寝所からそっと身を起こし、襖の陰に身を寄せた。

「……貞盛様は、ようやくお休みになられたか。」

「源護殿も行方知れず。さて、これからどうなるやら……」

 囲炉裏の火を囲む郎等たちの声は、明らかに不安と猜疑を孕んでいた。

「しかし……あの官符の沙汰、どうしたものか……」

「良兼殿も同じく追討と聞くが……」

「朝敵の名が下れば、坂東中が騒ぎ立つぞ。」

 囲炉裏の火がぱちりと弾け、その音がやけに大きく響いた。

 貞盛の胸に、冷たいものが流れ込んだ。


 郎等の声は続く。

「真壁館も、いつまで安泰か……」

「……あまり大きな声で申すな。御前に聞こえれば、さぞお心を痛められよう。」

 その言葉に、貞盛は思わず息を呑んだ。

 雪山での恐怖が、再び胸を締めつけた。

 貞盛は、襖の陰で膝を抱えた。

(なぜだ……なぜ我が……)

 父の仇を討とうとしただけ。

 牧の利を正そうとしただけ。

 それなのに──自分の名が、国家への叛逆者として記された。

 郎党も家人も信用できない。

(すべて……将門のせいだ……!)

 胸の奥に沈んでいた黒い闇が、ゆっくりと形を成し始めた。


 数日後、貞盛は郎等数名を連れ、叔父・良正のいる水守館(みもりのたち)へ向かった。良正は、父・国香の弟であり、坂東でも名の知れた武士である。

(良正殿ならば、道を示してくださる……我を見捨てるはずがない……)

 そう信じていた。

 水守館に着くと、良正は囲炉裏の前に静かに座していた。

「……貞盛、無事であったか。心配したぞ、よくぞ参った。」

 その声は穏やかであったが、どこか距離があった。

 貞盛は、官符のこと、源護の失踪、郎等の動揺を一気に語った。

 良正は黙って聞き、やがて深く息を吐いた。

「……貞盛よ。そなたの苦境、痛いほど分かる。」

「では、叔父上……我はどうすればよいのです。もはや良兼殿は頼れず、将門は我を朝敵に追いやりました……!」

 良正は、囲炉裏の火を見つめたまま言った。

「……そなたも知っていよう。追討の官符に、わしの名は記されておらぬ。」

「はい……しかし叔父上は、良兼殿の与党として、幾度も将門と戦われた。それは皆、承知のはず……!」

 良正は静かに頷いた。

「だからこそ、動けぬのだ。」

 貞盛は息を呑んだ。

「……どういうことでしょうか。」

「わしが動けば、“良兼の一味”として討たれる。官符に名が無いのは、ただ朝廷がわしを見逃しているだけのことよ。」

 良正は、貞盛の目をまっすぐに見た。

「貞盛。そなたも、しばし大人しくしておれ。今は動く時ではない。」

「……大人しく……?」

 貞盛の声は震えていた。

「叔父上……我は、将門の手で朝敵に貶められ、郎等も離れつつあります。何も抗弁せずに、このまま座して死を待てと……そう申されるのですか……!」

 良正は目を伏せた。

「……今は、そうするほかあるまい。」

 その言葉は、貞盛の胸に深く突き刺さった。

(……叔父上まで……我を見捨てるのか……)

 胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。

「……分かりました。では、我はこれにて。」

「貞盛、待て──!」

 良正が呼び止めたが、貞盛は振り返らなかった。

 水守館を飛び出した貞盛は、当てもなく坂東の野を彷徨った。

 冬の気配が迫り、風は冷たく、空はどこまでも灰色だった。

(なぜだ……なぜ我ばかりが……)

 父を失い、岳父を失い、郎等を失い、叔父にも見放され──

(すべて……将門のせいだ……!あやつさえいなければ……!)

 憎悪だけが、貞盛を辛うじて立たせていた。

 だがその憎悪は、彼をどこへ導くのか──貞盛自身にも、もはや分からなかった。


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