第9話 笑い声がようやく収まった。
彼――兀斗の笑い声がようやく収まった。人に聞いておいて笑うなんて流石に失礼じゃない?と不満を言おうかと思った。が、やめた。別にやましいことは何もないのだ。
一目惚れが理想で何が悪い。いいじゃないか。一目惚れしたって。
「にしてもなんで一目惚れ?」
目元に薄ら浮かべた涙を拭い兀斗は、問うてきた。
「お姉さんのことだから、一目惚れとかよくわからない現象、つうか非現実的なことは否定すると思ってた」
「私をなんだと思ってるんだ、君は」
「え、美人なお姉さん」
「…」
うむ。悪い気がしない。むしろ正直に言われて清々しいほどに気持ちが良い。ゆるそう。笑ったこと含めて。
私の手は無意識に髪を触る。
「まあ、一目惚れは、女の子みんな憧れるシチュエーションだと思うけど」
何も考えずに出会い、ビビッとくる感じ。お互いに惹かれ合うあの不思議で魅力的な空気。周りのことなんかどうでもよくて、フィルターには相手しか映らないような。そんな夢みたいな感覚を誰もが憧れるのではないのだろうか?
「やっぱりお姉さん面白いね。俺が予想しなかった返事ばっかり返ってくる」
「予想通りだったらつまらないでしょ」
「それはそうなんだけど。――あ、そうだ。じゃあこれまでのお礼と言ってはなんだけど、一つ俺の特技を見せてあげる」
特技?
首を傾げる私の前で彼は布団から足を出した。その長くて細い足を。「ちょっとそれ寄せて」と言って彼は車椅子を指差す。私は端に寄せられていた車椅子を寄せる。彼はベッドサイドの柵を下げ車椅子に体重を移す。「よっこいしょ」そのまま車椅子に腰を落とし一息ついた。私は彼の息が整うのを待つ。
「じゃ行こっか」
黙って頷いた私は彼の後に続いた。
カラカラからと乾いた音を乗せて車椅子は進み、いくつか廊下を過ぎると大きなロビーに到着した。ロビーへ入る前に小児棟と一般棟を繋ぐ廊下で揉めている影を見る。「だからご家族様や関係者以外立ち入ることはできないのです」と丁寧に入棟を断る看護師の前で、大人が顔色を不機嫌そうにかえる。「ここまで来て帰れって言うんですか⁉︎ 偉い人は誰ですか!」私はその景色を横目に見て、ロビーに辿り着く。子供がまあまあいる。元気にはしゃぐ子供達の手首にはやはり紙でできたリストバンドがついていた。
なんの病気なんだろう。ふとそんな疑問が私の頭の中に浮かぶ。あんなに元気よく走り回っているのに、いったい何人の子供がここで長い間過ごしているのだろうかと。もしくは苦しい思いをしているのだろうかと。
きっと誰もそんなこと望んでいないのに。
気がつけば私の足は止まっていた。動く必要があるのかと何も考えられなくなる。このままここに立ちすくんでいたら、何人が私の存在に気がつくのだろうか。もはや影と化している私に、気がついてくれる人はいるのだろうか?
「お姉さん」
不意に凛とした声が私の耳に届く。顔を上げると彼はいつの間にか立派なグランドピアノの前にいた。こっちこっちと細長い指先で私を呼ぶ。私は弾かれたように彼の元へ駆け寄った。
「ずいぶん、立派なグランドピアノだね…」
「そう。寄付してくれた人がいるんだって。世の中捨てたもんじゃないよねぇ」
兀斗は慣れたように言うと、軽く首を回す。肩甲骨も動かして。
まるで今から弾くから見ててとでも言いたげに。
兀斗はそっと指先をピアノの上に置いた。私はごくんと唾を飲む。スッと服の擦れる音がする。一度あたりが静寂に包まれたかのような錯覚に陥り、ぽろんと音がなった。
――これは……。
ピアノの旋律がロビーを覆う。
聞いたことのある音色。チャイコフスキーより『くるみ割り人形』の音楽だ。
静寂を裂くというより、そっと布をめくるように音が始まった。ピアノの低音が一音、深い井戸の底に光を落とすみたいに沈んでいき、その余韻の中から、次の和音がゆっくりと姿を現す。
楽器の奥でハンマーが弦を叩き、淡い衝撃が空気を押し広げて波紋をつくる。ペダルがそっと踏み込まれ、倍音が煙のように広がると、音はただ響くだけでなく空間そのものを湿らせていく。右手が描く旋律は、一歩遅れて落ちてくる雪のようだった。
余韻と余韻がかすかに触れ合いながら連なっていく。
私の記憶が蘇ってくる。かつて舞台の上で踊っていた私。コントラストのはっきりとした舞台で私は光を纏い暗闇に立ち向かう。名の知れたバレエダンサーだった私は毎日のように舞台に立っていた。シーズンの間は特に。硬いシューズを履いてまるで妖精のように舞う。次の日の新聞には必ず私の名前が上がる。そんな日々を過ごしていたのだ。つい、2年前までは。
気がつけば音楽は止まっていた。兀斗は一息ついて私の方を見る。
「懐かしかった?」
私の背筋が凍った。
なんで、なんでこの子がそんなことを知っているの?
なんで私が、この作品を踊って絶望の道へと進んだのか。
兀斗の目はまるで全てを知っているかのように語っていた。私は動揺して声も出せない。
「そんなびっくりしないでよ。俺ピアノ上手いでしょ? これでも天才少年! って言われてたんだよ。まあお姉さんもだろうけど」
「なんで、なんで知って…」
「だってお姉さんそのチャームずっと持ち歩いてるじゃん」
そう言って兀斗の細い指先が指した場所は、私の腰のあたり。恐る恐る視線を落とす。そこには本来ベルトを通すためのはずのズボンの飾りにぶら下がるチャーム――可愛い衣装に身を包んだクマのキーホルダー――がぶら下がっていた。
いつの間に――。
「見覚えのある顔だなーとは思ってたんだけどね。――まさか俺が気がついてないとでも思ってた?」
「じゃ、じゃあ」
声が震える。掠れる。
逃げなきゃここから今すぐ逃げなきゃ。そう思うのにやはり足は動かない。
「私の名前、最初から知っていたの?」
「まあね」
じゃあどうして、どうして私の口から聞きたがったの――?
私はぎゅっと目を瞑る。どうか私の予想と違う回答が返ってくることを願って。
「いやだって本人から聞かないと意味ないし」
ツーと。
冷や汗が背中をつたった、ように感じた。周りの体温がスーッと低くなっていく。兀斗はいつも通りだ。私がおかしいのだ。
そうか。この子は最初から私なんて見てなかったんだ。この子が見ていたのは「私の名前」だったんだ。
そう理解したのと同時に、心が重くなった。ひどく裏切られた気持ちになった。一寸でも彼との時間が楽しいと思ってしまった自分を呪う。
私は踵を返した。とにかくここを離れよう。どこかへ行こう。これ以上彼といても、私には毒なだけだ。
しかし、ドンッと。
私は歩いている大きな人物に気が付かずぶつかる。
「どした?」
慣れた声。顔を上げる。私がぶつかったのは瑠衣だった。
瑠衣。
笹木瑠衣。
私の幼馴染。
私の1番の味方。
そばにいてくれる人。
そうだ。この人は私のことを知っている人だ。
瑠衣と目が合った瞬間、私はその白衣をぎゅっと握った。
「瑠衣……。るい…。」
それから反復するように名前を呼び続ける。忘れてしまわないように。
「どうした、まじで」
私の異常を感じ取ったのか、瑠衣の声が少しばかり鋭くなる。暫くの間、私はそうして瑠衣にくっついたまま離れなかった。
その間もこの小児科のロビーは賑やかな子どもたちが走り回っていた。
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