第10話 夜の帷
夜の帷が静かに降りる頃、満天の星が空に浮かんでいた。地方に佇むこの病院は、夜になると灯りが一斉に消え、世界を照らすのは月明かりと星だけになる。その光景が、思いのほか眩しいことに気づいたのは、ほんの最近のことだ。
今日も私は、夜中に目を覚まし、ゆっくりと体を起こす。誰もいない廊下の窓から外を覗くと、その明るさに言葉を失った。夜は、夜だけは私と同じだと思っていたのに、その光は想像以上に強かった。それでも、昼間よりはまだましだ――そんな考えを胸に、静まり返った病院を歩く。別に目的なんてない。眠れないから起きる。起きていれば暇だから、歩く。ただ、それだけのこと。
とある廊下で足を止めた。遠くにナースステーションの明かりがぼんやりと灯っている。その向こうから、人の話し声が微かに聞こえてきた。私はそっと近づき、耳を澄ます。
「五〇四号室の――」
病室の番号。どうやら患者の話をしているらしい。声色は三つ。
「もう眠り続けて半年でしょう。気の毒よね、せっかく治ってきたというのに」
「ほんとよね。何があの子をそうさせてしまったのかしらね」
漠然とした会話。得られる情報は、五〇四号室の患者が長い眠りにあるということだけ。
「あのぉ、五〇四号室の方? 私が赴任した頃には既にあの状態だったのですが、いったい何かあったんですか?」
少し若い声色の看護師が問う。「ああ」と、先輩らしき看護師が相槌を打った。
「そうだったわよね。――まあ、昏睡状態になってなかなか起きない患者さんは一定数いるっちゃいるんだけどね、あの子の場合は原因が」
「原因が?」
「自殺未遂なのよ」
ひっそりとした夜に、あまりにも似合う“自殺未遂”という言葉。私は思わず窓の外へ視線を移した。空には、あの日と何ひとつ変わらない色が、静かに浮かんでいた。
「自殺未遂って……一体どこで?」
「この病院の屋上よ。ほら、ここって鍵が壊れてるじゃない? それを知っていたのか、誰かが情報を漏らしたのかはわからないけど……ある夜、屋上から飛び降りたの」
「そ、そんな大きなことがあったなら、普通ニュースになってるんじゃ……。私、聞いたことありませんよ」
若い看護師が問いかけると、年配の看護師は深いため息をついた。
「まあ、ここはいわゆる地方病院だからねぇ。表沙汰にならないっていうのと、噂では上の人間たちが揉み消したって話よ。何せ、あの子はここで治療を受けていた子だからね」
看護師の語尾は、何かを思い出すかのように濁った。
┈┈┈┈┈┈┈ ❁ ❁ ❁ ┈┈┈┈┈┈┈┈
看護師たちのひそひそ話もそこそこに切り上げ、私は再び中庭へ向かおうとした。最近、あそこへ行くのは日課になっている。廊下を無言で歩く。
――あ。
その瞬間、気づいた。このまま中庭へ行けば、また彼――兀斗がいるのではないか、と。今、顔を合わせるにはあまりにも気まずすぎる。会いたくない。
――はっきりとした感情が胸の中で渦を巻いた。
「戻るか」
そうして導き出された結論。私はくるりと踵を返し、来た道を戻ろうとした――その時だった。
ゾワリと背筋が凍った。
なに?
咄嗟に振り返る。しかし、そこには変わらずナースステーションの光と話し声だけがある。それでも、服の上からでもわかる。鳥肌。
違う。何かいる。
私は目を凝らした。
ナースステーションの明かりが右手にあり、正面へと伸びる長い廊下は、闇にすっぽりと包まれている。その暗闇の奥で、微かに――何かの気配を感じた。
私はさらに目を凝らす。黒く、人の形をした“何か”。輪郭はぼやけていて、はっきりとは見えない。けれど、直感が告げていた。――今すぐ逃げろ、と。
私は背を向け、走り出した。
あ――。
気づいた時には、もう遅かった。ものすごい勢いで何かが体にぶつかり、私の体は一瞬、フワリと浮いた――直後、床に叩きつけられた。「ぶはっ……!」我ながら情けない声が漏れる。よく小説に出てくる「がは」とか「ぐは」じゃなくて、「ぶは」だ。息が全部吐き出されたみたいに、その前に唾液が喉でつっかえたみたいに。なんともダサい音。
音。音。音――? おと。
「はっ!」
首を絞められている――そう認識したのは、自分の目がカッと見開かれた瞬間だった。ほぼ強制的に。そして、視界に映ったのは、自分の上に跨る何かの正体。
人の形をした黒い影。
「くっ……」
体を捩って必死に逃れようとするが、うまく動かない。視界はじわじわとぼやけ、腕の力が抜けていく。
そんな意識の中――
「お姉さん‼︎」
暗闇にはあまりにも似合わない、凛とした声が耳に飛び込んできた。
兀斗、?
その声の主を確認しようと目に力を込めるが、充血するばかりで焦点が合わない。
ああ、だめだ。
意識が遠のいていく。
「お姉さん! 名前を教えて‼︎」
……何言ってんだ、この状況で。
「このままだとガチで死ぬよ‼︎」
その言葉を聞いた瞬間、確信する。
やっぱり彼はそっち側の人間だったのだと。
ご感想等お待ちしております☺︎




