第11話 否――初めから気づいていた。
否――初めから気づいていた。ただ、気づいたふりをしなかっただけだ。自分の都合のいい願望だけを拾い上げ、見たい景色だけを見て。
私が小児棟に自由に出入りできる理由を、彼は一度も尋ねなかった。本来なら関係者以外は入れない場所。なのに――何故ここにいるのか。
瑠衣と行動を共にしていても、瑠衣が私の名前を呼んだことは一度もない。彼はその瞬間を見ていない。
それなのに、何も言わないどころか、私の口から名前がこぼれるのを、根気強く、何度も待っていた。
なぜなら――名前には、それだけの力があるからだ。
そして彼は、その力を知っていた。
そして、私も――心の底では気づいていた。
気づいたうえで、蓋をした。見えないふりをした。
「お姉さん‼︎」
はっ――!
耳の奥に鋭く突き刺さる、兀斗の声。
沈みかけていた意識が、一気に引き戻される。酸素はほとんど残っていないはずなのに、視界がぐらつきながらも開いた。
廊下の奥。薄暗い光の中で、車椅子に乗った兀斗がこちらへ向かって必死に叫んでいる。唇が途切れなく動いているのに、私の耳へ届くのは、いつもの――「お姉さん」だけ。
ガシャッ‼︎
鋭い音とともに車椅子が横倒しになり、兀斗の体が床に投げ出された。鈍い衝撃で顔をゆがめながらも、それでも彼は、こちらへ這いずるように体を引きずる。
――こないで。来たら、あなたも……捕まる。
その瞬間だった。私の首に喰らいついていた冷たい腕が、わずかに緩んだ。激しく咳き込みながら視界を戻すと、黒い影がゆっくりと動いた。いや、動いたというより――。
こちらから、兀斗の方へ顔を滑らせるように向けていく。その動きは、人間のそれではなかった。そして、闇の中で輪郭のないその影が、はっきりと――兀斗を見た。
「にげて!」
私がそう叫んだのと、ほぼ同時だった。黒い影が、兀斗へ向かって――獲物に飛びかかるように跳んだ。咄嗟に腕を伸ばしたが、間に合わない。黒い影は、そのまま兀斗を覆い込む――はずだった。
刹那。
眩い光が二人を包んだ。一瞬だけ、静電気が弾けるように ピカッ と白く。光はすぐに消え、私が瞬きを終えた頃には、黒い影は跡形もなく消えていた。兀斗は――無事だった。床の上で匍匐前進の姿勢のまま固まっている。だが、光に驚いた様子はない。まるで……見慣れている、と言わんばかりに。
状況を掴みきれずにいる私の耳に、新しい音が飛び込んでくる。
「よかった。間に合ったみたいだな」
その声は、私が一番聞き慣れている音だった。振り向くと、廊下の奥から一人の男がこちらへ歩いてくる。日中に着ている白衣はなく、代わりに全身を黒い服で包んでいた。ゆとりのあるパンツに、ラフな黒のシャツ。足音のしない靴。――顔のパーツがなければ、さっきの黒い影と見分けがつかない。
「瑠衣……?」
「なんだよ。間に合ったんだからいいだろ」
そう言いながら、瑠衣は軽く私の頭を撫でて通り過ぎる。倒れた車椅子を起こし、床に投げ出されていた兀斗の体をそっと抱え上げ、静かに座らせた。
「えっと……」
状況がまったく読めない私。
「なんていうか……」
私の正体を知っていた兀斗。
そして私の正体を知っている瑠衣。
その二人が、まるで前からの知り合いみたいに親しげにしている。
これは――一体どういう状況なんでしょう?
「説明、してくれる?」
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