第29話 生まれは祓い屋
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俺は、嘘でできている。
自分を守るために。大人を欺くために。世界に置いていかれないために。
生まれは祓い屋。代々続く、由緒だけは立派なお家の子として育った。
俺に授かった力は、視える力――人間が本来持つ能力の、ほんの数%ばかりが鋭く尖っているだけ。それでも一族の中では特別視された。けれど、敬われていたのは俺じゃない。
俺の力だけだ。
誰も「俺」という人間を必要としない。
俺という存在は、力の器でしかなかった。だったら、いっそ嘘で塗り固めてしまおう。弱さも、空しさも、誰にも触れられないように。
本当の自分を隠してしまえばいい――そう思ったのは、物心ついた頃からだった。本音を語れば壊れてしまうなら、偽りで覆ってしまえばいい。そんなふうにして、俺はいつしか「自分」を嘘の層の中に閉じ込めて生きるようになった。
そんなふうに、何もかもを諦めていた俺の前に――お姉さんが現れた。
世界も、自分も、他人さえも半ば放棄し、嘘を塗り重ねることでしか生きられなくなっていた俺にとって、唯一、素直でいられると感じた場所。それが、お姉さんの隣だった。
「君、ちょっと手伝ってくれない?」
ある日の午後。不意に声をかけられ、俺は手を止めた。キキッ、と車椅子の車輪が廊下に小さく音を返す。振り返ると、そこに立っていたのは――。
――あの人だ。
――スリーピングビューティー。
目を覚ました姿を見たことはないのに、不思議と分かった。噂されている “眠れる美女” は、この人だ、と。輪郭のはっきりした目元。シャープに引き締まった顔立ち。細いのに、どこか強さを秘めた線のある身体。立っているだけで、廊下の空気を変えてしまうような存在感だった。
俺はなんとなく周囲を見渡し、ここには俺しかいないことを確認する。
……手伝う?
俺に?
車椅子の俺に?
そんなふうに声をかけてくる人は、今まで誰一人いなかった。笹木せんせーでさえ「無理をするな」と言うばかりだ。車椅子の向きを整え、お姉さんの正面で止まる。
「手伝うって、何を?」
「これ持っててほしいの」
そう言って、お姉さんは小さな革のカバンを俺に預けた。手触りが妙に良くて、思わず意識がそちらに向く。その間に、お姉さんはすっとしゃがみ込んだ。解けた自分の靴紐を結び始める。
……え? 靴紐を結ぶために俺を呼んだの?
そう思った瞬間、お姉さんの手が俺の足元へ伸びた。びくりと反応してしまう。けれど、俺の足は思うようには動かないから、ほんの少し震えただけだった。お姉さんは一度も顔を上げずに、今度は俺の靴紐を、丁寧に結び始めた。
一体、何がしたいんだ?
疑問が渦のように広がっていく。
「君さぁ、靴おしゃれだね」
唐突に、お姉さんがそう言った。結び終わった靴から手を離し、軽く立ち上がる。
「ありがとう」
そう告げ、俺の膝からカバンを受け取ると、そのまま何事もなかったかのように歩いていってしまった。
……いや、まじで何だったんだよ。
そう聞きたくなる一瞬に、俺は深く息を吐く。
これが、俺――兀斗と、お姉さんが初めて言葉を交わした日のことだった。
それからというもの、お姉さんの姿を院内で見かけることが増えた。入院している様子はない。けれど、定期的に通っているらしく、白い廊下の向こうからふいに現れるその姿を、俺はいつも目で追ってしまった。
一度だけ、後ろ姿を追いかけたことがある。車椅子で追いかけるには限界があるはずなのに、俺の身体つきは中学生には見えないから、小児病棟を抜けて歩き回るのなんて日常茶飯事だった。
だからこそ、お姉さんが精神科の方へ向かう背中を、はっきり記憶に刻むことができた。
精神科――
どんな場所なのか、当時の俺にはよく分かっていなかった。ただ、そこへ向かうという事実だけで、お姉さんが何かしら心に抱えているものがあるのだと理解できた。
そうして季節が一つ変わった頃――一日だけ、お姉さんが検査入院しているという噂を耳にした。こういう時だけ、同居人たちは役に立つ。「五〇四号室だってー」「だってー」「戻ってきたんだねー」「だねー」「にしても、なんでまた?」「さー」「さー」
最初は、“へえ、そうなんだ”くらいにしか思わなかった。けれど、朝が昼になり、昼が夕方に変わるにつれ――胸の奥でざわざわと波立つものがあった。嫌な予感。曖昧で、理由なんて説明できない。けれど確かにそこにある。誰かの死期が近いときに、ふと感じるあの空気。
祓い屋の血が、わずかに震えるあの感覚だ。夕暮れの光が廊下の床を赤く染めていく中、そのざわめきだけが不気味なほど確かに胸に残っていた。
時刻は九時を過ぎていた。良い子は寝る時間――でも俺は、車椅子を静かに押して病室を抜け出した。ナースステーションの死角を通って一般病棟に入るルートは、もう身体に染みついている。(祓い屋の家系ってのは、こういう時だけ役に立つ。)そうして、なんなくお姉さんの病室へたどり着いた。
ベッドですやすや眠っていてほしい――。
そんな淡い希望を胸に、そっと覗き込む。
――いない。
その事実を認識した瞬間、全身に悪寒が走った。背骨の奥の、もっと深い部分がざわりと逆立つ。屋上だ。お姉さんは屋上にいる。理解は一瞬だった。俺は急いで廊下に出る。けれど、そこで足が――いや、車輪が止まった。
車椅子で間に合うのか?
この脚じゃ――。
そのとき、視界の端に五〇一号室が入った。かすかに漂う、死期の匂い。
早くて一ヶ月……いや、二週間。この患者はきっと――。俺は車椅子の向きを変えた。迷いはなかった。五〇一号室の扉を押し開ける。
そこから先は、笹木せんせーの推理のとおりだ。
俺は――。
生きている人から気を奪った。
まるで息を吸うように、そっと。奪った瞬間、その気が熱を帯びて俺の体に流れ込んだ。痺れるような力だった。その気で、俺は歩ける脚を手に入れた。走れるほどの脚を。そのまま一番近い医療用エレベーターへ向かい、駆け込む。
そして――屋上へ。夜の風が吹き抜けるその場所で、俺はお姉さんと向き合った。
俺は言った。
――俺が、
俺がお前を壊してあげてもいいよ。
その時の俺には、それが救いだと信じていた。
救いだと――思い込んでいた。
「ふざけるなっ!」
乾いた音が空気を裂いた。瑠衣の拳が兀斗の頬にめり込み、車椅子はガシャンと倒れ、兀斗の身体は無力にコンクリの床へ投げ出された。そのまま、瑠衣は兀斗の胸ぐらを乱暴に掴み上げた。
……こんな展開、漫画か小説の中だけの話だと思っていた。それがいま、目の前で現実になっている。
人ってほんとうに、わからない。
兀斗の口元には赤い血が滲んでいた。その鮮やかさが、妙にくっきり目に焼きつく。
「人の気を奪っておいて、その上……ッ! お前、何やってんだよ!」
瑠衣の声は怒鳴り声というより、怒りと痛みがねじれて零れ落ちたような音だった。
兀斗は、静かに、淡々と答えた。
「しょうがないじゃん。それしか手がなかったんだから。奪ったことは……悪いと思ってるよ。俺も罰せられるなら、それでいい。死ねって言われたら今すぐ死んでもいい。……笹木せんせーになら、殺されても」
その言葉はひどく軽くて、ひどく重かった。
「ガキじゃねえんだ。」
瑠衣はぎりと歯を噛みしめる。
「そんなことで僕の気持ちがおさまると思うな。今から本部に連絡する。正規の処分、全部受けてもらうからな」
怒りに任せて駆け足に事を進めようとする瑠衣。それに静かに、諦めたように従おうとする兀斗。
その二人を見ながら、私は――
いままで語られた話に、ひとつ、ふたつと「矛盾」と「嘘」が確かに混じっていることに気づいていた。
気づいてしまった以上、もう黙っていることはできない。
これを口にするということは――
私もついに、自分自身と向き合わなければならないということだ。
つまり、この 楽しかった時間”とも、ここでお別れということだった。
「……いや」
私の口からこぼれたその小さな二文字は、朝の空気に溶けていくように消えていった。息よりも軽く、光よりも儚い響きだった。顔を上げる。夜の闇とは違う、清々しいほど透き通った朝の光が広がっている。その透明さに呑まれてしまいそうで、今の私なら簡単に溶けて消えてしまえそうで――怖いほどだった。
「兀斗は、関係ないよ。やっぱり……私、自分で飛び降りたんだ」
認めた。
ついに、自分の罪を。
瑠衣の手から、兀斗の胸ぐらを掴む力がゆっくりと抜けていく。音の壊れた機械みたいに、ギギギ……と軋む視線がこちらへ向けられた。――私は、その目を見られなかった。見たらきっと逃げ出してしまう。せっかく固めた覚悟が、揺らいで崩れてしまいそうで。
「……どういう意味だよ、それ」瑠衣の声はかすれ、震えていた。
「そのままの意味」
「いや、でも……だってお前が最後に話してた相手はこいつで――」
「確かに話したよ。でも、兀斗は私を殺してない。私は、自分の意思でここから飛び降りたの」
言いながら、自分の胸の奥がひりつく。
「よく考えてよ」
ゆっくりと言葉を続ける。
「兀斗は私を知っていた。そして、私の死期――つまり、私が飛び降りようとしていることを悟った。だから屋上に来た。そんな人が、私を殺す? 殺人を起こす? おかしいじゃん。矛盾してるよ」
瑠衣は言葉を失う。まるで、喉の奥で何かを形にしようとしているのに、音にならないように。
「でも……じゃあなんで――」
――なんで、お前は飛び降りたんだ?
その問いが、この長い長い物語の結論だった。
私は、静かに答える。
「世界から逃げ出すために」
その瞬間、私の瞳は――
磨き上げた黒曜石のように硬く、冷たく、寄せてくるすべてを跳ね返すほどの理性をたたえていた。
思い出さなきゃ。
あの日の夜を。
まだ続きがあった、あの夜の本当の終わりを。
ご感想等お待ちしております☺︎




