第30話 死ぬのは効率が悪い
生きている者には、誰しも――絶対に他人には触れられない“絶対領域”があるのだと、私は思っている。
どれだけ会話を重ねても、
どれだけ時間を共有しても、触れられないものは、決して触れられない。
理解しようと手を伸ばしても届かない。
わかろうとしても、永遠に擦れ違う。私も、例外ではなかった。
「それは辛いよね」
――本当にそう思ってるわけ? 心の中では薄く笑ってるんじゃないの? 私のことなんて、一ミリも考えてないんじゃないの?
そんな黒い疑念が生まれるのは、私がひねくれているからだし――でも別にそれでいい。
私は、弱い人間だから。
人と話すこと自体は、嫌いじゃない。
むしろ楽しいし、心地よい瞬間だってある。
「ああ、これが“生きてる”ってことなのかな」とか、「ちゃんと社会に混じってるんだな」とか、そんな感覚をほんのすこし与えてくれる。会話の記憶が積み重なり、思い出が増え、その度に私たちの“中身”は形を持っていく。
体なんて、所詮はただの器だ。
中身がなければ、私たちは意味を持たない。
中身のない器は、サラダの入っていない木のボウルみたいなものだ。
形はあっても、存在理由が欠けている。そして残念ながら――人間とは、そういう生き物だ。その構造からは、誰一人逃れられない。
私も。世界の誰もが。
そして、ふとした瞬間に、電池が切れる。
想像してみてほしい。あなたは今、ただ立っている。それも一人ではない、ひしめき合う群衆の中で、数分間の全力疾走に等しいエネルギーを浪費し続けている。
足は棒のように硬くなり、今すぐにでも座り込みたい。けれど、座ることに何の意味も見出せないから、ただ惰性で膝に力を込め続ける。
力を抜けば、崩れる。
そんな簡単なことが、私たちにはできない。なぜなら、踏ん張って立っていることこそが「日常」という名のルールであり、疑う余地のない当たり前だからだ。
けれど、その当たり前にふと、ノイズが混じる瞬間がやってくる。唐突な電池切れのように、ぷつりと。
何もかもを投げ出し、この世界という舞台から逃げ出せたら、どれほど心は軽くなるだろう。泥のように濁った思考の渦から解放され、ただ無になれたなら。
世に言う「キャパオーバー」という、ひどく味気ない言葉。
そう、当時の私は、自らの人生の器から溢れ出した、やり場のない絶望に浸っていたのだ。
繰り返される怪我、そして手術。
拍手の響く舞台に立つことが、いつしか底なしの恐怖に変わった。逃げるように帰国し、精神科の白い椅子に座り、鏡に映る「私という空虚」を突きつけられる日々。
「休んでもいいんだよ」
世間に溢れるその慈悲深い言葉は、私にとっては救いなどではなかった。それは、すでに傷だらけになった私の心の奥底を、さらに深く、容赦なく抉り出すシャベルだった。
けれど、たぶん。おそらく。
私はその致命的な重症に、気づかない振りをしていたのだ。
四六時中「死」を希求していたわけではない。世の深淵を歩く鬱病の人々に比べれば、自分は随分と楽観的で、むしろ生に無頓着ですらあると思っていた。死ぬことに、特別な興味さえ抱いていなかった。
それなのに、この囁きは、あまりに不意に脳裏に染み出した。
「ああ、もういいかなぁ」
そんな、今日のご飯でも決めるような軽い独り言をこぼしながら。
私は屋上から、まるで馴染みの散歩道を歩むような足取りで、空へと踏み出した。
気がついたときには、足もとから大地がするりと剝がれ落ちていた。落下の最中にどんな風景を見たのか、どんな感触を味わったのか――それらの記憶は、残念ながらぽっかり失われている。
けれど想像はつく。あの瞬間は、きっと息の仕方すら忘れてしまうほど居心地が悪く、そして冷たかったのだろう。意識という名の灯火が、風に消されるように一つ、また一つと消えていく。
虚無。空白。裂け目。
心の中にぽっかりと穿たれた穴だけが、はっきりとした輪郭を持ってそこにあった。
――ああ、結論をまだ言っていなかった。
要するに、あれは私の意思だったのだ。私が自分の足でその淵へ進み、私が自分の意志で終わりを選んだ。兀斗は関与していない。ドラマでよくあるような――背中を押す、差し伸べられた手が間に合わない、そんな悲劇的な演出とは無縁だ。
誰のせいでもないし、誰のためでもない。
ただ私が、私自身の判断でそこへ向かっただけだ。それ以上でも、それ以下でもない。
だから大事なことなので、もう一度だけ繰り返す。
私は、自ら終わりを選んだ。
自分の命を手放すという、どうしようもなく重い選択を――
そしてそれは、きっとどんな神にとっても冒涜に等しい行為だったのだろう。
「兀斗はね、最後の最後まで私を止めようとしてくれたんだよ。はっきり覚えてる。ありきたりで、でも一番欲しかったそれっぽい言葉を、全部、全部くれた。だから、兀斗は屋上から先に自分の部屋へ戻っていった。本当なら私も、そのまま大人しくあとを追うつもりだったんだ。そもそも私には、死ぬ勇気なんて欠片ほどもなかったしね。でも――人って本当にわからない。他人も、自分自身でさえも。気づいたときには、私は自然に一歩、踏み出していた。あれが揺るぎようのない事実なんだよ」
まるで紙の上の印字を一文字ずつ指先でなぞるように、私は思い出せるすべてを語っていく。
声にした言葉たちが、淡くほどけていき、同時に私の体もきらきらと粒子のように散りはじめる。あの心臓さんと同じ。
さて、全部思い出した今、この先はどうなるのだろう? 体に戻るのか、それとも――このまま夜空の埃みたいに消えてしまうのか。そんな場違いなくらい楽観的な考えがふわりと脳裏をよぎった。
視界には、呆気に取られた瑠衣と兀斗が立ち尽くしている。
瑠衣は深く息を吐き、「……ふう」と頭をガシガシかいた。
「時間がないみたいだし、今はこれ以上問い詰めない」
「そう」
「けどな、目ぇ覚ましたら教えろよ」
「なにを?」
「お前のこと。全部だ」
――え、やだ。
「言いづらくても、僕は聞き出すからな。だからさっさと帰ってこい。また会おう」
瑠衣は妙にクールに会話を閉じた。
まあ、確かに。ここで湿っぽくしても、私たちらしくない。あっさりしているくらいの方が、きっと丁度いい。
いい歳した大人なんだし……あれ? 大人の定義ってなんだっけ。
そんな取りとめのない疑問の隙間から、生前直前に兀斗と交わした会話が浮かび上がる。血が口端に滲んだまま、地面に座り込んだ兀斗は、じっと私を見上げていた。何を考えているのか読み取れない表情――でも不思議と、その姿が愛おしく見えた。
私のことなんて、ろくに知らないくせに。
他人のくせに。ガキのくせに。
それでも必死で手を伸ばしてくれる人間が、この世にはいるのだと教えられた。
理性じゃなく感情で動く人間が、確かにここにいるのだと。
私の口元が、ほとんど無意識に緩んだ。
……まあ、もう少しだけ生きてみてもいいかなって。
そう思ったのだ。
どうやら今日は――死ぬ日じゃないらしい。
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聞き慣れた靴音が、廊下に小気味よく響いた。
「こんにちは」「こんにちはー」
明るく挨拶してくれる看護師さんには、こちらもつられて元気よく返す。そうでない人には……まあ、そのときの気分次第。こちらから声をかけることもあれば、ただ通り過ぎるだけのときもある。
今日はなんだか足取りがやたら軽く、思わずスキップしそうなほどだった。その勢いのまま、小児病棟の前までたどり着いた――が。
「あ」
カードがない。小児病棟へ入るための、あの面倒な許可カード。私はがっくり肩を落とし、ガラス戸に両手をぺたりとつけた。すっかり忘れていた。ここは、関係者以外立ち入り禁止なのだ。
「うっそーん。ここまで来て入れないー?」
向こう側には、ロビーを駆け回る子どもたち。笑い声がガラス越しにも弾けていて――思わず混ざりたくなる。
「あのぉ、何かご用でしょうか?」
背後から、看護師服の女性に声をかけられた。
「中に入りたいんだけど……」
「あ、ご家族の方ですか? 受付はもう済まされていますか?」
「え、あ、えっと……いや、そう、家族なんだけど」
「平気で嘘つくな」
「あたっ」
脳天にバシンとババチョップが落ちた。看護師は「さ、笹木先生!」と途端に声色を一段高くして、頬を桃色に染めた。瑠衣は簡単に事情を説明したらしく、ものの数秒で中へ通してもらえた。
……一体なにを言ったのやら。まあ、細かいことは気にしない。
慣れた足取りで廊下を進み、とある病室の前で立ち止まる。四つ並んだネームプレートのうち、ひとつだけ見慣れた名前がある。
私は勢いよくドアを開け放った。
「やあやあ、兀斗。やってきたよ。あなたの大好きなお姉さんが!」
「きもいっ!」
「ぎゃふん」
再会の感動を噛みしめる間もなく、視界に飛び込んできたのは無地のクッション。ふわりといい匂いをまとったそれが顔面に直撃し、ボスンと足元に落ちる。ようやく目と目が合う。相変わらず何を考えているのかわからない瞳が。
懐かしい顔が。
「――やっと、会えたね」
「――はよっ」
たったそれだけの挨拶なのに、胸の奥でふっと笑いがこぼれた。
この空気、この掛け合い、この温度。言葉の端に宿る懐かしさが、静かに私の心を温めていく。
――ああ、本当に戻ってこられたのだ、と。
兀斗は一度、そわそわと視線を外し、またこちらに戻す。その癖のある仕草が、どうしようもなく彼らしい。
「名前――もう教えてくれてもいいでしょ」
淡々とした声音に隠れて、ほんの少しだけ躊躇いの影が滲んでいる気がした。
私は小さく息を吸い、胸の内でそっと思う。
――ああ、そうか。もう、名乗ってもいいのだと。
「では」
兀斗がうざいと言いたげに細める視線を、正面から受け止める。その視野をしっかりとノックオンするように、私は真っ直ぐ言葉を落とした。
「星々巡と申します。香久耶兀斗くん」
名を名乗るその瞬間、言葉が小さな灯明のように部屋へ灯り、二人のあいだに新しく始まる物語の気配が、そっと流れ始めた。
改めまして。
私こと――星々巡と申します。
本物語の語り部として、ずいぶん長くお付き合いしてまいりましたが、それも今日で終わりのようです。
振り返れば、私の独り言と、よくわからない祓い屋との奇妙な道行きに過ぎなかったのかもしれません。
気まぐれに話が逸れたり、感情のほつれがそのまま文になったり――まあ、私らしいと言えば私らしいでしょう。
さて、無事に本体に戻ることができた私は、こうして生きています。
目覚めてからしばらくは、失われた筋力やら何やらのリハビリに追われ、兀斗の顔を見る余裕もありませんでした。
けれど今日、とうとう――会えたのです。
もちろん瑠衣には盛大に怒鳴られましたが。あの人は怒るときも妙に理路整然としていて、そこがまた鬱陶しいのに頼もしい。
みなさまにはすでに語りましたが、私の自殺未遂は“衝動的”と分類される類のものです。
つまり、解決したわけではない。消えてなくなったわけでもない。
でも、そういう傷はたぶん時間をかけて、すこしずつ折り合いをつけていくものなのだと、今の私は思っています。
兀斗は、今日の再会のあとで、ぽつりと尋ねました。
「にしても、お姉さん、今のところ生きようって思ってくれたわけでしょ? どういう心変わり?」
「え、私に死ねって言ってる?」
「違うよ。きっかけがわかれば、また何かしでかしそうになったとき止められるでしょ」
「私のこと、大好きだな」
「は? 違うし」
「照れるなって」
「キモい、離れろ」
「可愛いやつめ」
「出てけ」
相変わらずの口の悪さ。
でも、その雑さに救われている自分も確かにいる。
「まあ」
と、私は言葉を切った。
なんというか――
理由は、驚くほど簡単なことだった。
「死ぬのは効率が悪いってことがわかったからかな」
そう。
これが今回の物語のタイトルであり、私が今日みなさまに残す最後の言葉です。
どうか覚えていてください。
“死ぬのは、効率が悪い”――と。
【完】
長いようで短い物語の旅路にお付き合いいただきありがとうございます。
ご感想等お待ちしております☺︎
これからも皆さんが素敵な作品と巡り会えますように




