第25話 「ねえ」
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「ねえ」
たった二文字。隣にいる彼へ向けて発した声は、夜気に吸い込まれたように返事を得られなかった。なので私は諦めて、もう少しだけちゃんとした言葉を探す。
「あのさ、なんかさ、話題ない? このまま二人して黙って夜明け待つのって、ちょっと気まずくない? いや、気まずくなかったらいいんだけど……私は気まずいんだよね」
そこまで一気に喋ったところで、彼の横顔がわずかに動いた。
「雑だなあ、お姉さん。まあ、嫌いじゃないけど。そういうの」
ほんの少し口元が緩んで、そのまま彼はゆるりと真上を見上げた。釣られるように私も天を仰ぐ。
残酷なほど、満点の星空。
息を呑むほど綺麗なのに、胸を締めつける冷たさがある。
「じゃあさ、大人って、いつから大人なんだと思う?」
星の瞬きの下で投げられた問いは、妙に重くて、妙に面白かった。私はゆっくり考える。
「年齢? とか。責任を持ったとき? とか。……それとも、諦めるのが上手くなったとき?」
「大人ねぇ……また面倒くさいの聞くね、君は。なんだろう。お酒飲めるようになったとき?」
「それ、一番制度に従順な答えじゃん。“酒が飲める=大人”。――確かに法律的にはそうだけどさ。でもアルコールなんてただの解禁アイテムでしょ? それ飲めるようになった瞬間に人格が完成するわけないし。むしろ酔って理性飛ばしてる人見てると『あれ、子どもじゃん』って思うことあるし」
「いやまあ……君の言う通り、お酒飲めるようになったからって大人ってわけじゃないんだけどさ。ていうか私、全然飲めないし。でも、飲めない自分とか、酔って子どもみたいになってる大人とか見てると、逆に自覚すんだよ。“あー、自分まだまだだなー”とか“この人は子どもだなー”とか」
私はそう言って、少しだけ肩をすくめた。
「てか、大人と子どもの定義って難しいよね。一般的に考えたら、生体的・社会的に見るしかないんじゃない? 体の成長とか、税金払うようになるとか。――逆に君はどう思うの? 大人と子どもって、何が違うわけ?」
夜の静けさに溶けるような問いかけだった。星空の下、答えのない話題をじりじりと温めるような時間。二人だけの、長い長い夜のはじまりだった。
「――俺はね、大人と子どもの違いは、“自分の選択の責任を引き受けられるか”だと思う」
彼は空を見上げたまま、淡々と続けた。
「税金を払うとか、体が大人になるとか……そういうのはただの条件でさ。社会のシステムに当てはめられただけ。でも――自分の言ったことで誰かが傷ついたとき、“でもさ”“だってさ”って逃げずに、“ああ、これは俺の責任だな”って受け止められるかどうか。俺はそこが境目だと思う」
星明かりの中、淡々と言いながらも少しだけ言葉が震えていた気がした。
「子どもってさ、感情のままに動いても悪いことじゃないんだけど……結果の後始末を、誰かに任せがちでしょ。大人は、自分で撒いた種を、自分で刈り取る覚悟のある人。……まあ、偉そうに言ってる俺も、全然できてないんだけどね」
そこでようやく彼は横を向き、私を見る。
「でもさ、お姉さん。“まだまだだな”って思える人って、案外もう子どもじゃない気もするけど」
「優しいこと言うね、君。私を煽てても何も出ないよ? まあサインぐらいならあげてもいいけど」
「……は? 誰が煽てたって?」
片眉を器用に上げながら、彼はこちらを見る。
「俺、事実言っただけなんだけど」
「……訂正。君、冷たいな」
「俺はただ、対等に話してるだけだし。てかお姉さんって、人に褒められるといつもそうやって茶化すの?」
「痛いところ突くね〜君」
「だって話し始めようと言い出したのお姉さんじゃん。会話を続けるために細かいところまで気を配ってる俺に、むしろ感謝してほしいくらいなんだけど」
その軽口のあと、ふたりの間をふわりと夜風が抜けていった。生ぬるい風。夜明け前特有の静かな気配。この妙に達観しているガ――いや、彼は、まるで風そのものだった。掴もうとすればするほど指の隙間から滑り落ちていくような、そんな存在。会話していても、時々、空気と喋っているみたいな気がした。
何を返せばいいのか言葉が見つからない。
いや、見つける意味さえ見出せなくなって、私は再び屋上の広がる闇の景色へ視線を戻した。
ふと、ポケットの中のタバコの存在を思い出す。無意識に手が動きかけて――私はその手を引っ込めた。
……子どもの前で吸うもんじゃない。
あ。
――そっか。
子どもの定義って、なんだっけ?
夜空の下、答えの出ない問いだけが、胸の奥でゆっくりと形を変えていくのだった。
「話を変えよう」
私は隣にいる彼へそう告げた。夜の空気を区切るように、言葉がぽつりと落ちる。
「君、好きな星とかある?」
自分でもけっこう良い質問をしたと思う。この沈黙続きの夜にはちょうどいい。
「好きな星か。うーん、シリウスかな。……冬の夜にやたら明るいやつ」
「すご。君、星わかるんだ。てかその、シリウスってどの星?」
私は真っ暗な空を見上げる。星々が点々と散らばり、どれがどれなのか判別がつかない。
オリオン座は……あれかな、となんとなく目で追っていると、彼が隣で静かに腕を上げて一点を示した。
「シリウスはおおいぬ座のいちばん明るい星。っていうか、夜空でいちばん明るい恒星。日本だと冬の南東の空に出てて、すごくキラキラしてる。オリオン座の左下あたりを辿ると見つけやすい。ほら――あれ」
指された方向に、ひときわ鋭い光があった。
「オリオン座とこいぬ座と合わせて『冬の大三角』って呼ばれてるやつね」
「あーなんか聞いたことあるわ、それ」
へえへえ、と私は相槌を打つ。
「お姉さんは? 好きな星」
「んー……私はやっぱりオリオン座かな。小さい頃から見慣れてるし。見上げるたびに思うんだよね。“ああ今日も世界は変わらないんだな”って。……“私を置いていくんだなぁ”って」
「今日も世界は変わらない……か。俺はそうは思わないけど」
「へ?」
「星はさ、変わらないように見えて、実際はずっと動いてるし、変わってるよ。ただ、人間の時間が短すぎて見えないだけ」
「そうなの?」
「……お姉さんが置いていかれるって感じるのはさ、世界が進んでるからじゃなくて、自分がその場所で立ち止まってる気がするときなんじゃない?」
「ほんと鋭いね君。なに? 流石に怖いんだけど」
自分だけ立ち止まってる……まあ確かにそうかも。
「時間が止まればいいって何度も思ったし。この幸せの記憶のまま死ねたらどれだけ楽か、とか」
「……それ、綺麗すぎる考えなんじゃない?」
「どこがよ。ほら、どっかの俳優だって“綺麗なまま死にたい”って言って若くして死んだじゃない。そう考える人も一定数いるってこと」
「俺、そんなの綺麗事だと思うけど」
彼は淡々とした声で切り出した。
「幸せの頂点で止まりたいって気持ちはわかる。これ以上悪くなるくらいなら、ここで終わりたいって考えもさ。でも……そこで終わらなくても、幸せって別に一回きりじゃないと思う。人間ってわりと図太いから、“あれが一番だったな”って思ってても、普通に更新されてくんだよ」
星明かりの下で、彼の横顔は妙に大人びて見える。
「俺はさ、幸せの記憶で終わるより、“また更新した”って言える方がちょっとかっこいいと思う。今日もよく頑張った自分を褒めて、また明日、人生を更新していくの」
「また更新した……って。君さてはゲーマーだな?」
「ツッコむとこそこ? 今の俺、けっこう深いこと言ったつもりなんだけど」
「よしよし。国語の記述問題は百点をあげよう」
「いらないし。てか、また茶化してるし」
私が伸ばした手を、彼はぱしっと軽く叩く。暗がりのせいで表情はよく読めないが、口元がほんの少しへの字に曲がっているのが見えた。
……もしかして、怒られた?
「だってしょうがないじゃん。私、そういう話苦手だし」
「そういう話?」
私はため息を吐き、フェンスに肘を預ける。ひゅう、と冷たい風が喉を撫でていく。
――人生なんてただのゲーム。
神が勝手に与えてきた、どうでもいい遊び。
私にとっては、なんでもない時間。
「深く考えるのとか、人生を頑張る意味とか……そういうの、好きじゃないんだよ。疲れちゃうし」
「自分の本心に気づくから?」
「ちょっと、お姉さん、まだ話してるんですけど?」
「今さら隠すなよ、お姉さん。……俺、もう察してるから」
「――は?」
なんなんだ、ほんと。このガ――。
「死ぬの?」
――は?
「自殺しようとしてたんでしょ」
大きな瞳が、真っ直ぐにこちらを射抜く。逃げ場なんてどこにもなかった。心臓を素手で掴まれたような、ぞくりとする冷徹さ。否定したかった。なのに、否定しきれない自分がいる――。
その事実を、今ようやく思い知らされた。そして彼は、付け足すように静かに言った。
――俺が壊してあげてもいいよ。
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