第20話 「あれはほっておけないな」
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「あれはほっておけないな」
翌日。病室に入ってくるや否や、笹木せんせーはスツールにどかりと腰を落とし、もう一度ぼそりと、「……ほっておけねぇな」と呟いた。
今日はあの騒がしい同居人は姿を見せない。部屋には、俺と笹木せんせー、お姉さん、そして幽霊さんだけがいる。笹木せんせーは手術明けなのか、いつものように首をぐるりと一周させた。骨が鳴る音が、妙に病室に響く。
「あれって、昨日のあれ?」
「ああ、そう」
「あれ、なんなの?」
「まあ、わかりやすく言うなら悪い霊。どうしようもない怨念の塊、って感じだな」
「人?」
間髪入れずにお姉さんが問う。昨日の黒い靄には、形らしい形がなかった。人というより、影だった。笹木せんせーは眉間を揉みながら言う。
「いや……んー……まあ、元は人かもしれない。いや、人じゃないこともある……つーかダメだ、頭が回らん。糖分くれ、糖分」
手をひらひらと俺に向ける。慣れた動作だ。俺は黙って引き出しから某有名キャラメルを取り出して渡す。医療ドラマで術後に甘いものを大量に摂るやつがあるけど、笹木せんせーもかなり近い。キャラメルを口に放り込んだ瞬間、せんせーの顔色に生命が戻る。その代わりに、俺が説明を引き継いだ。
「怨念だから、人とは限らないよ。たまに鉛筆だったり、空気だったりするし」
「なんだそれ!」
「向こうはね、視える人と視えない人を正確に嗅ぎ分けてくるんだ。だから厄介。特に、視える人を狙ってくる」
「はあ……。じゃさっき瑠衣が言ってた“ほっておけない”っていうのは?」
「ああいうのは周りに影響を及ぼすんだよ。目に見えなくてもな」
笹木せんせーはそう言いながら、口の中でキャラメルを器用に転がした。甘い香りが、静かな病室にほんのり広がる。
「たとえば?」とお姉さんが問う。
「まあ……入院患者の病状が悪化したり、ナースコールが鳴り止まなくなったり、最悪の場合は急変患者が多発したり、だな」
こっちはせっかく治してるってのによ、と瑠衣はぼやくように付け足す。祓い屋でありながら医者としても働く彼は、二つの立場からあれの害をよく知っているのだ。
「まあ、対処法を探すから数日間は様子見だな。……お前は無闇矢鱈に歩き回るなよ。特に夜間は」
夜に徘徊する癖があることを完全に見破られていたらしい。“くそ……”と顔に書いてあるお姉さんは、バレたと悟ったのか渋々と手をひらひらさせた。そこから俺と笹木せんせーは、昨夜の状況の共有に入る。
俺は相当な悪気をくらったはずなのに、いつもより身体が楽だった。その理由を探る必要があった。
「つまり、お前はあいつに触れられて——立つことも、走ることもできたと? 気が抜けたのに?」
「……うん」
俺は小さく頷いた。部屋の端では、お姉さんと幽霊さんが並んで窓の外を眺めながら、他愛もない会話をしている。早朝の光が二人の輪郭を淡く縁取り、まるでそこだけ別の世界のように見えた。
お姉さんに触られた瞬間の、あの温かさ。流れ込んできた気。足が動いた、あの感触。
——あれは一体、なんだったんだ?
胸の奥で、言葉にならないざわめきがまだ続いていた。
「確信はないけど……多分お姉さんには何かしら、不思議な力があるんだと思う。それか、ただの俺の勘違いか。どっちかだよ」
言い終えると、笹木せんせーはしばらく無言で考え込んだ。やがて、ぽん、と俺の肩に手を置く。その瞬間、ふわりと体が軽くなる。
「……色々ありがとうな。暫く、厄介ごとは運ばないようにするから。お前は休んでろ」
突然の感謝に、思わず肩をすくめる。
「別に。いつものことだし」
祓い屋として生まれた以上、誰かに利用されたり巻き込まれたり——そんな運命にはもう慣れていた。
笹木せんせーはふっと目線を落とし、静かに言った。
「こっちで何とかするから……あいつのことだけ、お願いしてもいいか?」
あいつ——お姉さん。
その名が出た瞬間、一つ、冷たい風が部屋を横切った気がした。本当に風が吹いたのか、それともただの気配なのかは、わからなかったが。
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