第16話 Sleeping Beauty
――スリーピングビューティー。
それが、眠り続けるあのお姉さんに付けられた愛称だった。噂好きの看護師たちは今日も廊下のあちこちでその名をひそひそと転がしている。
昼過ぎに目を覚ました俺は、軋む身体を起こして自力で車椅子に移った。病室の扉を押し開けると、小児病棟特有のにぎやかな笑い声が飛び込んでくる。その合間に、看護師たちの世間話が混ざり、遠くで波のように揺れていた。
どうやら今日もスリーピングビューティーは美しいらしい。
その言い方だと、まるで日ごとに美しさが増しているみたいだ。
——なら、一度くらい見てみたい。
そんな単純な好奇心に押され、俺は病棟を抜け出した。
俺の見た目は、子どもらしくない。中学生にしては背が高く、車椅子に座っていても骨格の大人びた感じが隠れない。不自然なほど長く伸びた足は直角に折れ曲がり、顔だちも幼さより陰影のほうが勝っていると自覚している。
そのせいか、小児病棟を抜けて一般病棟に向かっても、誰一人俺を止めなかった。階段横のスロープを上がり、中庭を横切る。ガラス張りの天井から降りそそぐ午後の日差しは穏やかで、人工芝の上では子どもたちと付き添いの大人が気持ちよさそうに目を細めていた。その静かな明るさの中を通り抜け、俺は五階の五〇四号室の前で車椅子のタイヤを止めた。
運良く、ドアは細く開け放たれていた。
外からでもひと目で気づく——ベッドの上で、ひとりの女性が静かに眠っている。
胸あたりまで布団を掛けられ、口元には細い管。一定のリズムで機械が時を刻み、その音に合わせるように胸がゆっくり上下している。長いまつげは影のように頬に落ち、微動だにしない。
確かに——。
確かに彼女が眠れる森の美女と囁かれる理由がわかる気がした。そこだけ時間の流れ方が違っているような、淡い孤島。白い肌と、黒く長い髪。そのコントラストが人形のような完成された静謐をつくり出している。キスで目覚めるどころか、触れることすら許されないような、か細い静寂が漂っていた。
そのとき、看護師たちの話し声が近づいてくるのに気づき、俺は慌てて車椅子のタイヤに手を添えた。
「こんにちは」できる限りあどけない笑顔を作って挨拶する。「こんにちは……あら?」しまった、バレたか。「君、香久耶兀斗くんだよね?」「チガイマス」我ながら滑稽すぎる嘘だとわかっていた。
看護師と俺のあいだに、ひやりとした沈黙が落ちる。耐えきれず、深くため息をついた。
「……ごめんって。ただ、ちょっと外の空気を吸いたかったんだ」
年相応のあどけない、少し居心地の悪い笑みが自然と浮かんだ。
「そうね。ずっとあの部屋に閉じこもっているのは、そりゃあ窮屈よね。でも、だからって一般病棟に来たらダメよ。どんな菌が漂っているかわからないんだから」
首から下がるネームプレートには『簪』と書かれていた。その名前に似合う落ち着いた声で、彼女は俺を諭すように言う。俺は素直に頷いた。
「もしかして……あなたもスリーピングビューティーの噂を聞きつけて来たんじゃない?」
こういうときの女の勘って、どうしてこんなに鋭いんだろう。
俺は図星を刺されて、思わず顔に出た。
「い、いや別に。知らないし。そんなやつ……きっしょ」
「そんな動揺した顔で言われてもねぇ。説得力ないのよ、兀斗くん」
「は、はあ。別に、そんなつもりじゃ……」
簪さんは小さく笑って肩をすくめた。
「わかるわよ。あんな有名人、気にならないほうが無理だもの」
「有名人……? 芸能人か何か?」
俺の頭には、テレビやネットで見るモデルや女優たちの顔が浮かんだ。——眠っていてもわかった。あのスリーピングビューティーの美しさは、それに匹敵する。布団の下に隠れた体つきも、きっと誰より映えるんだろう。ただ、個人的にはもう少し肉付きがよくてもいいのにな、なんて思う。俺自身が細いから余計にそう感じるだけかもしれないが。
簪さんはゆっくり首を横に振った。
「バレエダンサーですって。ネットで調べれば、けっこう情報出てくるわよ」
病室の前に残る静けさと、機械の規則的な音。その向こうで眠る有名人の姿が、俺の胸の奥でまたふわりと存在感を増した。
バレエダンサー——聞き慣れない単語を頭の奥にぎゅっと押し込んで、兀斗は自分の病室へ戻った。四つ並んだベッドのうち、ひとつだけが自分のもの。そして残り三つには——
「やっ、兀斗がかえってきた」「たかとが帰ってきた」「いつもの車椅子だ」「くるまいすだ」「サイズ合ってないね」「あってないね」
「……五月蝿い」
「やっ、うるさいって言った」「兀斗が返事した」「へんじした」
病室の空気が一気に賑やかになる。小さな足音が、床から壁へ、天井へと跳ね回るように響き渡った。兀斗は病室のドアを少し強めに閉めた。自分の声が外に漏れて、周囲に変な子だと思われないように——いつもの癖だ。
この三人は、この病室に憑いている霊だ。
入院してすぐ、彼らはまるで「待ってたよ」と言うみたいに姿を現した。笹木せんせーは「悪さはしない霊だから大丈夫」と言っていたが、問題はただ一つ。
——とにかく、信じられないほど五月蝿い。
寝不足になる日もあるくらいだ。だから基本、無視を貫く。これがいちばんいい。
兀斗はベッドに戻り、隣の棚の引き出しを開けた。銀色のノートパソコンが裸のまま収まっている。それを取り出し、ベッドテーブルに置いて起動した。
「……お」
検索にかけると、すぐに顔写真とウィキペディア、Instagramのアカウントが飛び込んできた。本当に有名らしい。スクロールし、適当に気になるサイトを開いていく。ふと、海外の記事らしきページが目に留まった。
【big news……プリンシパル、度重なる怪我により帰国…】
プリンシパル——どんな単位なのか見当もつかない。けれど、そこに掲載された舞台写真は、素人の俺でもため息が出るほど輝いていた。誰よりも高く跳び、誰よりもしなやかに回転し、ライトを浴びて存在そのものが光っている。記事を読み進めると、どうやら怪我の治療のため日本に戻っているらしかった。
だが——。
どうしてこんな地方の病院に? 都内の一流病院なんていくらでもあるだろうに。
それにこの病院は祓い屋が絡んでいて、ただの総合病院とはちょっと違う。わざわざここを選ぶ理由なんて、普通はない。
「……ま、俺が気にすることじゃないか」
パタン、と兀斗はパソコンを閉じた。霊たちが「おわった」「おわったね」とはしゃいでいるのを無視しながら。
そして——
その数年後。
あのお姉さんは、本当にスリーピングビューティーになってしまった。




