第21話 遠い記憶の物語(後編)
「ユーデル様、急いでください。水鏡が大きく揺れています!」
「今すぐに行く。誰かデウス様を呼んできてくれないか」
ルーグを映す水鏡は赤く光を放ち、ガタガタと揺れ動いていた。
即座に両腕を前に翳して、神力を送り込むユーデル。
この危機に何とか対応しようと、ルーグを支える天界人も必死に駆けずり回っていた。
「ユーデル、何事だ?」
慌てた様子の創造神デウスが、声をあげる。
「デウス様、以前報告していたルーグ内乱の拡大です。各国の欲望が肥大化して、一国が破滅の魔法を展開しました」
ユーデルは水鏡から顔を動かすことなく、事実をデウスに告げた。
「……何てことを」
悲嘆の滲むデウスの声にユーデルは続ける。
「今神力を送り込み、破滅の魔法を抑え込んでいますが……、人々の負の感情が大きすぎて、いつまで堪えられるのかわかりません」
額に大粒の汗を滲ませたユーデルに、まわりから心配の声が溢れ出した。
「他の神々に神力を注いでもらえば……」
「そうだ、アース様やセレナ様を呼んでこよう!」
天界人の声が耳に届いたユーデルは、一度だけ振り返ってそれを制する。
「だめです。神力はその世界を創造した者と同じでないと、破滅が進みます」
「じゃ、どうすれば……」
落胆と悲嘆が入り混じる中で、とある声が上がった。
「ディセルネ様!ディセルネ様なら……」
「そうだよ、ディセルネ様はユーデル様の神力でお育ちだ」
「なりません!ディセルネを巻き込んではいけません!」
普段声を荒げることのないユーデルの怒声に、誰もが息を呑む。
ほんの数メートル先に見えるユーデルを、ディセルネは黙って見つめていた。
そんな彼女にヤーナが鼻をすり寄せる。
「ディセルネ、やれそうか?」
「……」
「ディセルネ、お前の神力でユーデル様を助けてくれるか?」
「ユーデルを助けるのかえ?」
「ああ、このままだとユーデル様の世界は壊れる……。
そうなるとユーデル様も……」
普段は力強く明るいヤーナの声色が、どこか暗く沈んでいる。その違いに、ディセルネの瞳が微かに揺れた。
「妾の神力を使おうぞ」
「……ああ、頼んだディセルネ」
自らの意思で足を進めてやってくるディセルネに、大きく目を見開いたユーデル。
「ディセルネ?」
ちらりとユーデルに視線を向けたディセルネは、その細くしなやかな手を水鏡に翳した。
「ディセルネ!なりません!」
焦りを帯びたユーデルの声に、ゆっくりと弧を描いた彼女の口角。
「ユーデル、……妾なら大丈夫じゃ。其方と同じ神力じゃからのう」
そう言って手掌に集めた神力を、全力で水鏡に注ぎ始めたディセルネ。
「……ありがとう、ディセルネ」
ユーデルが優しく目を細めると、薄く張った涙の膜が揺らいで一雫溢れた。
「おお、赤い光が弱まっていくぞ」
「破滅は免れたか……」
人々の安堵の声が沸き始めたその時、
「ディセルネ、離れて!」
緩み始めた緊張を呼び戻すかのような、危機迫る叫び。
勢いよく突き飛ばされたディセルネ。
それと同時に水鏡から真っ赤な火柱が上がった。
――ガシャン‼︎
「何事だ!」
デウスの一際大きな声が上がるが、それはルーグを映す水鏡が砕け散る音にかき消される。
ユーデルが居たであろう場所は、立ち昇った噴煙で彼の姿が見えなくなっていた。
「ユーデル様!」
悲痛なヤーナの叫び声が響く。
全身の毛を逆立て風を呼び起こす神獣ヤーナ。
突風にも似たそれは、辺りの白煙を外に流した。
薄く揺らめく人影に、誰かの安堵のため息が混じる。
「ユーデル様だ」
徐々にはっきりとする彼の姿に、聞こえたのは声にならない悲鳴。
目の前のユーデルは、髪も頬もその衣も、目を覆いたくなるほどの惨状だった。あれほど美しかったユーデルから想像もつかない今の姿に、息すら忘れて動けない人々。
もう立っていることが不思議なくらいの彼は、まだ真っ直ぐにそこに居る。
ただ優しげに瞳を細めて見つめるのは、目前のディセルネとヤーナ。
「ディセルネ、突き飛ばして悪かったね。怪我はないかい?」
「……ユーデル」
普段感情が動かないディセルネも、大きく目を見開いて彼を見つめていた。
「人間の負の感情は形をなすと、神でさえどうする事もできないんだよ。小さな綻びなら、神力も使える。でもね、神さえ人の心は動かせない事は、忘れてはいけないよ。神はあくまで見守る存在だから」
ふと自身の体に目を向けたユーデルは、己の手足が淡く光り始めたことに気がついた。
一度深く瞳を閉じると、いつもの穏やかな微笑みを讃える。
「おいでディセルネ、ヤーナ。」
そう言って両腕を広げるた彼の体は、輪郭がぼやけ始めていた。
ヤーナに背を押されてやってきたディセルネの頬をそっと撫でて、目尻を下げる。
「ディセルネ、君にはちょっとだけ感情のカケラが足りなかったのかもしれないね。ほら、これをあげよう」
ユーデルは自身の胸に手を当てて命のカケラを取り出すと、ディセルネの両手に握らせた。
一瞬白く光を放ったそれは、溶け込むようにディセルネの内へ消えていく。
目を見開き手のひらを見つめる彼女に、「ディセルネに必要なものだよ」と優しく告げるユーデル。
頭を擦り寄せてきたヤーナと、ただ呆然と立ち尽くすディセルネを、彼は薄れゆく両腕でしっかりと抱きしめた。
「ヤーナ、ディセルネをお願いするよ。ディセルネ、ゆっくりでいいから心を知りなさい。
私の可愛い子ども達……」
優しい穏やかな風が吹くと、光の粒子となったユーデルの姿は消えていった――――
支えをなくして傾いだディセルネの体を、ヤーナが咄嗟に受け止める。消えた温もりの残像を探すように、ディセルネの腕が宙を彷徨った。
「ユーデル」
彼の名を呼ぶディセルネの瞳から、一雫落ちた何か。
これが何か、なぜ溢れ落ちたのか、今のディセルネにはわからない。
*****
ユーデルの託した想いは未だ実らず、数百年の時が過ぎ去っていった――――
「なぜ妾が追放なのじゃ?
デウスさま、妾は何もしておらぬ。なぜ……このようなことを!」
「ディセルネ、今一度、己を振り返り、何か足りないのか、どう在るべきなのか。その名の通り、見極めておいで。
其方自身を、そして其方の生み出した世界を」
「デウス様、ディセルネは物事を知らないだけなんです。
きっと一人では生きていけない。
どうか、私が共に行く許可を!」
光の粒子となって下界へと赴くヤーナの耳に、いつかの懐かしい声が届く――――
“ヤーナ、ディセルネをお願いするよ”
「ユーデル様、ディセルネは俺が守ります。だってこいつは、俺の妹だから」
*****
時は戻って今現在――――
「ディーちゃん、どうしたの?何だか寂しそうだよ?」
家々に帰って行く子ども達を見送るディセルネに、シェリールが問いかけた。
振り返る子ども達に手を振りながら、どこか遠くを見つめるディセルネ。
シェリールは彼女の頭にそっと手を添えると、優しく髪を梳くように撫で始める。
彼の手の温もりを感じ取ったディセルネは、ゆっくりと後を振り返った。
真っ直ぐにシェリールを捉えた瞳は、微かに揺れておりその表面は薄い膜で覆われている。
徐々に膨れ上がる涙の膜を必死に留め置くように、両目に力を込めたディセルネ。
揺らぎそうな声を、手を握りしめることで何とか堪えていた。
「のぅ、シェリール。少し前に妾は、“家族はいた事がない”と言うだろう?」
「そうだったね」
震え始めた唇を少し噛んで、思いを言葉にし始める小さな女神。
「妾には、ちゃんとおったんじゃよ。妾を大切に育ててくれた家族がのぅ……。
なぜ、今まで気がつかんじゃったのか、妾は今になって“ここ”が苦しゅうなっとる。
あんなに妾を大切に育ててくれたのに、妾は最後の最後まで“ありがとう”と言えんかった……」
自身の両手で胸を押さえて、ポタポタと大粒の涙をこぼし始めたディセルネ。
締め付けられるような苦しさが、
取り戻せない時間が、
二度と触れることのない温かさが、
ただ“ここ”に宿っていると言わんばかりに、自身の胸を押さえつけた。
「大切な人だったんだね」
柔らかい声で語りかけたシェリールは、そっとディセルネを抱きしめる。
「もう会えんようになって、気がつくなんて……
妾はどうしたらよいのじゃ」
嗚咽混じるディセルネの後悔に、そっと寄り添うヤーナ。
『なあ、ディセルネ。ユーデル様は俺とお前の中にいるだろ?
ちゃんとユーデル様からもらった命のカケラが、ディセルネに心をくれたじゃないか。だから、泣くな。
ユーデル様は、俺たちの中にいるんだ。
お前は、俺が守ってやる!だから、お前はお前のすべき事を探すんだ』
ディセルネの頭の中に蘇る懐かしい景色――
いつも側にあった優しい温もり。
穏やかに語りかける心地よい声。
“ディセルネ、外側の豊かさも大切だけど、内なる豊かさも忘れてはいけないよ”
――――そうじゃな、ユーデル。妾はようやくこの意味がわかったぞよ。




