第22話 家に帰ろう
すっと通り抜ける穏やかな風――
その流れに乗って、野菜を煮込んだ優しい香りや、焼けた肉の香ばしい匂いが漂ってきた。
先の山々に半分ほど隠れはじめた太陽が、今日の終わりを告げはじめた夕方。
あちこちの家々から台所の忙しい音と、空腹を刺激する美味しそうな匂いが、この辺り一帯を覆いはじめる。
マルタの家の庭を、匂いを追いかけて走り回るヤーナ。
そんな愛らしい仔犬の様子を、微笑みながら見守るシェリール。彼の腕の中には、ぐっすりと眠っているディセルネがいた。
「おや、 ディセルネちゃんは眠ってしまったんだね?」
シェリールの腕に抱えられ、まるでしがみつく様に眠っているディセルネの顔を覗き込んで目を細めたマルタ。
「はい、ちょっと泣き疲れたのかな?」
沈みゆく太陽のオレンジの光が、優しくディセルネの頬に差し掛かると、シェリールは自分の手で包むように彼女の顔をそっと撫でた。
「何かあったのかい?子ども達とケンカでもしたのかい?」
心配を滲ませたマルタに、ゆっくりと首を横に振ったシェリール。
「ケンカじゃないんです。ちょっと昔を思い出したみたいです。
ディーちゃんにとっての、大切な思い出と記憶なんだと思います」
ディセルネの顔にかかる髪の毛を指で優しく払うと、彼女の瞼が静かに持ち上がった。
「……シェリール。
妾は、寝てしもうたようじゃ……」
小さな手の甲で目を擦りながら、身をよじるディセルネ。
「目が覚めたんだね。眠いなら、まだ抱っこするよ」
優しいシェリールの言葉に少し眉をさげたディセルネは、
「ありがとうのぅ……、もう大丈夫じゃ」と彼の腕からポテっと滑り降りた。
『お目覚めかい?女神さま』
ディセルネの足元に走り寄ってきたヤーナは、いつも通りのトーンで念話を飛ばす。
『ヤーナ、心配かけてしもうたのぅ。妾はもう大丈夫じゃ。ちと、昔を思い出したんじゃ……。
今になってユーデルの言葉の意味がわかったんじゃよ。あの頃ちゃんとわかっておれば、ユーデルに親孝行できたのかもしれんのう……』
少しだけ勢いの落ちたディセルネの念話に、ヤーナが明るく返した。
『今だから、わかったんだよ。ディセルネがもらった命のカケラが動き始めたんだ。
……きっと、あのまま天界にいても、今の気持ちはわからなかったさ』
屈んだディセルネはヤーナの白いふわふわした体に顔を埋めると、気恥ずかしいそうに念話を送る。
『ヤーナ、ありがとうのぅ。妾をいつも見守ってくれていて。
……ユーデルにも“ありがとう”って言いたかったぞよ。
もう、直接は言えんがのぅ』
『届いてるさ。そう信じようよ』
『そうじゃのう。ヤーナが言う通り、ユーデルの命のカケラも神力も、妾の中に生きとる。
それに、ヤーナの体の中にもユーデルの命のカケラと神力がある。
……妾たちは、ユーデルの分身じゃ』
顔を上げたディセルネは、意志のこもった瞳でヤーナを見つめた。
『あぁ、俺たちはユーデル様の子どもだからな!
そして俺は、お前の兄貴だ』
フンっと鼻息を飛ばしたヤーナは、胸を張るように言い切ると、ディセルネの頬をぺろっとひと舐めする。
『ヤーナが兄上なのかぇ?
まぁ、誕生した順番から言えば……そうなのかもしれんのぅ』
『そうさ、俺が“兄上”だぞ。ちゃんと敬えよ』
モコモコしたしっぽを元気よく振りながら、「ワン」と仔犬特有の可愛らしい鳴き声が響いた。
「何だか二人とも楽しそうだね。そろそろ暗くなりそうだから、宿を探しに行こうと思うんだけど?」
近づいてきたシェリールが、ヤーナの白いふわふわした頭を優しく撫でる。
それから、さっとディセルネを抱え上げると、マルタに向かって声をかけた。
「マルタさん、お世話になりました。美味しいアップルパイもご馳走さまでした。
そろそろ宿を探しに行こうと思うので、失礼します」
マルタに向かって頭を軽くさげたシェリールを真似て、ディセルネも「マルタおばちゃん、ありがとうございましたなのじゃ」と体を前に傾けた。
「おやまぁ、ご丁寧ありがとうね。
シェリールさん、わざわざ宿なんか取らなくても、我が家に泊まっていきなよ。もうじき息子も帰ってくるからさ。歳の頃もシェリールさんと近いから、話も合うんじゃないかと思って、お酒も料理も用意しちまったよ」
シェリールの元へ近寄ってきたマルタは、ディセルネに向かって手を伸ばすと「ディセルネちゃん、おいで。あったかい紅茶をおばちゃんと飲もうね」と小さな女神をひょいと抱き抱えた。
スタスタと玄関前に足を進めたマルタは、振り返って笑顔で二人を呼ぶ。
「ほら、陽が沈むと冷えちまうから。ヤーナくんはミルクでも飲むかい?
シェリールさんも、早く家に入ってきな」
シェリールの腕は、ディセルネを抱えていた格好のまま固まって動かない。
そんな彼の足めがけて突進したヤーナは、『ほら、行くぞ』と念話を飛ばす。
シェリールはハッとした表情を浮かべると、ゆっくりと口角をあげた。
「お母さんって、こんな感じなのかな……」
風にかき消されるほど、小さなシェリールの呟き。
誰の耳にも届くはずのない、微かな胸の内。
『……』
誰に向けられたものでもない小さな囁きは、神獣の耳に確かに届いていた。
「……あっ、はい。お世話になります。
ヤーナくん、行こうか」
最後のオレンジ色が消えた藍色の空――
消えた暖かさを取り戻すように、次々と窓から淡い光が漏れはじめた。




