第20話 遠い記憶の物語(中篇)
「ディセルネ、こちらへおいで。髪をとかしてあげるから」
ユーデルとヤーナ、そしてディセルネがいつも一緒にいるのは、すでに天界の日常となった。
「ほら、ディセルネ、こっちだ。ユーデル様が呼んでるだろ?」
「……」
「もう、お前は人形なのかよ。ちょっとは意思表示しろよな」
一向に動かないディセルネを口に咥えると、ヤーナはユーデルを目がけて歩き出す。
「あらら……ヤーナ、連れてきてくれたのは嬉しいんだけど、ディセルネが君のよだれでベタベタだよ」
ヤーナからディセルネを受け取ったユーデルが、近くの布で彼女を拭いながら笑い出した。
「ディセルネも、もう少し自分の事は自分でできるようにならないといけないよ」
優しく諭すようなユーデルの声に、ヤーナも大きく頷いて同意する。
「そうだぞ、ディセルネ。服くらい自分で着ろ!ちゃんとしたい事や、気持ちは言葉で伝えるんだ。黙ってじっと見てるだけじゃ、ダメなんだぞ」
「まぁ確かにそうだね」
ユーデルとヤーナの会話を静かに聞いているだけのディセルネの視線は、どこを捉えるでもなくただ宙に浮いていた。
「ユーデル様、みんなに言ってください。ディセルネに構いすぎないようにって。こいつ腹減った時も、ただ誰かの目をじっと見るだけで、まわりが察するのを待ってるんですよ。まぁ、誰もがこいつの可愛さに、率先して世話を焼こうとするのも問題なんですけど」
ディセルネの髪に櫛を通しながら、ユーデルが彼女に話しかける。
「ディセルネ、想いを口にするのは難しいかい?いつまでも今のままじゃ、いけないよ。
それに、そろそろディセルネも神々の仕事を始める時期なんだ。君の世界の芽も少しずつ大きくなっているから、創造を形にする準備を始めるんだよ」
「……」
「どんな世界を創りたい?」
「……妾の世界、……ようわからん」
ユーデルの目をじっと見つめて答えるディセルネ。
「ユーデル様、ディセルネには感情がないのですか?こいつの言葉には温度がないんです」
ユーデルとディセルネを囲うように、白い体躯を床に伏せたヤーナ。
言葉こそ直線的だが、彼の心配が滲んでいた。
「ヤーナもそう感じるんだね、実は私も……」
ディセルネの頭を撫でながらポツリと溢したユーデルは、
「でも」と明るく続ける。
「経験が積み重なれば、きっと想いも生まれるはず……。それまでは、私たちがサポートしたらいいんだ」
「ディセルネは俺の妹だからな。仕方ない」
ヤーナが舌でディセルネの頬を舐めると、彼女の眉が微かに動いた。
*****
それから、数百年の月日が巡った天界――――
「ほら、ディセルネ。ベネディグティオの民が呼びかけているよ。君の世界の水鏡が光っている」
自身の世界の見守りの傍らで、ユーデルはディセルネの世界“ベネディグティオ”も一緒に見守っていた。
「……」
ユーデルの側にただ黙って腰掛けているディセルネを、ヤーナが咥えて水鏡まで連れていく。
「ディセルネ、自分で歩けよ。ほら水鏡覗いて」
一向に動かないディセルネに、ヤーナの苦言が落ちるのはいつものこと。
スッと身を乗り出して水鏡を覗き込んだディセルネ。
そう、ただ覗き込んだだけで何もしない。
「ユーデル様、またこの調子です」
ヤーナの声に眉を下げて近寄ってきたユーデルが、ディセルネに問うた。
「ディセルネ、何が見えた?」
「……神殿で祈る人間じゃ」
「何を祈っていたのかわかるかい?」
「……友人の心を救ってほしいと言うとる」
「ディセルネはどうしたい?」
「……妾かえ?」
「そうだよ、君はベネディグティオを争いのない豊かな世界にしたいと願っただろ?」
「……じゃから妾は美しい大地と、豊かな壌土の世界を創った」
「そうだね、それだけでこの世界は豊かになったのかい?」
「……」
ディセルネの顔を覗き込んだユーデルに、彼女は何も答えない。
「ディセルネ、外側の豊かさも大切だけど、内なる豊かさも忘れてはいけないよ。
さあ、彼の祈りに希望の雫を落としてあげるといい」
言われるがまま水鏡に手を翳したディセルネ。一瞬淡く手のひらが光ると、水鏡に幾重もの波紋が広がった。
ユーデルは優しくディセルネの頭を撫でると、言葉を残す。
「人々の心の声を聞き逃してはいけないよ」
「ユーデル様!大変です、ユーデル様の世界“ルーグ”の水鏡が赤く光っています」
ユーデルの世界を共に見守る天界人が、慌てた様子で声をあげた。
「今行きます。もしや……」
「ユーデル様、何事ですか?」
「ヤーナ、危惧していたことになりそうなんだ……。しばらくディセルネを頼めるかい?」
駆け寄ってきたヤーナの耳と尻尾が、だらりと下がる。
「危惧していたことって……」
一度固く目を閉じたユーデルは、深いため息と共に前を見据えた。
そして告げた一言――
「……ルーグの破滅だよ」




