第1章完結 第7話 悪戯と1つの聖
「ふたりを前へ」
重々しい声が響く。
そこは、大聖堂の奥にある一室だった。
荷台から引きずり下ろされた私は、もはや立ち上がる気力もなく、床にへばりついて土下座のような体勢のままぴくりとも動けない。
その横で、ルッカもまた神妙な面持ちでひざまずいていた。
「完成したようじゃの? どれ、あの短期間でやり切るとは到底思えんがな。……おい、布を外せ!」
司教が、疑り深い目を向けながら乱暴に声を荒らげた。
バサッ……!
大きな布が引き剥がされ、白いスタッコの肉体に鮮やかな色彩をまとった「等身大の像」が姿を現した。
「こ、これは……っ!?」
次の瞬間、司教の目が皿のように見開かれた。
先ほどまでの高圧的な態度はどこへやら、彼はガタガタと全身を震わせ、大粒の涙を流しながら拝み始めた。
「マリア様じゃ! 聖母マリア様がここにおられる! この肌の質感、この布越しの神々しい肉体の線……! これぞまさに天上の奇跡じゃああ!!」
歓喜と興奮のあまり、まるで髪の毛を剥げ散らかすかのように激しく床に滑らかな頭を擦りつけてたのだ。
……いや、そもそも最初から一本も生えていなかったのだが。
「素晴らしい! この素晴らしい奇跡を今すぐ民衆にお披露目するのじゃ! このまま、大聖堂へ運べ! すぐに式典じゃ!」
◇
それから、およそ1時間後。
私とルッカは、ついに数千人の熱狂的な信者が集まる式典会場へと連行されたが、お披露目というよりは、もはや見せしめのパレードに近かった。
厳かな賛美歌の大合唱が響き渡り、天井からは真っ白なバラの花びらが雪のように舞い散る。
その中央を絢爛豪華な荷台に乗せられた聖母像がゆっくりと進み、その後ろを死に魍魎と化した画家とそれを必死になって引きずって歩く彫刻家が、民衆の熱狂を余所にただ泥臭く進まされていくのだ。
大聖堂の最前列、一番高い祭壇の上にその聖母像が鎮座すると、司教は両手を天に掲げ、パイプオルガンのような大音声で民衆に叫んだ。
「皆のものよ! ここに、我が教会に舞い降りた聖母マリア様がおられる! マリア様に祝福の祈りを捧げよ!」
地響きのようなコーラスが響き渡る。
私たちは全く興味がなかったが、広大な大聖堂の中は、感動の涙を流しながら床に額をこすりつける人、人、人で足の踏み場もないほどに埋め尽くされていた。
その時だった。
計算されたかのように、天井の巨大な円形ステンドグラスから、正午の太陽が一筋の強烈な光となって差し込んだ。
五色の神聖な光の帯が、じっと白い聖母像を照らし出す。
すると、何ということだろう。
光が当たった像の肌が、まるで本物の人間に命が吹き込まれたかのように、だんだんと温かみのある鮮やかな血色に変化していくではないか……!
「な、何と……! マリア様が今、ここに降臨なされたのじゃあああ!!」
司教の絶叫を合図に、民衆は狂ったように涙を流し、祈りの声を張り上げた。
だが、これこそが変態画家の追求した「究極の美」であった。
この神々しい血色の変化は、寝る間を惜しんで意識朦朧の中で完成させた、独自の『薄塗りグラデーション技術』だ。
何層にも重ねられた透明感のある色彩が、ステンドグラスの特定の光を透過・屈折させることで、見る者の脳に「本物の生身の肉体」であると錯覚させる、ルネサンスの夜明けを告げる異次元の絵画技法。
しかし、その変態的な技術は、太陽の移動とともに最悪の事態を引き起こす。
時間が経ち、太陽が真上へと近づくにつれて、ドンドンと光の強さが増していく。
すると、赤みの差した瑞々しい肌だけでなく、上からまとっていた長いローブの色が、だんだんと“透けて”きているではないか……!
光が強くなればなるほど、ローブの奥にある、ロッシュの欲望のままに盛られまくった完璧なまでの女性の曲線美――すなわち、神聖さとは程遠いグラマラスな全裸が、数千人の信者の目の前で白日の下に晒されていく。
「おい……。あれ、完全に中が丸見えになってきてねえか?」
ルッカが引きつった顔のまま、命がけの囁きを漏らした。
「……これ、今ありがたがって涙流して拝んでる人たち、全員『異端』になるんじゃ?」
涙を流して狂信的に祈りを捧げる民衆へと、彼は恐る恐る視線を巡らせる。
「ふふふふふっ……。これぞ、光と影の融合。これぞ、至高の肉体美である……」
白目を剥いたまま恍惚の表情を浮かべ、トランス状態でブツブツと呟いていた。
意識は完全に飛んでいるはずなのに、己の最高傑作の「美」を前にして、その変態魂だけが不敵に笑っているようだった。
やりすぎだ。
いくらなんでも、かなりやりすぎている。
意識を失して白目を剥いたまま、何かを成し遂げたような恍惚の表情を浮かべているこの変態画家のせいで、聖母マリアもとい「性母ロベルタ」の全裸が、今まさに数千人の信心深い民衆の前で完全におっ広げにされるところだった。
透けゆくローブの向こう、その官能的な曲線美が白日の下に晒されるまで、あとほんの数ミリという絶望的な状況。
ルッカの背中を、人生で一番大量の冷や汗が伝い落ちた、その瞬間だった。
――スゥ……。
絶妙すぎるタイミングで空を流れる分厚い雲が太陽の光を遮ったのだ。
大聖堂の中に差し込んでいた強烈なステンドグラスの光がふっと陰り、透けかけていたローブが元の厳かな色彩へと戻っていく。
「ふぅ……あ、危ねええ……っ!!」
ルッカは胸の中で、神に届かんばかりの感謝を叫んだ。
太陽が隠れたことで、民衆の間から「おお……奇跡の光が……」と落胆と畏怖のどよめきが起こる。
そこにすかさず、我に返ったルッカがもっともらしい弁解を大声でねじ込んだ。
「これぞ神の、いや、マリア様の深き御心! あまりに不浄な者が凝視したため、自らの神聖なお姿を雲で隠されたのです!」
そのハッタリを、誰よりも真に受けたのはハゲの司教だった。
「お、おおお! ! 奇跡じゃ! これぞ大いなる奇跡の顕現じゃ!」
司教は狼狽しながらも、必死の形相で周囲の聖職者たちに怒鳴り散らした。
「なんぴとも、この像に触れてはならぬ! 不用意に近づいたりすると、マリア様の奇跡の力が消えてしまうぞ! すぐに柵を立てよ! 布で隠せ!!」
司教の超絶な勘違いによるファインプレーによって、像の周囲には瞬く間に厳重な柵が巡らされ、近づいて覗き込まれないよう処置が施されたのだった。
こうして教会の権威と、私たちの命は、ギリギリのところで守られたのである。
◇
数日後。宿屋のロベルタの厨房。
「はいよ、特製の肉スープさ。あんたたち、よくやったねぇ!」
ロベルタが豪快に笑いながら、並べられたテーブルに湯気の立つ器をドンと置いた。
「あの司教、あんたたちが起こした『天上の奇跡』をすっかり真に受けちまってさ、今や街中に『我が教会に比類なき天才芸術家ふたりがおられる!』なんてドヤ顔で触れ回ってるよ。」
「へへ、ありがとよ姐さん」
ルッカがスープをすすりながら、隣でキリッとした顔のままスプーンを握っているロッシュを小突いた。
「……で? 奇跡の画家サマ。次は何を描くつもりなんだ?」
ロッシュはスープの湯気の向こうで、相変わらず真っ直ぐな、しかし完全に壊れた芸術家の目で微笑んだ。
「決まっているだろう。次は、ロベルタの、その『溢れんばかりの母性』をだな――」
――バァンッッ!!!
お玉がロッシュの脳頭頂部に炸裂する音が、今日も平和な宿屋に響き渡るのだった。
〈第1章完〉
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