第九十五話 別れを選ぶ日
第九十五話 別れを選ぶ日
父が「いつか自分の意思で保存を終わらせたい」と話してから、レインたちはその日を特別に意識しないようにした。次の通信が最後になるかもしれないと考えながら会えば、どんな会話も別れの準備になってしまうため、ノエルは森で見つけた奇妙な虫の話をし、ルークは古い記録を読み解いて分かったことを話し、カインは自分一人で受けた依頼について、失敗した部分だけを都合よく隠しながら報告していた。
レインも同じだった。冒険者ギルドで受けた依頼の話や、エルが菓子作りを覚えたものの砂糖の量を間違えてミアに止められたこと、アイリスが植物研究所から大量の鉢植えを持ち帰ったせいで拠点の窓際が埋まってしまったことなど、世界の運命とは何の関係もない出来事ばかりを父へ話した。
父は、その時間を楽しんでいるように見えた。
失われた記憶が戻ることは最後までなかったが、今から覚えたものは少しずつ増えていった。ノエルがよく食べることを覚え、ルークが記録を読む時だけ時間を忘れることを知り、カインが口では文句を言いながら結局レインの依頼についていくことも覚えた。
そして父は、四人の息子を過去の記憶によってではなく、今目の前にいる人間として知るようになっていった。
それから半年ほど経った、ある日の夜だった。
いつものように通信を始めると、父は四人の顔を順番に見た後、穏やかな表情で言った。
『今日で終わりにしようと思う』
レインはすぐには答えなかった。
いつか来ることは分かっていたし、その時には父自身の選択を尊重すると約束していた。それでも実際にその言葉を聞けば、頭で理解していたことと感情が同じように動いてくれるわけではなかった。
「何かあった?」
ようやくレインが尋ねると、父は首を振った。
『何もない。だから今日がいい』
「保存状態は安定してる。まだ何年でも――」
そこまで言って、レインは自分で言葉を止めた。
父は以前と同じように静かに笑っている。
『それを言わない約束だったはずだ』
「分かってるけど、確認しただけ」
『なら、確認は終わりだ』
レインは反論できなかった。
ルークは俯いたまま何も言わず、ノエルは父の姿をじっと見つめている。カインだけはいつもと変わらない顔をしていたが、腕を組んだ指に普段より力が入っていることを、レインは見逃さなかった。
最初に口を開いたのはノエルだった。
「僕のこと、覚えてる?」
父はすぐに答えた。
『ノエル。私の息子で、よく食べる。最近はアイリスと一緒に出かけることが多くて、この前はレインの分の肉まで食べた』
「最後のはいらないよ」
ノエルが笑うと、父も笑った。
「昔の僕は?」
その質問には、父は少し時間をかけてから首を振った。
『ほとんど覚えていない』
「そっか」
『すまない』
「いいよ。今の僕は覚えてるんでしょ?」
『ああ』
「じゃあ、それでいい」
ノエルは以前なら言えなかったかもしれない言葉を、ごく自然に口にした。
父が次にルークを見ると、ルークはしばらく迷った後、「僕はもっと話したかった」と正直に言った。
『私もだ』
「だったら残ればいいのに、とは思う」
『そうだな』
「でも、それを僕が決めちゃ駄目なんだよね」
父は頷いた。
『お前たちは随分と難しいことを覚えたな』
「兄さんたちが、ずっとそればかりやってたから」
ルークがレインとカインを見る。
世界継承機構も、観測者も、エルも、結局は同じところへ辿り着いた。相手のためだと思っていても、その人生を代わりに決めてしまえば、それは支援ではなく支配になる。
最後に父はカインへ視線を向けた。
二人の間には、他の三人とは違う沈黙が流れた。
『カイン』
「何?」
『最後にもう一度、謝っておきたい』
「それなら聞かない」
父が僅かに驚く。
「何回謝っても、起きたことは変わらないし、僕が封じられていた時間も戻らない。それに最後の会話まで、その話に使いたくない」
『では、何を話せばいい』
カインは少し考えた後、肩をすくめた。
「僕、この前一人でBランクの依頼を受けた」
「聞いてないぞ」
レインが思わず口を挟むと、カインが露骨に嫌そうな顔をする。
「レインには言ってないからね」
「何で?」
「絶対ついてくるから」
「危険度確認くらいするだろ」
「それをついてくるって言うんだよ」
父が笑った。
『成功したのか』
「当然。僕を誰だと思ってるの」
「途中でノアに相談しただろ」
「それは成功率を上げるための合理的判断」
「一人じゃないじゃないか」
「現地に行ったのは僕一人だからいいの」
兄弟の言い争いを聞きながら、父はしばらく笑っていた。
やがてカインがレインを睨むのをやめ、父へ向き直った。
「だから、もう大丈夫」
『何がだ』
「僕は僕で生きられる。レインと一つにならなくても、父さんに封じられなくても、誰かの捕食核としてじゃなくても、自分で仕事を選んで、自分で失敗して、自分で帰ってこられる」
父の表情から笑みが消え、代わりに穏やかな安堵が浮かんだ。
『そうか』
「それを覚えて終わって」
『分かった』
カインはそれ以上何も言わなかった。
レインは世界継承機構を開き、父の保存状態を確認した。数値は最初から変わっておらず、今すぐ解除しなければならない理由はどこにもなかったが、だからこそ、これは機構が決めることではなく父自身が決めることだった。
【保存個体――本人意思確認】
【個体識別――父】
【保存解除申請――受理】
【解除後――復元不能】
【人格再構築――実行不可】
【記憶補完――実行不可】
【最終承認――本人意思必須】
レインは表示を閉じずに父を見る。
「最後に確認する。本当に今日でいい?」
『ああ。十分に話したからではない。まだ話したいからこそ、今日でいいと思える』
「意味分からないよ」
『いつまでも話せると思えば、いつまでも終われない。だが人間は、本来そういうものではないだろう』
父は四人を順番に見た。
『覚えていないことの方が多い父親だったが、最後にお前たちを知ることができた。それで十分だ』
本人意思確認が成立する。
それでもレインの指は、最後の承認の前で止まった。
世界を救う時には迷わなかった選択が、今はひどく重かった。
すると父がレインへ言った。
『お前は昔から、全部を背負おうとする』
「それも覚えてた?」
『今のお前を見ていれば分かる』
父は少し笑った。
『だが後衛というのは、仲間を永遠に背負って歩く仕事ではないのだろう。自分で歩けるところまで支えたなら、その先は本人に歩かせろ』
その言葉を聞いて、レインはようやく力を抜いた。
「最後まで説教するんだ」
『父親だからな』
レインは笑いながら、最終承認を行った。
【保存解除――本人承認】
【実行――開始】
父の輪郭を形作っていた光が、ゆっくりと薄くなっていく。破壊されたわけでも、どこか別の場所へ送られたわけでもなく、本人が望んだ通り、保存されていた情報の活動が静かに終了していく。
ノエルが「父さん」と呼び、ルークも同じように呼んだ。
父は二人へ頷き、それからカインを見る。
『カイン』
「うん」
『生きろ』
カインは一瞬だけ目を伏せたが、すぐに顔を上げた。
「父さんも、ちゃんと終わって」
『ああ』
最後に父はレインを見る。
レインは何か言わなければと思ったが、長い言葉は出てこなかった。
「父さん」
『何だ』
「ありがとう」
父は静かに笑った。
『こちらこそ』
光が消えた後、世界継承機構の表示だけが残った。
【継承領域内保存個体――0】
【本人意思による保存終了――完了】
【再構築――なし】
【記憶補完――なし】
【保存領域――正常】
レインはその表示をしばらく見つめた後、自分の手で閉じた。
父を二度失ったのではない。最初の死によって途切れていた別れを、ようやく最後まで終えることができたのだと考えれば、胸に残る寂しさにも意味があるように思えた。
「帰ろうか」
レインが言うと、三人が頷いた。
四人で帰還経路へ向かいながら、レインはもう一度だけ誰もいなくなった保存領域を振り返ったが、そこへ父の姿を探そうとはしなかった。
戻る場所には、今を生きている仲間たちがいる。
そしてレイン自身にも、まだ生きなければならない時間が残っている。
過去を保存するためだけに世界継承機構があるのではなく、失われるものを無理に留め続けることが後衛の役割でもない。支えられる間は支え、その人が自分の足で進む時には手を離すことまで含めて、ようやく一つの支援なのだと、レインは父との最後の別れによって理解した。
帰還の光へ入る直前、カインが隣で小さく息を吐いた。
「これで、本当に昔のことは終わったね」
レインは少し考えてから頷いた。
「ああ。たぶん、今度こそ」
その先に何があるのかを示す表示は、もう現れなかった。
それでよかった。
次に進む道くらいは、世界継承機構ではなく、自分たちで決めればいい。
――第九十五話 了――




