第九十四話 父の選択
第九十四話 父の選択
普通の冒険者として依頼を受ける生活へ戻ってからも、レインは数日に一度、継承領域に保存されている父との通信を続けていた。
最初の頃はレイン一人で話すことが多かったが、やがてカインやルーク、ノエルも加わるようになり、世界の危機や境界についてではなく、その日に何をしたのか、誰と喧嘩をしたのか、何を食べたのかといった、以前ならわざわざ話題にもしなかったことを話す時間が増えていった。父の人格情報は三十四パーセント、記憶情報は二十一パーセントのままで、失われた過去が戻ることはなかったものの、少なくとも今ここで交わしている会話については認識を保てているらしく、ルークやノエルの名前を毎回尋ね直すこともなくなっていた。
カインとの関係だけは、少し複雑なままだった。
父がカインを封じたという事実は消えず、カインもそれを許したとは一度も言わなかったが、それでも二人は少しずつ過去とは関係のない話をするようになった。ある日など、カインがレインの料理に文句を言った話をすると、父が「昔からあいつは味付けが薄い」と言い、レインが覚えていない昔の話を突然持ち出したため、カインが初めて父の前で声を出して笑ったことさえあった。
そんな日々がしばらく続いたある夜、いつもの通信を終えようとした時、父がレインだけを呼び止めた。
『少し話せるか』
カインたちが先に継承領域から戻るのを見届けてから、レインは父と向かい合った。淡い光で形作られた父の姿は、最初に保存した時から何一つ変わっておらず、老いることも衰えることもないが、それは父が生き返ったからではなく、残されていた人格と記憶が正確に保存されているからに過ぎない。
「どうした?」
『私は、いつまでここにいられる』
思いがけない質問だったため、レインは世界継承機構へ確認を求めた。
【保存情報継続条件――照会】
【受容核生命活動終了時――継承領域閉鎖】
【外部継承指定――なし】
【保存人格情報――活動終了】
表示された答えを読み、レインは少し考えてから父を見る。
「俺が生きている間なら、今の状態を維持できる。ただ、俺が死んだ後は終わる。Rainの自動再構築はもう止めたから、次の誰かへ引き継がれることもない」
『そうか』
父は驚かなかった。
むしろ、それを確認したかったように見えた。
「何で聞いた?」
『いつまで残るべきなのか、考えていた』
「残るべきって……保存されてるのが嫌なの?」
『嫌ではない。お前たちと話せることは嬉しいし、覚えていなかった息子たちと、もう一度知り合う時間まで与えてもらった。それには感謝している』
父はそこで少し間を置き、自分の手を見るように視線を落とした。
『だが、私は死んでいる。それを忘れたくない』
レインには反論できなかった。
《継承共有》によって父の残存情報を保存した時から、それだけは変わっていない。父は偽物ではないが、生き返ったわけでもなく、失われた六十六パーセントの人格や七十九パーセントの記憶を補完すれば、それはもう父ではなく、レインが作った別の存在になってしまう。
「保存をやめたいの?」
『今すぐではない』
その言葉を聞いて、レインは自分でも気づかないうちに安堵していた。
『まだルークとも話したいし、ノエルについても知らないことが多い。カインとは、何を話せばいいのか分からないまま終わりたくない。それに、お前とももう少し話したい』
「だったら、このままでいいだろ」
『今はな。ただ、いつか私が十分だと思った時には、終わることも私に選ばせてほしい』
レインは黙った。
観測者に対しても、エルに対しても、そしてRainという仕組みそのものに対しても、レインは本人の意思を無視して役割を押しつけることを拒んできた。それなのに父についてだけは、保存できるのなら保存し続ければいいと、どこかで当然のように考えていた。
理由は単純だった。
もう一度失いたくなかった。
「俺が嫌だって言ったら?」
『困るな』
「そこは父親らしく命令しないの?」
『お前はもう、親に命令されて生きる歳ではないだろう』
父が少し笑ったため、レインも苦笑するしかなかった。
しばらく考えた後、レインはようやく頷いた。
「分かった。ただし、父さん自身が決めること。それ以外の理由では解除しないし、俺も勝手に判断しない」
『それでいい』
「それまでは普通に話す。それでいい?」
『ああ。できれば世界の話ばかりではない方がいい』
「じゃあ今度、ノエルが川に落ちた話でもするよ」
『それは本人の前で聞きたいな』
二人は笑った。
それからしばらくして、四人で父と話す機会があった。
ノエルが森で見つけた動物について話し、ルークは最近読んでいる古い記録の話をし、カインは途中まで黙って聞いていたが、父から「最近は何をしている」と尋ねられると、少し考えてから自分一人で初めて依頼を受けたことを話した。
『一人でか』
「うん。レインがいなくても普通にできたよ」
『そうか』
「心配した?」
『少しな』
カインは一瞬黙った。
「……そういうこと言うんだ」
『父親なら言うものではないのか』
「知らないよ。そういう時間、ほとんどなかったから」
その言葉に父は何も返せなかったが、カインも答えを求めなかった。
失われた時間を取り戻すことはできない。それでも、今ここにある短い時間の中で、新しい関係を作ることはできるのだとレインには思えた。
通信を終える直前、ノエルが父へ尋ねた。
「次も僕の名前、覚えてる?」
父は少しだけ考えた後、はっきり答えた。
『ノエルだろう』
「正解」
嬉しそうに笑うノエルを見ながら、父も笑った。
その日の通信が終わり、継承領域から戻る途中で、カインがレインの隣へ並んだ。
「聞いたんでしょ」
「何を?」
「父さんが、いつか保存を終わらせたいって話」
レインは驚いてカインを見る。
「知ってたの?」
「僕にも少し前に聞いてきたからね。自分で終わるって言ったら、僕が怒るかって」
「何て答えた?」
「勝手にしろって」
いかにもカインらしい答えだったが、そのままでは終わらなかった。
「でも、今すぐじゃなくていいとも言った」
レインは何も言わず、弟の横顔を見た。
カインは父を完全には許していない。それでも、父が残された時間をどう使うかについてまで、自分の恨みで縛ろうとはしなかった。
「レイン」
「何?」
「終わるって、全部悪いことじゃないのかもね」
六千年以上続いたRainの再構築も終わった。
エルの世界維持という役割も終わった。
観測者の寄生も終わり、父もいつか自分の意思で保存を終える。
終わることは、必ずしも失敗ではない。
役目を果たしたものが、自分の意思で次へ進むためには、終わらせなければならないものもある。
「そうだな」
レインは今度は素直に頷いた。
父との別れは、まだ先でいい。
無理に引き延ばす必要もなければ、物語を終わらせるために急いで別れる必要もない。父自身が十分だと思う日まで、家族として話せる時間を普通に使えばいいのだろう。
レインは帰還経路の先に見える光へ向かいながら、明日は父に何を話そうかと考えた。
世界の運命ではなく、次に受ける冒険者の依頼でもなく、今日ノエルが夕食の肉を三人分食べたことでもいい。
残された時間を特別なものにしようとする必要はない。
普通に過ごせることそのものが、彼らが長い時間をかけて取り戻したものなのだから。
――第九十四話 了――




