第九十二話 ただの冒険者
第九十二話 ただの冒険者
翌朝、レインたちは王都から半日ほど離れた森へ向かった。以前エルと出会った、魔物が突然姿を消したあの森ではなく、冒険者ギルドが定期的に調査と整備を行っている低危険度地域であり、出現する魔物もFからEランクが中心、街道から大きく外れなければ採集に訪れる一般人もいるほど穏やかな場所だった。
もともとは、アイリスと交わしていた「安全な森へ連れていく」という約束を果たすための小さな遠出だったはずなのだが、出発する頃にはレイン、ガルド、リリア、ミア、セラ、ノア、カイン、ユウト、アイリス、ノエル、ルーク、ソラ、アレン、そしてエルまで揃っており、気がつけば世界を救うために行動していた時期よりも賑やかな一団になっていた。
「兄ちゃん、これって本当に森へ遊びに行くだけなんだよね?」
先頭近くを歩いていたノエルが後ろを振り返り、長く伸びた一行を見て不思議そうに尋ねると、レインも同じことを考えていたため、しばらく全員を見回してから答えた。
「そのはずだったんだけどな。俺も、どうしてこうなったのかよく分からない」
「お前が全員に話すからだろう」
すぐ後ろを歩いていたガルドが当然のように答えた。
最初は数人だけで行く予定だった。ところが話を聞いたリリアが「久しぶりに普通の森へ行きたい」と言い、ミアは薬草を採集したいと言い出し、セラは「未来を見ない一日というのも面白そう」と参加を決めた。さらにソラやアレンまで加わり、最後にはガルドが「これだけ人数が増えたなら、むしろ護衛役が必要だろう」と言ってついてきたため、結果としてほとんど全員が揃ってしまったのである。
「今日は絶対に何も起きないんだよな?」
ユウトが何度目か分からない確認をすると、レインは歩きながら面倒そうに振り返った。
「だから俺に聞くな。ギルドの最新調査でも危険度は低いし、俺も確認したけど境界反応はない。魔王因子もないし、古代施設もないし、世界を管理してる謎の少女もいない。これ以上、何を確認すれば安心するんだ」
「最後の二つを普通の冒険者が確認する必要はないんだよ。お前と出かけると、薬草採集のつもりが六千年前の施設に着いたりするから聞いてるんだ」
「今日は何もない」
「その言葉だけは覚えておくからな」
そんなやり取りをしながら森へ入ると、真っ先に足を止めたのはアイリスだった。
彼女は千年以上もの時間を境界の外側で過ごし、古い世界についてはレインより遥かに多くの記憶を持っているはずなのだが、現在の世界については知らないことの方が圧倒的に多い。道端に小さな花を見つければしゃがみ込み、木の実が落ちていれば拾い上げ、鳥の声が聞こえれば枝の間を探しながら、その一つ一つを確かめるように歩いていた。
「レイン、これは何?」
アイリスが細長い葉を持つ草を指差す。
「薬草。乾燥させれば傷薬の材料になる」
「じゃあ、こっちは?」
「毒草だから触った後は手を洗え」
アイリスは二つを交互に見比べた後、納得できないように眉を寄せた。
「ほとんど同じに見えるんだけど」
「だから新人冒険者が間違えるんだよ。葉の裏を見れば違う」
「レインは食べて覚えたの?」
「何で俺が毒草を食べて覚えたことになってるんだ」
少し離れたところを歩いていたユウトが、「お前なら昔、食料担当だった頃に一回くらいやってそうだけどな」と口を挟んできたため、レインは否定しようとしてから、昔の自分が三つのパーティーで荷物持ちや料理係をしていた頃を思い出し、絶対にないと言い切る自信が少しだけなくなった。
その隣では、エルもまた別の意味で森に戸惑っていた。
世界維持補助個体だった頃なら、森へ足を踏み入れた瞬間に生命密度、魔力循環、土壌状態、植物の成長率、捕食者と被捕食者の比率まで把握できていた。しかし世界維持権限を返上した今のエルには、目の前にある一本の木が健康なのかどうかさえ、実際に見て、触れて、考えなければ分からない。
「レイン、この木、元気だと思う?」
大きな木の前で立ち止まったエルに尋ねられ、レインも一緒に幹を見上げた。
「俺に聞かれても専門家じゃないから分からないぞ」
「前は見れば全部分かった。水が足りないとか、魔力が多すぎるとか、根が傷んでるとか、すぐ分かったのに」
エルはそう言いながら幹へ手を伸ばしたが、《生命育成》を使おうとはせず、樹皮の感触を確かめ、地面へしゃがんで土を触り、最後に枝いっぱいに広がった葉を見上げた。
「……たぶん元気」
「じゃあ、それでいいんじゃないか」
「でも間違ってたら?」
「間違ってるかもしれないな。俺だって分からないし、たぶん森の専門家でも全部は分からない。でも、分からないからって全部調べて全部直さなくても、この木はずっとここで生きてきたんだろ」
エルはすぐには答えず、もう一度だけ木を見上げた。世界維持補助個体だった彼女にとって、「分からないままにしておく」ということは、単に知識が不足しているという意味ではなく、自分が管理しないものの存在を認めることでもある。
「分からないの、前より怖くなくなった」
しばらくしてエルがそう言ったので、レインは何も付け加えず、「それならいい」とだけ答えた。
昼前になると、一行は小川の近くに開けた場所を見つけ、そこで休憩することにした。レインが朝から作ってきた弁当を広げると、ノエルは迷うことなく肉料理へ手を伸ばし、アイリスは色とりどりの果物を珍しそうに選び、エルは箱の中を慎重に確認してから、魚が入っていないことを確かめてようやく安心したように座った。
「まだ魚嫌いなのか?」
カインが面白そうに尋ねる。
「嫌い」
「全部の魚が苦いわけじゃないよ。前に食べた川魚がたまたま苦かっただけかもしれない」
「それでも食べない」
「アインは海を見て魚を食べたがってたらしいけど?」
その名前を聞いたエルは、以前なら少し考え込んだかもしれない。しかし今回はほとんど間を置かず、自分の弁当を食べながら答えた。
「私はアインじゃないから、アインが食べたかったものを食べなくてもいい」
その言葉を聞いて、レインは思わず笑った。
「そうだな。それでいい」
第一世代のアインが残した願いや考え方は、エルが自分の生き方を選ぶための手掛かりにはなった。しかし、それを引き継ぐことまで求められているわけではない。海を見たいと思うか、魚を食べたいと思うか、何を好きになり、何を嫌いになるのか、それは世界維持補助個体として設計された時には存在しなかった、エル自身の領域だった。
そしてそれは、アイリスにも、カインにも、レイン自身にも同じことが言えた。
アイリスが古代の捕食核だったという事実は消えないが、それは現在の彼女の人生すべてを決めるものではない。カインも捕食核として生まれながら、自分で名前を選び、自分でレインとは別の人生を生きることを決めた。
レイン自身も世界継承機構でありながら、同時にレイン・アークという一人の人間である。
過去や役割を消す必要などなかった。
それより大きな人生を、その後に作ればいい。
「兄ちゃん」
隣で弁当を食べていたノエルが、不意にそんなレインを見上げた。
「何だ?」
「これから何するの?」
「午後なら、もう少し奥まで歩いて――」
「違うよ。今日じゃなくて、これからずっと」
レインの手が止まった。
何気ない質問だったのだろう。しかし、その場にいた何人かも自然に会話を止めた。
世界継承機構を完成させる。
観測者を切り離す。
ノエルとアイリスを世界へ帰す。
六千年以上終わらなかったRainの旅を終わらせる。
エルを世界維持という役割から解放する。
そして、かつて世界捕食寄生体だった存在にも、他者を食べずに生きる可能性を残す。
長い間、レインの前には必ず「次にしなければならないこと」があった。
だが今は、それがない。
「……冒険者かな」
考えた末にレインが答えると、すぐにカインが笑った。
「Dランクの?」
「戦闘ランクはな。総合冒険者ランクは規格外だ」
「でもギルドカードにDって書いてあるよね」
「だから何だよ」
「世界最強のDランク」
「その呼び方やめろ」
やり取りを聞いていたノエルが、ますます分からないという顔をした。
「兄ちゃんって、結局強いの?」
「一人で殴り合ったら弱いぞ。攻撃能力は今でも一つもないし、防御もDランク程度だからな」
「じゃあ僕でも勝てる?」
「それは無理」
「何で?」
レインは少し考えてから、周囲にいる仲間たちを見回した。
「俺には仲間がいるから」
その答えに、ガルドが声を出して笑った。
「それを本人の前で言うか。随分と卑怯な最強だな」
「後衛なんだから仕方ないだろ。俺が一人で前に出たら、ただの弱い冒険者だ」
かつて、それはレインにとって最大の劣等感だった。
自分一人では戦えない。
攻撃能力がない。
荷物を持ち、料理を作り、他人を強くすることしかできない。
そのために三つのパーティーから追い出され、自分を最弱だと思っていた。
しかし今は違う。
一人で戦えないことと、弱いことは同じではない。
誰かを強くし、誰かと繋がり、全員が帰ってこられる道を作る。それがレインの戦い方であり、世界を救った後でも変える必要はなかった。
午後になると、ノエルとアイリスは小川へ入り、靴を脱いで水遊びを始めた。
エルは最初、岸辺から二人を眺めていたが、アイリスに手招きされると困ったように自分の服を見下ろした。
「入らないの?」
「濡れる」
「水に入るんだから濡れるよ」
「服も?」
「当然でしょ」
エルは、それが世界維持に関わる重大な判断であるかのようにしばらく考え込んでいたが、やがて覚悟を決めて靴を脱ぎ、慎重に水へ足を入れた。
「冷たい!」
「川だからね!」
ノエルが笑いながら水をかけると、エルは驚いて一歩下がったものの、すぐに両手で水をすくってノエルへ返した。それがアイリスにもかかり、今度はアイリスが反撃したため、数秒後には三人とも全身を濡らしながら笑っていた。
レインは少し離れた場所で弁当箱を片づけながら、その様子を眺めていた。
「行かないの?」
セラが隣へ来る。
「俺はいいよ。片づける人間も必要だろ」
「五分後の未来、見てあげようか?」
「何でそんな不吉なこと言うんだ」
「見なくても分かる気がするけど」
セラが楽しそうに笑った直後、ノエルが勢いよく放った水が飛んできて、レインの肩から胸元までを見事に濡らした。
「ノエル!」
「兄ちゃんも来て!」
「俺は片づけを――」
言い終える前に二発目が飛んでくる。
今度は横からだった。
「カイン、お前だろ!」
「後衛なら避けてみなよ」
「俺の回避能力知ってて言ってるだろ!」
三発目を避けようとして足を滑らせ、結局レインまで小川へ入ることになり、それを見たユウトが笑っているとアイリスが水を浴びせ、最後にはガルドまで巻き込まれた。
世界最強と呼ばれてもおかしくない者たちが、Fランクの魔物しか出ない森の小川で本気になって水を掛け合っている。
以前なら、そんな時間を無駄だと思ったかもしれない。
いつ世界が壊れるか分からない。
いつ観測者が動くか分からない。
誰かを取り戻すためには、一日でも早く強くならなければならない。
だが今は、そのどれもない。
だからレインは、誰よりも最後まで小川に残った。
夕方になり、一行が王都へ戻り始める頃には、アイリスもノエルもエルも疲れ切っていた。前を歩くノエルがルークへ今日見つけた虫について話し、アイリスとリリアは採集した花を比べながら何か相談し、エルはミアに「甘い菓子を自分で作る方法」を真剣に尋ねている。
少し後ろでは、カインとユウトがくだらない言い争いを続け、ソラとアレンがそれを聞いて笑っている。ガルドはいつもの癖で全員の位置を確認し、ノアはそんなガルドまで含めて最後尾から見ていた。
レインは自然に、そのさらに後ろへ下がった。
後衛。
結局、自分はここが一番落ち着く。
全員の背中が見える場所。
誰かが遅れれば分かり、誰かが立ち止まれば待つことができる場所。
世界を救う戦場でなくても、それは変わらなかった。
そして今、前を歩いている者の中には、かつて帰ってこられなかった者たちまでいる。
ノエル。
アイリス。
カイン。
誰も欠けていない。
レインは、それだけで十分だと思った。
その夜、拠点へ戻った後で、レインは一人になってから継承領域を開いた。
【継承領域内保存個体――1】
【個体識別――父】
【保存状態――安定】
【人格情報――34%】
【記憶情報――21%】
数値は変わっていない。
増えてもいないが、減ってもいない。
それでいい。
父との関係は、一度の会話ですべてを解決するものではない。そもそも父には失われた記憶が多すぎるため、昔の家族へ戻ることなどできない。
だからこそ、今から話せばいい。
レインは限定通信を開いた。
【情報補完――なし】
【人格再構築――なし】
【保存情報範囲内応答のみ】
【本人意思確認――承認】
淡い光が集まり、父の輪郭が現れる。
『レイン』
「俺のことは覚えてるんだな」
『お前はな』
「それなら十分」
父が僅かに笑った。
『今日は一人か』
「ああ。今日は普通の話をしようと思って」
『普通の話?』
「今日、みんなで森へ行った」
世界の危機でもない。
境界の謎でもない。
観測者の話でもない。
レインは今日見たものを、そのまま父へ話した。
アイリスが毒草と薬草を見分けられなかったこと。
エルが魚を嫌い続けていること。
ノエルが小川で水をかけてきたこと。
カインまで便乗してきたせいで、最後には全員ずぶ濡れになったこと。
父はその一つ一つを黙って聞いていた。
『ノエルというのは』
途中で父が尋ねる。
「弟だよ。この前会っただろ」
『……そうだったな』
完全に思い出したわけではない。
ただ、前回聞いた情報が僅かに残っている。
「元気だよ。よく食う」
『そうか』
「ルークも元気。カインは相変わらず俺に絡んでくる」
『あいつは元気なのか』
「俺より元気だよ」
父が少し笑った。
それだけの会話だった。
しかしレインには、世界の真実を知った時よりも不思議なくらい大切な時間に思えた。
しばらくして、父の方から尋ねた。
『世界はどうなった』
「自分で生きてるよ。エルも世界維持の仕事を辞めた」
『お前は?』
その質問に、レインは少しだけ考えた。
「俺も、自分で生き始めたところかな」
そして、六千年以上続いたRainの自動再構築を止めたことを説明した。
今の自分が死ねば、それで終わる。
次のRainは生まれない。
世界継承機構は、別の人間へ使命を押しつけない。
話し終えると、父は長い間黙っていた。
「怖くないの?」
レインが尋ねる。
『何がだ』
「俺で終わること」
父は少し考えてから、穏やかな声で答えた。
『世界継承機構を研究していた人間として答えれば、いろいろ考えることはあるのかもしれん。だが、今の私に残っている範囲で、父親として答えるなら――安心した』
「安心?」
『息子が死んだ後まで働かされないのだからな』
あまりにも単純な答えだったので、レインは思わず笑ってしまった。
「それだけ?」
『それ以上、何が必要だ』
確かに必要なかった。
Rainの物語が終わることと、レイン・アークが消えることは同じではない。
今はまだ生きている。
ならば、生きている間に何をするかだけを考えればいい。
やがて限定通信の負荷が上がり、終了を促す表示が現れた。
【限定通信負荷――上昇】
【保存状態への影響――なし】
「また話そう」
『ああ』
「今度はカインたちも連れてくる」
『頼む』
父の輪郭が少しずつ薄くなる。
そして消える直前、父がもう一度レインを呼んだ。
『レイン』
「何?」
『お前が後衛で良かった』
思いがけない言葉だった。
「何で?」
父は僅かに笑った。
『前へ出ることしか知らない人間なら、ここまで誰も連れて帰れなかっただろう』
それが父に残っていた昔の記憶から出た言葉なのか、それとも今の会話の中で新しく生まれた考えなのか、レインには分からなかった。
だが、どちらでもよかった。
「じゃあな、父さん」
『ああ。またな』
通信が閉じた。
翌朝。
レインが冒険者ギルドへ行くと、受付嬢が一枚の依頼書を差し出した。
「レインさんのパーティーにお願いしたい依頼があります」
レインは少し身構えた。
「世界の危機?」
「違います」
「境界関係?」
「違います」
「古代施設?」
「違います」
「世界を管理してる人が目覚めたとか?」
「何の話ですか?」
受付嬢が本気で困った顔をしたため、レインはようやく安心して依頼書を受け取った。
内容は、隣町まで商人の荷馬車を護衛するというものだった。
危険度E。
想定される敵は街道沿いに出る低級魔物と盗賊程度。
報酬も普通。
特別条件もない。
どこからどう見ても、ごく普通の護衛依頼だった。
「どうしますか?」
受付嬢に尋ねられ、レインはしばらく依頼書を眺めた。
かつての自分なら、この程度の依頼ですらパーティーの荷物持ちとして参加していた。
戦力として数えられず、戦闘が始まれば後ろへ下がれと言われ、終われば食事を作り、次の町まで全員分の荷物を運んだ。
三つのパーティーから追い出された。
攻撃能力がないというだけで、無能だと言われた。
あの頃の自分が今の自分を見たら、何と言うだろう。
真のレベル百。
世界継承機構完成。
総合冒険者ランク規格外。
世界を越えることさえできる。
それでも、ギルドカードに記されている戦闘ランクはDのままだ。
レインは依頼書を受付へ返さず、そのまま手元へ引き寄せた。
「受けます」
「ありがとうございます。出発は明日の朝になります」
「分かりました」
ギルドを出ると、入口で待っていたカインが依頼書を覗き込んだ。
「何だった?」
「護衛」
「強い敵?」
「たぶん出ない」
「世界の危機?」
「ない」
「つまらないね」
「最高だろ」
レインがそう答えると、カインは少しだけ驚いた後、笑った。
「確かに」
明日は荷馬車の後ろを歩く。
前衛ではない。
英雄でもない。
世界を導く者でもない。
ただ、依頼人が無事に目的地へ着けるよう、後ろから全体を見ながら歩く。
考えてみれば、それは昔から何も変わっていなかった。
変わったのは、自分がその場所を恥じなくなったことだけなのかもしれない。
世界最強の後衛。
真Lv100。
戦闘ランクD。
そして次の仕事は、隣町まで一台の荷馬車を守ること。
レインは依頼書を折らないよう丁寧に持ち直し、仲間たちが待つ拠点へ向かって歩き出した。
明日もまた、自分は一番後ろを歩くのだろう。
けれど今度は、そこから追い出されないためではない。
自分自身が、その場所を選んだからだった。
――第九十二話 了――




