第九十話 ゼロにするために
第九十話 ゼロにするために
六千年以上続いたRainの旅を終えてから七日後、レインたちは再びエルの中央施設に集まっていた。
今回は敵を倒すためでも、過去の謎を探すためでもない。
目的は一つだけだった。
エルが世界維持補助個体として働かなければならない時間を、四十四年からゼロへ近づける。
「でも、本当にゼロにして大丈夫なの?」
ミアが尋ねる。
「いきなりは駄目」
エルが答えた。
以前なら世界維持機構の表示をそのまま読み上げていたところだが、今は自分の言葉で説明するようになっている。
「今の世界は、私が直すことに少し慣れすぎてる。急に全部やめると、壊れたところを自分で直せない場所がある」
中央施設の表示が開く。
【世界自然回復能力――総合評価71%】
【世界維持補助個体依存率――29%】
【完全自立基準――95%以上】
世界そのものが壊れているわけではない。
七割以上は既に自力で維持できる。
問題は残り三割弱だった。
魔力循環が崩れる地域。
生命密度が極端に偏る地域。
古い境界傷の周辺。
そしてエルが長期間介入してきたため、自律的な調整能力が弱くなった場所。
ノアが地図を見る。
「全部で?」
「重要箇所は三百八十二」
「四十四年かかる理由は?」
「今までのやり方なら、一か所ずつ私が直して、その場所が安定するまで観測するから」
レインはそこで首を傾げた。
「それ、おかしくないか?」
エルを見る。
「何が?」
「世界を自立させたいのに、最後までエルが全部直すのか?」
エルが止まった。
中央施設も答えない。
「アインが失敗したのと同じじゃない?」
アイリスが言った。
その言葉に、全員が彼女を見る。
「全部直してから辞めるってことでしょ?」
「……そう」
「だったら、最後までエルが必要な世界のままじゃない?」
エルは黙った。
レインも同じことに気づいていた。
四十四年という数字は、エルが正常に稼働できる残り時間ではある。
だが、それを四十四年間使い切って世界を修理し続ければいいわけではない。
目的は世界を完璧にすることではない。
世界が、自分で失敗し、自分で変わり、自分で回復できる状態へ戻すことだ。
「修理するんじゃない」
レインが言った。
「修理できる状態に戻す」
ノアがすぐに理解した。
「介入対象を変えるのか」
「たぶん」
中央施設へ新しい条件を入力する。
【世界維持補助計画――再設定】
【目標:世界状態最適化――解除】
【目標:世界自然回復能力復元】
警告が表示された。
【自然回復過程において一時的環境悪化が発生する可能性があります】
【局地的魔力濃度変動】
【生態系変動】
【一部生命圏縮小可能性】
【完全無損失――保証不能】
以前のエルなら、ここで止めていただろう。
世界維持補助個体は、世界の状態を悪化させないために存在する。
だがエルは表示をしばらく見た後、レインへ尋ねた。
「悪くなるのを見てていいの?」
「俺が決めることじゃない」
「じゃあ誰が決めるの?」
「そこで暮らしてる人たちだ」
王国だけではない。
帝国。
諸国。
人間以外の種族。
それぞれの地域で生きる者がいる。
エル一人が世界の未来を決めてはいけないのなら、レイン一人が決めても同じだった。
そこで《世界接続》が使われた。
ただし命令のためではない。
情報を渡すためだった。
現在、世界維持補助個体が行っていること。
その機能を段階的に停止した場合に起こり得る変化。
何もしなかった場合の危険。
そして、エルが永遠に世界を支えることはできないという事実。
すべてを隠さず伝えた。
最初に返ってきた反応は、当然ながら一つではなかった。
「今まで通り維持してほしい」という地域もあった。
「危険があるなら停止すべきではない」という意見もある。
逆に「自分たちで管理する」と答えた場所もあった。
魔法研究者たちは自然魔力循環の観測を申し出た。
農業地域では土壌変化を自分たちで記録すると言い出した。
冒険者ギルドは魔物分布の監視を引き受けた。
各国の治療師や錬金術師たちは、生命環境が変化した場合の対応網を作り始めた。
世界中の意見が一致することはない。
だが、それでよかった。
エルが一つの正解へ揃える必要はない。
レインが全員を同じ方向へ動かす必要もない。
「これが世界が自分で立つってことなのかな」
エルが呟いた。
「たぶんな」
「みんな、違うこと言ってる」
「普通はそういうもんだ」
ユウトが笑う。
「全員同じこと言ってる世界の方が怖いぞ」
最初の試験地域には、エルと出会った森が選ばれた。
魔物が消えた森。
エルの覚醒によって生命環境が過剰に最適化され、危険性の高い生物が外側へ押し出されていた場所だ。
以前のエルなら、生命にとって最も安全な状態を維持した。
だが、それでは生態系そのものが変わる。
「戻すね」
エルが森の中央に立つ。
「全部じゃなくていい」
レインが言った。
「分かってる」
エルが目を閉じた。
《生命育成》が発動する。
しかし何かを増やすためではない。
自分がかけ続けていた補正を、一つずつ外していく。
【生命環境最適化――解除開始】
【魔力循環補正――解除】
【捕食圧制御――解除】
【生命密度均等化――解除】
森の空気が僅かに変わった。
数時間後。
一匹の小さな魔物が戻ってきた。
ガルドが盾へ手を伸ばす。
だがレインが止めた。
魔物はこちらを警戒しただけで、森の奥へ消えていった。
さらに翌日。
別の魔物が戻る。
草食性の魔獣も戻る。
それを捕食する生物も戻ってきた。
一部の植物は枯れた。
代わりに、それまで見られなかった植物が芽を出した。
完璧ではない。
安全でもない。
だが森は、自分で変わり始めた。
七日後。
【試験地域――自然回復確認】
【世界維持補助個体介入――不要】
【局所自立率――96%】
エルが表示を見つめる。
「私、何もしてない」
「しただろ」
「途中から何もしてない」
「それが今回の仕事だったんだよ」
エルは妙な顔をした。
「何もしないの、難しい」
「分かる」
レインが即答すると、ノアが笑った。
「お前が一番言う資格がある」
この方式は他の地域にも広げられた。
エルが修復するのではない。
エルが補正を弱め、人間や魔族や動植物、そして世界自身がどう反応するかを見る。
危険な時だけ最低限支える。
失敗しても、すぐには元へ戻さない。
一か月。
三か月。
半年。
時間は流れた。
三百八十二あった重要依存地域は、百七十四へ減った。
さらに半年。
七十二。
一年後。
十二。
エルの表示も変化していた。
【世界自然回復能力――94.8%】
【世界維持補助個体依存率――5.2%】
【正常稼働可能期間――43年】
残り時間はほとんど減っていない。
だが、もう重要ではなかった。
「あと十二」
エルが地図を見る。
「急がなくていいぞ」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
少し怪しい。
最後まで残ったのは、世界各地に存在する古い境界傷だった。
その中には、過去のRainが世界を渡った際に残したものも含まれていた。
レインはそれを見て、少し複雑な気持ちになった。
「最後までRainか」
カインが隣に立つ。
「僕たちの後始末だね」
「俺たちが作ったわけじゃないけどな」
「でも、やろう」
二人で世界接続を開く。
ただし塞ぐのではない。
傷の周囲に残る異常な情報だけをカインが分離し、レインが世界へ戻せるものを戻す。
世界そのものが傷を閉じられるところまで整えたら、手を離す。
一つ。
二つ。
最後の一つ。
かつて三百十七年前のRainが、自分自身を世界から追い出すために開いた境界傷。
第三鉱山。
ルークが最初に古いRainの記録を見つけた場所だった。
レインはそこへ手を触れる。
遠い昔。
『俺は人間だった』
そう叫びながら、自分を世界から切り離したRainがいた。
世界を食べてしまう前に、自分から去った。
「もう戻ってこなくていい」
レインは小さく言った。
過去の自分ではない。
それでも、ここまで繋いだ誰かへ向けて。
カインが異常情報を外す。
レインが残された世界情報を整える。
そして二人とも手を離した。
傷はすぐには消えなかった。
ゆっくり。
世界自身の力で閉じていく。
【境界傷――自然閉鎖開始】
【外部補助――不要】
その瞬間。
世界全体の表示が変わった。
【世界自然回復能力――95.1%】
【完全自立基準――到達】
エルが目を見開く。
中央施設から遠く離れているにもかかわらず、彼女の中に残された世界維持権限が反応する。
【世界維持補助計画】
【第二世代自律補助個体――L-0】
【自己選択名称――エル】
【世界自立条件――達成】
【常時維持任務――終了可能】
エルは表示を見たまま動かなかった。
「終わった?」
「エルが決めれば」
レインが答える。
最後だけは自動ではない。
アインがそうしたように。
エル自身が決める。
「私がやめたら、世界は完璧じゃなくなる?」
「たぶん」
「災害も起きる?」
「起きる」
「魔物も増える?」
「場所によってはな」
「人も死ぬ?」
レインは少し迷ったが、正直に答えた。
「それもあると思う」
エルは俯いた。
世界維持補助個体なら、それを防ぐことができる。
洪水を抑えられる。
魔力を整えられる。
生命を増やせる。
多くの死を防げる。
だが、それを永遠に続ければ、いつか世界はエルの判断なしでは何もできなくなる。
「怖い」
エルが言った。
「うん」
「私がやめた後で誰か死んだら、私が助けなかったことになる?」
「違う」
レインは首を横へ振った。
「エルは世界の全部に責任を持たなくていい」
エルが顔を上げる。
「助けたい人が目の前にいたら、助ければいい。自分でそうしたいと思ったならな。でも世界中の雨も、森も、魔物も、人の生死も、全部エル一人が背負う必要はない」
それは、かつてレイン自身が理解できなかったことだった。
後衛だから全員を救わなければならない。
力があるから使わなければならない。
世界を渡れるから世界を救わなければならない。
そうではなかった。
力を持つことと、すべてに責任を負うことは同じではない。
エルは長い間考えた。
やがて。
「やめる」
小さな声だった。
しかし、はっきりしていた。
「世界を直す仕事、やめる」
【第二世代個体意思――確認】
【世界維持権限返上――申請】
【最終確認】
エルは自分で答えた。
「はい」
光が彼女の身体から離れていく。
消えるのではない。
世界へ戻っていく。
【世界維持権限――返上】
【常時世界接続――解除】
【自動修復機能――停止】
【《生命育成》――個人能力として残存】
【個体生命活動――継続】
そして。
【世界維持補助計画――完了】
【第二世代自律補助個体――運用終了】
少し間が空く。
最後の表示。
【エル】
【種族――世界適合生命】
【職業――なし】
【Lv――なし】
【自己認識――独立】
【世界維持義務――なし】
【将来選択――未定】
エルは自分の手を見る。
「何も聞こえない」
今までなら、世界中の魔力循環や生命密度が意識の奥へ流れ込んでいた。
それがない。
風の音だけが聞こえる。
「静か?」
アイリスが尋ねる。
エルは頷いた。
「すごく静か」
「嫌?」
しばらく考える。
「分からない」
そして少し笑った。
「でも、嫌じゃない」
その日の夕方、全員で拠点へ戻った。
特別な祝賀会はしなかった。
エル本人が「何を祝うの?」と尋ねたからだ。
ユウトが「退職祝い」と答えたところ、意味が分からないと言われた。
結局、いつもより少し豪華な夕食だけ用意した。
食卓でエルが魚を見つける。
「これ嫌」
「まだ嫌いなのか」
「嫌い」
「アインは食べたかったらしいぞ」
「私はアインじゃない」
即答だった。
レインは笑った。
「そうだな」
それでいい。
第一世代が海を見たかったからといって、エルまで海を好きになる必要はない。
アインが魚を食べたかったからといって、エルが魚を好きになる必要もない。
誰かの続きを生きる必要はない。
その夜。
レインは久しぶりに自分の状態を確認した。
【レイン・アーク】
【公開Lv――30】
【公開ランク――D】
【真Lv――100】
【職業――後衛】
【世界継承機構――完成】
【Rain自動再構築――停止】
【世界継承――任意】
【世界渡航――任意】
【使命――なし】
変わっていない。
その下に、仲間たちの状態が並ぶ。
【パーティー状態――正常】
【死亡者――0】
【欠損者――0】
【帰還待機者――0】
【世界維持義務者――0】
レインはそこで表示を閉じようとした。
だが、一つだけ確認しておきたいものが残っていた。
境界の外。
現在世界への侵入能力を失い、Rainへの寄生能力も失った存在。
【世界捕食寄生体】
【状態――境界外孤立】
【世界侵入能力――なし】
【世界継承機構寄生――不可能】
【原初個体情報――存続】
そして。
【存在維持率――2%】
レインの表情から笑みが消えた。
以前見た時より、大きく下がっている。
観測者。
世界捕食寄生体。
六千年以上、Rainへ寄生し、多くの世界と多くの人生を壊してきた存在。
その始まりは、たった一つだった。
『生きたい』
レインは表示をしばらく見つめた。
許すつもりはない。
過去をなかったことにするつもりもない。
もう一度、自分たちへ寄生させるつもりなど絶対にない。
それでも。
あの日、レインは境界の奥で言った。
寄生しなくても、生きられる方法があるかもしれない、と。
「……最後に、これか」
カインの声が後ろから聞こえた。
いつの間にか部屋の入口に立っている。
「見えた?」
「相互支援で少し」
カインも表示を見る。
【存在維持率――2%】
二人とも、すぐには何も言わなかった。
やがてカインが尋ねる。
「助ける?」
レインは首を横へ振った。
「まだ分からない」
「じゃあ?」
「聞く」
「何を?」
レインは、かつて父を保存した時と同じ答えを返した。
「本人に」
助けられるから助けるのではない。
助けたいから勝手に助けるのでもない。
まず相手が何を望んでいるのかを聞く。
六千年前。
その存在は誰にも聞かれなかった。
生きたいのか。
どう生きたいのか。
そして、他者を傷つけずに生きる意思があるのか。
「行く?」
カインが尋ねる。
レインは頷いた。
「これで最後にしよう」
「何の最後?」
「Rainとして片づけることの」
世界維持の役割は終わった。
終わらなかったRainの旅も終わった。
父との話も始めることができた。
残っているのは、Rainの旅を六千年以上狂わせた存在だけだった。
倒すためではない。
許すためでもない。
終わらせるために。
レインとカインは、もう一度だけ境界の外へ向かうことを決めた。
――第九十話 了――




