第八十八話 旅の終着点
第八十八話 旅の終着点
異世界へ渡る日、レインはいつも通り朝食を作った。
「今日、本当に行くんだよね?」
アイリスが念を押すように尋ねる。
「行く」
「帰ってくる?」
「そのためにノアが昨日から寝てない」
「寝た」
部屋の隅から即座に訂正が入った。
「二時間」
「それを寝たとは言わない」
今回、境界を越えるのはレイン、カイン、ユウトの三人だけだった。
ガルドたちは残る。
ノアは現在世界側から帰還経路を維持し、エマは《レゾナンス》で万一の存在情報異常を監視する。ルークは《記録保持者》によって世界継承機構の変化を記録し、アークも王都から接続状態を解析する。
そしてレインはアイリスとノエルに、必ず帰ってくると約束した。
以前なら、そんな約束を簡単にはしなかった。
絶対に守れる保証がない言葉を口にするのが怖かったからだ。
だが今回は違う。
帰ることを前提として出発する。
それ自体が、これまでのRainとは違っていた。
「始めるぞ」
《世界継承機構》を開く。
【世界渡航――起動】
【渡航先――外部接続世界】
【相手側受入意思――確認】
【受容核――レイン・アーク】
【捕食核――カイン】
【同行者――結城悠斗】
【同行者世界適合――暫定許可】
【帰還座標――固定】
最後にノアの声が届いた。
「経路はこちらで保持する。異常があれば即座に戻れ。今回は世界を救う旅ではない。情報を確認して帰るだけだ」
「分かってる」
「お前の『分かってる』は信用していない」
「みんな同じこと言うな」
カインが笑った。
「実績だよ」
世界が切り替わった。
以前、観測者の内部へ入った時のような圧迫感はない。何かに引きずられる感覚も、自分の存在が削られていく感覚もなかった。
ただ一歩。
境界を越える。
それだけだった。
次の瞬間、レインたちは石造りの広間に立っていた。
【世界渡航――成功】
【存在情報損傷――0%】
【外部寄生――なし】
【世界法則適合――正常】
【帰還経路――安定】
「……普通だな」
ユウトが呟く。
「何を期待してたんだ」
「異世界なんだから、もう少しこう……空が紫とか、月が三つあるとか」
「観光じゃないぞ」
「お前が昨日、観光でもいいって納得したんだろ」
言い返せなかった。
広間の奥から足音が聞こえた。
現れたのは、一人の女性だった。
三十歳前後に見える。長い黒髪を後ろで束ね、灰色の研究服らしい衣服を着ている。
女性は三人を見て、それからレインとカインへ視線を移した。
「レイン・アーク?」
「そうです」
「カイン?」
「僕」
女性は少しだけ息を吐いた。
「本当に二人だった」
「ミレイア?」
「はい」
彼女は頭を下げる。
「ようこそ。六千年以上、誰にも意味が分からなかった施設へ」
外へ出ると、ユウトが望んでいたような奇妙な景色はなかった。
空は青い。
草は緑。
遠くには町があり、人々が普通に生活している。
ただし魔力濃度はレインたちの世界よりかなり低く、魔物らしい生命反応もほとんど存在しなかった。
「この世界は?」
レインが尋ねる。
「少なくとも現在は安定しています。世界崩壊の兆候もありません」
「なら良かった」
ミレイアが少し驚いた顔をした。
「それだけですか?」
「滅びそうなら話が変わるから」
「なるほど」
施設は町から少し離れた丘の地下にあった。
ミレイアによれば、この国では古代遺跡として管理されているものの、長い間ほとんど何も起きなかったという。
ただ一つ。
世界の外へ向けて信号を送り続けていた。
「三日前、初めて装置が動きました」
ミレイアが扉を開く。
「あなた方の世界継承機構が完成した日だ」
レインたちの前に、通信で見た二つの台座が現れた。
片方には受容を示す印。
もう片方には捕食を示す黒い円。
【世界を運ぶ者へ】
【もし使命から解放された二人がここへ辿り着いたなら】
【最初の旅が終わったことを、ここに記録せよ】
レインとカインがそれぞれ台座へ近づく。
「触ればいいのかな」
「たぶんな」
「罠だったら?」
ユウトが尋ねる。
レインが確認する。
【敵対機構――なし】
【強制接続――なし】
【人格干渉――なし】
【二核統合機能――なし】
最後の表示を見て、カインが笑った。
「それが一番大事」
二人は同時に手を置いた。
施設全体に光が走った。
【受容核――確認】
【捕食核――確認】
【独立人格――確認】
【相互支援――確認】
【強制継承――なし】
そして。
【世界継承機構――本来状態】
【最終帰還条件――成立】
レインの表情が変わった。
「最終帰還?」
ミレイアも知らない表示だったらしい。
「そんな記録はありません」
台座の間に、新しい文字が浮かぶ。
【第一継承記録――開示】
映像が現れた。
荒れ果てた大地。
崩れていく空。
レインたちは、この世界を知っていた。
「エルノア……」
最初に確認された、世界継承の世界。
世界崩壊率九十四・七%。
残存時間十九時間。
そして映像の中に二人の人間がいた。
黒髪の若い男。
赤茶色の髪の若い女。
世界の情報を受け取る者と、壊れた情報を処理する者。
最初の受容核と捕食核。
二人が境界を越える。
映像が切り替わった。
到着した場所を見て、ミレイアが息を呑んだ。
「ここです」
六千年以上前の同じ施設だった。
まだ新しい壁。
現在と同じ二つの台座。
二人はそこへ手を置いていた。
つまり。
「ここが最初の継承先だったんだ」
レインが呟く。
エルノアから運ばれた情報は、この世界へ届けられた。
農作物。
薬。
建築。
水の浄化技術。
そして多くの生命情報。
記録には、それらがこの世界へ強制的に上書きされた形跡はない。
受け入れ可能なものだけが選ばれ、既存の世界を壊さない範囲で残されていた。
世界継承は成功していた。
完全に。
「じゃあ、どうしてその後にRainが壊れた?」
カインの疑問は当然だった。
最初の世界継承が成功していたなら、どこで観測者が入り込んだのか。
映像が進む。
最初の二人が笑っている。
戦士でも英雄でもない。
普通の若者だった。
そして二人の後ろ。
境界が閉じる直前。
ほんの小さな黒い点が映った。
レインたちは知っている。
観測者。
まだ世界捕食寄生体になる前の、小さな情報生命だった。
『生きたい』
かつて確認した原初情報と同じだった。
それは世界を支配したかったわけではない。
世界を食べたかったわけでもない。
ただ、死にたくなかった。
だから世界を渡った二人の後を追った。
「ここから始まったんだ」
ユウトが言う。
映像の中で、二人はまだその存在に気づいていない。
そして記録は、そこで終わらなかった。
【第一継承――成功】
【世界定着――成功】
【継承任務――完了】
次の一行。
【受容核・捕食核――機構離脱申請】
レインが目を見開いた。
「離脱?」
さらに。
【申請――承認】
【世界継承権限――返上処理開始】
つまり最初の二人は、エルノアを救えなかった代わりに、その世界で生きたものを次の世界へ届けた。
そして役目を終えた。
そのまま、この世界で普通に生きるはずだった。
だが。
【異常外部接続――検出】
【権限返上処理――中断】
【原因――不明】
黒い点が、二つの核へ触れる。
映像が乱れた。
【外部情報生命――世界継承経路へ侵入】
【受容核・捕食核――強制再接続】
【人格境界――破損】
【二核統合――開始】
カインの顔から笑みが消えた。
「僕たちがずっと止めようとしてたもの……」
「ここで最初に起きた」
本来なら、最初の旅で終わっていた。
二人は使命から解放されるはずだった。
それを観測者が終わらせなかった。
世界を渡れる存在に寄生すれば、自分も生き続けられると学んだからだ。
映像の最後。
二人のうち、黒髪の男が必死に何かを書き込んでいた。
『もし、いつか俺たちがまた二人になれたなら』
映像が激しく乱れる。
『ここへ戻れ』
そして。
『最初の旅を終わらせてくれ』
記録が止まった。
長い沈黙が残った。
レインはようやく理解した。
六千年以上、この施設が待っていたもの。
世界を救う英雄ではない。
次の世界を食べるRainでもない。
観測者から解放され、二人のまま戻ってくる受容核と捕食核。
つまり。
「俺たちを待ってたんじゃない」
レインが言った。
「二人に戻れたRainを待ってたんだ」
カインが台座を見る。
六千年以上前に終わるはずだった旅。
その続きを、数え切れないRainが繰り返してきた。
そして今。
ようやく二人が帰ってきた。
施設に最後の表示が現れる。
【最初の旅――終了処理可能】
【実行には受容核・捕食核双方の意思が必要です】
レインとカインは顔を見合わせた。
ここで何かを終わらせることができる。
だが、それが何を意味するのかはまだ分からない。
「今日は押さないよ」
カインが先に言った。
レインは笑った。
「俺もそのつもり」
ユウトが呆れた顔をする。
「お前ら、本当に変わったな」
六千年待った機構なら、あと一日くらい待たせても問題ない。
終わらせる前に、何が終わるのかを確認する。
それが今の二人だった。
――第八十八話 了――




