第八十二話 名前のない少女
第八十二話 名前のない少女
森を出て村へ戻る途中、名前のない少女は何度も足を止めた。
最初は道端に咲いている黄色い花を見つけた時で、その次は木の枝を歩いていた小さな虫を見た時、その後も空を飛ぶ鳥や風に揺れる麦畑を見つけるたびに立ち止まり、まるで初めて世界を見る子供のように一つ一つを確かめていた。
「四千年以上この世界にいたんだよな?」
ユウトが不思議そうに尋ねると、少女は麦の穂へ触れながら頷いた。
「いた。でも、見てなかった」
「どういう意味?」
「前は、数字で見てた」
少女が地面へ手を置くと、《世界接続》を通してレインにも僅かな情報が流れてきた。
土壌水分。
魔力濃度。
植物密度。
地下水量。
生命活動量。
少女にとって世界とは、長い間そうした情報の集合体だったらしい。
「花が咲いても、花じゃなかった。生命密度が増えたって分かるだけ。鳥が飛んでも、生命反応が移動したって分かるだけだった」
「今は?」
レインが尋ねる。
少女は黄色い花を見つめる。
「黄色い」
当たり前の答えだった。
しかしレインには、その一言が妙に重く感じられた。
世界を維持するための機構として生きていた時には必要のなかったものを、少女は今になって初めて自分自身の感覚として受け取っている。
それは、Rainという役割から解放された後の自分と少し似ているのかもしれない。
村へ戻ると、村長をはじめ住民たちは、レインたちと一緒に歩いてくる緑髪の少女を見て明らかに戸惑った。
「その娘は……?」
「森にいた」
レインが答える。
「それは見れば分かりますが」
「今回の原因でもある」
村長の顔が強張ったため、レインは慌てて説明を続けた。
「悪い意味じゃない。三日前にこの子が目覚めたことで森の生命環境が急に変わって、それを警戒した魔物が逃げたらしい。村を襲うつもりもないし、今のところ危険な反応もない」
少女が村長を見上げる。
「ごめんなさい」
「え?」
「魔物、追い出した」
村長は返事に困った。
実際のところ、村にとって魔物がいなくなったこと自体は困る話ではない。問題だったのは、何が原因なのか分からなかったことである。
「戻せるの?」
レインが少女へ尋ねると、少女は森の方向を見た。
「多分。でも、戻した方がいい?」
「そこから考えよう」
魔物がいる状態が本当に正常なのか、それともいない方が村にとって良いのか。世界維持という視点だけなら元の生態系へ戻すことが正しいのかもしれないが、人間の生活まで含めれば単純ではない。
レインは村長へ向き直った。
「森の魔物がいなくなると困ることはある?」
「角兎や森狼の素材を売っている者は多少おりますが、農作物への被害が減るなら助かります。ただ、全部いなくなってしまうと森がどうなるのかまでは……」
「だったら、すぐには戻さない。周辺の生態を調べてから決める」
少女が横から尋ねる。
「私が決めないの?」
「一人では決めない」
「Rainなのに?」
「Rainだからだよ」
少女は少し考えた後、納得したように頷いた。
それを見ていたノアが小さく笑う。
「教育方針まで後衛だな」
「何だよ、それ」
「褒めている」
「そう聞こえないんだけど」
調査依頼については、原因確認済み、現時点で村への危険なしとして報告することになった。森の生態変化については一週間ほど観察し、問題が生じた場合だけ改めてギルドへ連絡してもらう。
世界維持機構の話まで村人へ説明する必要はない。
少なくとも、今は。
その後、レインたちは村で昼食を取ることになった。
少女は当然のようについてきたが、食堂へ入ったところで動かなくなった。
「どうした?」
「いっぱい匂いがする」
「嫌?」
「分からない」
少女は真剣だった。
焼いた肉、煮込んだ野菜、パン、香草、果物。
生命維持機構として活動していた少女にとって、それらを食欲という感覚で認識すること自体が初めてなのだろう。
「何が食べたい?」
レインが尋ねる。
「分からない」
「じゃあ少しずつ頼むか」
「レインが決めるの?」
「最初だけな。嫌だったら食べなくていい」
そうして運ばれてきたのは、野菜のスープ、焼いた川魚、パン、それに村で採れた赤い果実だった。
少女は最初にスープを一口飲んだ。
止まった。
全員が見ている。
「どう?」
レインが聞く。
少女はもう一口飲む。
さらにもう一口。
「……これ、好き」
「そうか」
「何で?」
「何でって?」
「身体に必要な成分は水と野菜から取れる。でも、これの方が好き」
ユウトが笑う。
「それが味ってやつだ」
「味」
「必要だから食うんじゃなくて、美味いから食うこともある」
少女はしばらくスープを見つめた後、今度はパンをちぎって口へ入れた。
「これも好き」
「何でも好きなんじゃない?」
カインが言う。
しかし川魚を食べた瞬間、少女の顔が明らかに変わった。
「これは嫌」
「ちゃんと嫌いなものもあるな」
レインが笑う。
「苦い」
「そこが美味いんだけどな」
「レイン、おかしい」
初めて会って数時間の相手から、おかしいと言われた。
だが、その方が良かった。
世界維持補助個体ではなく、一人の少女として好き嫌いが生まれ始めている。
食事を終える頃、《世界接続》が反応した。
ルークからだった。
『兄さん。さっきの続き、見つけた』
「早いな」
『かなり残ってた。正確には、その子自身の記録じゃなくて、その子が修復した場所に痕跡が残ってる』
レインは席を立たず、そのまま接続を全員へ共有した。
最初に現れたのは、約四千七百年前の記録。
大規模な地殻変動。
少女らしき存在が地下魔力流を調整し、大陸中央部の崩壊を抑えている。
次は約三千九百年前。
海底魔力噴出。
さらに二千八百年前、千九百年前、九百年前。
時代ごとに世界規模の異変が発生し、そのたびに同じ存在が必要最小限の修復を行っていた。
「ずっと世界を救ってたんじゃないか」
ユウトが呟く。
少女は首を横へ振った。
「違うと思う」
「どうして?」
「全部は直してない」
実際、記録を見ると少女が介入した範囲は驚くほど限定されていた。
山が崩れても、それだけなら介入しない。
川が流れを変えて町が消えても、それだけでは動かない。
種が絶滅しても、それが自然変化なら止めていない。
介入しているのは、世界そのものが自然回復能力を失う可能性がある場合だけだった。
【最終運用原則】
【世界を理想の形へ変えてはならない】
【世界が自ら変わる力を失わないよう、必要最小限のみ支えよ】
レインは改めて、その意味を理解した。
この少女は世界を守る神ではない。
世界が自分で立ち直るための補助役だった。
その時、ルークから新しい情報が送られてくる。
『それと、名前らしいものが一つだけあった』
少女が顔を上げた。
「名前?」
『でも、人の名前かどうか分からない』
表示されたのは、今から四千八百年以上前の記録だった。
【世界維持補助計画】
【第二世代自律補助個体】
【識別符号――L-0】
【運用呼称――エル】
「エル……」
少女がその音を口にする。
何かを思い出した様子はない。
レインは聞いた。
「知ってる?」
「分からない」
「昔そう呼ばれてた可能性は高いみたいだ」
少女は何度か小さく繰り返した。
「エル。エル……」
そして首を傾げる。
「私?」
「それを決めるのは君だ」
「記録に書いてあるよ?」
「書いてある名前を使わなきゃいけない理由はない。昔の名前が気に入ったなら使えばいいし、嫌なら新しく決めればいい」
少女はまた黙った。
少し前なら、与えられた識別情報をそのまま受け入れていたかもしれない。
しかし今の彼女は違った。
スープが好きだと知った。
川魚が嫌いだと知った。
黄色い花を綺麗だと思った。
そうした小さな選択を積み重ね始めている。
「エル」
少女はもう一度言った。
「嫌じゃない」
「じゃあエルにする?」
「うん。でも、昔の私がそうだったからじゃない」
少女――エルは、少し笑った。
「今の私が、この名前好きだから」
その瞬間、《世界接続》が静かに反応した。
【世界維持補助個体】
【旧識別符号――L-0】
【旧運用呼称――エル】
【自己選択名称――エル】
【独立自己認識――成立】
【記憶領域安定化】
【機能低下率――69%→61%】
さらに世界維持可能期間が再計算される。
【正常稼働可能期間――31年→44年】
ユウトが目を丸くした。
「名前決めただけで十三年延びたぞ」
「違う」
レインは表示を見ながら答えた。
「名前じゃない。自分が誰なのかを、自分で決め始めたからだ」
命令に従うだけの機構では、失われた運用記録がなければ正常に動けない。
しかし自分で考え、判断できる個体なら、すべての記録がなくても現在の世界を見ながら選択できる。
エルの修復に必要なのは、四千八百年前の状態へ戻すことではないのかもしれない。
過去を取り戻しながら、それだけに縛られない現在の人格を作る。
ノエルやアイリス、カイン、ソラたちがそうだったように。
「でも、これで四十四年働けるって喜ぶのは違うからな」
レインが言う。
エルが首を傾げる。
「違うの?」
「最終目標は、君が働かなくても世界が大丈夫になることだ」
「私、いらなくなる?」
その質問に、レインは少し考えた。
「世界維持機構としては、そうなるのが一番いい」
エルの表情が曇る。
「じゃあ私は?」
レインはすぐには答えなかった。
それはカインにも、ソラにも、アイリスにもあった問いだった。
役割を失った後、自分は何になるのか。
「好きにすればいい」
「好きに?」
「世界を直したくなったら直せばいいし、旅したければ旅すればいい。スープが好きなら美味い店を探してもいいし、魚が嫌なら食べなくていい」
「それだけ?」
「それだけ」
エルはしばらくレインを見つめ、それから小さく笑った。
「変なの」
「最近よく言われる」
その時だった。
《世界接続》の奥で、ルークが別の記録へ触れた。
『兄さん。もう一つある』
「何?」
『エルが作られた場所らしい記録』
空気が変わった。
【世界維持補助計画――中央施設】
【推定位置――現王国領外】
【現在地形照合――不一致】
【旧座標復元――可能】
【施設最終記録――4,793年前】
そして、その下にもう一つ。
【第一世代自律補助個体――稼働記録あり】
レインは表示を見つめた。
エルは第二世代。
ならば当然、その前が存在する。
「第一世代はどうなった?」
ルークが少し間を置いて答える。
『分からない。でも、停止記録がない』
ノアがすぐに反応した。
「破棄記録は?」
『ない』
「消失記録」
『それもない』
カインがレインを見る。
「じゃあ、まだどこかにいる可能性がある?」
「四千八百年だぞ」
ユウトが言う。
しかし誰も否定できなかった。
目の前に、四千八百年以上前に作られたエル本人がいる。
レインはエルを見る。
「覚えてる?」
エルは目を閉じた。
長い沈黙が続いた。
やがて顔をしかめ、頭を押さえる。
「無理しなくていい」
レインが止めようとした瞬間、エルが小さく呟いた。
「……いた」
「何が?」
「私の前に、一人いた」
断片的な記憶だった。
白い場所。
大きな装置。
まだ世界を知らなかったエル。
その前に立つ、もう一人の存在。
顔も名前も思い出せない。
ただ、一つだけ言葉が残っている。
『世界を守ろうとするな』
エルがその言葉を口にすると、《世界接続》が反応した。
【失われた記録――照合】
【第一世代個体発言――一致率97.4%】
続きがあった。
『世界を守ろうとすれば、いつか世界を自分の正しさに変えたくなる』
そして最後に。
『だから俺たちは、世界が自分で立てなくなった時だけ手を貸す』
レインは何も言わなかった。
四千八百年前。
Rainとは別の場所で、別の誰かも同じ答えへ辿り着いていた。
前へ立って支配するのではなく、後ろから必要な時だけ支える。
エルがレインを見る。
「会いたい」
「第一世代に?」
「うん。私が何だったのか、聞きたい。それから――」
エルは少し考えて言い直した。
「昔の私が何だったかじゃなくて、これからどうすればいいか、一緒に考えたい」
レインは頷いた。
「じゃあ探そう」
ただし、今度は世界を救うためではない。
四千八百年前の謎を解くためでもない。
一人の少女が、自分より先に生まれた誰かへ会い、自分自身の生き方を決めるための旅だった。
その程度の理由で十分だと、今のレインなら思える。
そしてレインはまだ知らなかった。
エルが第二世代として作られた理由は、第一世代が失敗したからではなかった。
第一世代が、自ら世界維持機構を降りたからだった。
――第八十二話 了――




