第八十三話 第一世代
第八十三話 第一世代
第一世代自律補助個体の記録が見つかったからといって、すぐにその場所へ向かうことはできなかった。
最大の問題は、四千八百年という時間だった。
ルークが発見した中央施設の座標は現在の地図とまったく一致せず、当時存在した山脈の一部は既に失われ、逆に現在の王国西部を横断する大河は当時まだ存在していなかった。大規模な地殻変動によって大陸そのものが変形している以上、古い座標をそのまま現在の地図へ当てはめても意味がない。
そのためレインたちは一度王都へ戻り、ルークが拾い上げた世界記録と現在の地形を照合することにした。
「ここじゃない?」
大きな地図の上で、エルが一か所を指差す。
「どうして分かる?」
「何となく」
「四千八百年前の施設を何となくで決めるなよ」
レインが言うと、エルは不満そうに頬を膨らませた。
「でも、知ってる感じがする」
その言葉を聞いたルークが、すぐにエルの指差した場所へ古代地形情報を重ねた。
現在そこにあるのは、王国と帝国のどちらにも属していない北西部の山岳地帯である。標高四千メートルを超える山々が連なり、冒険者どころか軍隊でさえ滅多に入らない地域だった。
ところが現在の地形から約四千八百年前まで逆算すると、そこには山脈ではなく巨大な盆地が存在していた。
「合ってる」
ルークが呟く。
「中央施設は、この盆地の地下にあったみたい」
「今だと?」
「山の下」
ユウトが地図を見ながら嫌そうな顔をする。
「どのくらい下だ?」
ルークが計算する。
「現在の地表から……一番浅い場所でも二千百メートルくらい」
「普通に掘ったら何年かかるんだよ」
「掘らない」
レインは《世界接続》を開いた。
エルが再起動したことで、これまで読み取れなかった世界維持機構の古い経路が部分的に復活している。その中には中央施設と各地の補助地点を結んでいた、現在では使われていない移動経路も含まれていた。
【旧世界維持網――検出】
【中央施設接続路――損傷率82%】
【通常移動――不可能】
【世界維持補助個体による認証――可能】
「エルなら開けるかもしれない」
エルが表示を見る。
「私?」
「第二世代だからな」
「やってみる」
迷いのない返事だった。
翌朝、レイン、カイン、ガルド、ノア、ユウト、ルーク、そしてエルの七人は、王都地下に残されていた古い魔力路へ入った。
本来ならルークを危険な場所へ連れていくことにレインは反対したかったが、今回ばかりは《記録保持者》の能力が必要になる可能性が高く、本人も「兄さんだけ行かせたら絶対に変なものを見つけて帰ってくる」と譲らなかった。
「俺、そんなに信用ない?」
「ない」
「即答するなよ」
「この一か月を思い出して」
何も言い返せなかった。
古い魔力路の最深部でエルが壁へ手を触れると、石壁だと思っていた場所に細い光が走り、四千年以上停止していた機構がゆっくりと目を覚ました。
【第二世代個体――確認】
【識別符号L-0】
【自己選択名称――エル】
【中央施設帰還要求――承認】
「帰還……」
エルがその言葉を小さく繰り返した。
自分では覚えていなくても、この機構にとってエルは今も帰ってくるべき存在なのだろう。
壁の向こうに暗い通路が現れた。
そこから先は普通の地下道ではなかった。現在の空間と古い施設の座標を一時的に接続するための世界維持網であり、《世界接続》で確認しても距離そのものを正確に測定できない。
ガルドが先頭に立ち、エルとルークを中央へ置き、レインたちは慎重に進んだ。
やがて出口が見える。
七人が通過した直後、背後の経路が静かに閉じた。
目の前には巨大な空間が広がっていた。
天井の高さだけでも数十メートルあり、壁面には見たことのない文字と魔法陣が無数に刻まれている。しかし長い年月によって大半は停止し、床には崩れた装置が散乱していた。
エルが一歩前へ出る。
「……知ってる」
「思い出した?」
「全部じゃない。でも、ここにいた」
歩くたびに断片的な記憶が戻るらしい。
エルは迷うことなく施設の奥へ進み、円形の広間へ入った。
そこには二つの台座があった。
片方には、
【第一世代】
もう片方には、
【第二世代】
と表示されている。
エルは第二世代の台座へ近づき、そっと手を置いた。
瞬間、施設全体に光が戻った。
【第二世代自律補助個体――帰還確認】
【長期休眠終了――確認】
【世界維持権限――再照合】
【第一世代管理権限――失効済】
最後の一行に、レインたちは目を止めた。
「失効?」
カインが呟く。
「停止じゃないんだ」
ルークが第一世代側の台座へ近づく。
《記録保持者》が反応した。
【第一世代自律補助個体】
【識別符号――A-0】
【運用呼称――アイン】
【製造時期――推定4,917年前】
【稼働終了――4,803年前】
エルより百年以上前に作られ、エルが完成して間もなく稼働を終えている。
「壊れたの?」
エルが尋ねる。
ルークは首を横へ振った。
「違う」
さらに記録が開く。
【機能障害――なし】
【人格障害――なし】
【世界維持能力――正常】
【権限放棄――本人申請】
誰もすぐには意味を理解できなかった。
「自分で辞めた?」
ユウトが最初に言った。
その表現が最も近かった。
第一世代アインは故障したのでも、破壊されたのでもない。
正常な状態のまま、自分から世界維持機構としての権限を返上している。
「何で?」
エルの問いに答えるように、古い記録が再生された。
広間の中央に、一人の青年が現れる。
もちろん本人ではない。
四千八百年以上前の記録映像だった。
年齢は二十歳前後に見え、灰色の髪を持つ青年は、現在のエルと同じ場所に立っていた。
『世界維持補助個体A-0。運用呼称アイン。世界維持権限の返上を申請する』
別の声が答える。
『理由を記録せよ』
アインはしばらく黙った後、静かに話し始めた。
『私は百十四年間、この世界を観測した。その間に三万七千二百一か所へ介入し、世界維持効率を初期値より18.4%改善した』
数字だけを聞けば優秀だった。
しかしアインは続ける。
『改善しすぎた』
レインの表情が変わった。
『洪水が起きれば川を戻した。疫病が発生すれば原因となる生命を排除した。魔力濃度が下がれば補充し、生命が減れば増やした。私は世界を正常に維持しているつもりだった』
映像のアインが目を伏せる。
『だが百年後、私は気づいた。私が修復した地域ほど、世界自身の回復力が低下している』
ノアが小さく息を吐いた。
「やはりそうか」
助け続ければ、助けられることを前提とした世界になる。
異常が起きるたびに最適な状態へ戻せば、環境が自ら適応する必要がなくなり、生命も変化する機会を失っていく。
『私は世界を守っていたのではない。世界が変わることを、失敗することを、私が許さなくなっていた』
エルは黙って映像を見ている。
『このまま私が世界維持を続ければ、いつか私は世界のすべてを決めるようになる。何が正常で、何が異常か。何を生かし、何を失わせるか。それを一個体が決定する状態は、維持ではない』
記録の声が尋ねる。
『では世界維持補助計画そのものを終了するか』
『否』
アインは即答した。
『私の失敗は、力ではなく運用思想にある。必要なのは、より強い後継個体ではない。自分が介入しないことを選べる後継個体だ』
エルが息を呑む。
第二世代。
自分のことだった。
『第二世代には、世界の理想状態を固定値として与えるな。世界を観察させろ。変化を異常と定義するな。世界自身の回復能力が失われる時だけ介入させろ』
そして、レインたちが既に知っている言葉が続いた。
『世界を守ろうとするな。世界を守ろうとすれば、いつか世界を自分の正しさに変えたくなる』
映像のアインが、誰かへ語りかけるように微笑んだ。
『世界が自分で立てなくなった時だけ手を貸せ。それで十分だ』
記録が終了した。
広間は静かだった。
エルは長い間、何も言わなかった。
やがて第一世代の台座へ手を置く。
「アインは、私を作ったの?」
ルークが残された記録を調べる。
「設計には関わってる。でも製造者は別にいるみたい。アインが第二世代の運用原則を提案して、それを作った人たちがエルに入れた」
「じゃあ、私が全部直しちゃ駄目だって思ったのは……」
「アインが残したものだな」
レインが答えた。
エルは少し嬉しそうに笑った。
しかし、すぐに重要な疑問へ気づく。
「アインはどこへ行ったの?」
誰も答えられなかった。
稼働終了記録の続きを探す。
【世界維持権限――返上】
【世界維持機構接続――解除】
【個体生命活動――継続】
【以後追跡――対象外】
死んだ記録はない。
消滅した記録もない。
単に、世界維持機構ではなくなったため、システムが追跡しなくなっただけだった。
「普通に生きたってこと?」
カインが尋ねる。
「少なくとも、その可能性は高い」
レインが答える。
四千八百年前の人間に近い姿をした存在が、権限を捨てた後どれほど生きられたのかは分からない。
だが、重要なのはそこではなかった。
アインは役割を失ったのではない。
自分から降りた。
そして、それでも生命活動は続いていた。
エルがその記録をじっと見つめる。
「私もできる?」
レインは意味を理解した。
「世界維持機構を辞めるってこと?」
「今じゃない」
エルは首を横へ振った。
「まだ世界が私を必要としてるなら手伝う。でも、いつか必要なくなったら……私もアインみたいに、エルだけになれる?」
レインは笑った。
「なれるだろ」
「本当に?」
「俺がなれたからな」
Rainという機構でありながら、レイン・アークとして生きることを選んだ。
カインも捕食核でありながら、カインとして生きている。
役割を持つことと、役割そのものになることは違う。
エルも同じだった。
その瞬間、中央施設が新しい反応を示した。
【第二世代運用方針――更新】
【最終目標――世界維持機構からの段階的自立】
【世界自然回復能力――測定開始】
【推定自立可能期間――算定中】
長い計算の後、一つの数字が表示された。
【現状維持時――約44年】
【世界自然回復機能修復時――短縮可能】
エルが首を傾げる。
「短くなっていいの?」
「今回はな」
レインは笑った。
これまで期限というものは、長くするために戦ってきた。
だが今回は逆だった。
エルが世界維持機構として働かなければならない時間は、短い方がいい。
世界が自分で立てるようになれば、エルは自由になれる。
「じゃあ目標は四十四年を延ばすことじゃない」
「うん」
「ゼロにする」
エルが自分で言った。
【第二世代個体意思――確認】
【世界維持補助計画――最終段階移行】
その表示が現れた直後、ルークが第一世代の台座の奥に別の記録を見つけた。
「兄さん。まだある」
「今度は何だ?」
「アインが権限を返した後の記録じゃない。返す直前に、個人的な記録を一つ残してる」
再生する。
映像のアインが、今度は正式な報告ではなく、一人で椅子に座っていた。
『これを第二世代が見るかは分からない』
エルの表情が変わる。
『もし見ることがあれば、一つだけ謝っておく。俺はお前に仕事を押しつけて逃げる』
「違う」
エルが小さく言った。
映像には届かない。
『百十四年やった。だから、もういいだろう。海を見に行く。仕事としてではなく、ただ見に行く。魚も食べてみたい。美味いらしい』
ユウトが吹き出しそうになり、レインは横目で制した。
アインは最後に少し照れたような顔で笑った。
『お前も、いつか飽きたら辞めろ』
そこで記録は終わった。
エルは呆然としていた。
やがて。
「魚……」
「そこ?」
レインが思わず聞く。
「アイン、魚好きなの?」
「食べてみたいって言っただけだろ」
「私、嫌い」
「知ってる」
エルはしばらく真剣に考えた後、笑い出した。
世界維持補助個体としての第一世代。
四千八百年前に世界を支え、その危険性に気づき、自分から役割を降りた存在。
その最後の記録が、世界の未来でも壮大な使命でもなく、海を見たい、魚を食べたいという話だった。
レインには、それが何よりも正しい終わり方に思えた。
「帰ったら、海行く?」
カインが尋ねる。
エルは首を横へ振った。
「魚いるから嫌」
「海に行っても食べなくていいんだぞ」
「じゃあ行く」
世界を支える第二世代は、そんな理由で初めて海へ行くことを決めた。
その時、レインの《才能可視化》に、エルの情報がもう一度表示された。
【エル】
【種別――世界維持補助個体】
【自己認識――独立】
【潜在能力――《生命育成》】
【世界維持権限――保有】
そして以前には存在しなかった一行が増えていた。
【将来選択――未定】
決められていない。
だからこそ、それでいい。
レインはその表示を閉じると、仲間たちと共に中央施設を後にした。
四十四年をゼロへ近づける仕事は、これから始まる。
だがそれはエルを消すためではない。
世界を自立させ、一人の少女を役割から自由にするための仕事だった。
――第八十三話 了――




