第七十八話 おかえり
第七十八話 おかえり
終焉回廊を出たレインたちがベルクへ戻った頃には、空がわずかに白み始めていた。境界外領域では時間の感覚そのものが曖昧だったため、実際にどれほどの時間が経過したのか分からなかったが、石造りの建物の向こうから差し込み始めた朝の光を見た瞬間、レインはようやく本当に自分たちの世界へ帰ってきたのだと実感した。
戦いが終わったからといって街が劇的に変わったわけではなく、遠くでは夜警を終えた兵士たちが交代し、宿屋では早起きした店主が表の掃除を始め、パン屋からは焼き上がったばかりのパンの匂いが漂っている。ほんの少し前まで世界の外側で千年以上続いた寄生の歴史と向き合っていたレインには、その何でもない朝の光景こそが、どんな勝利の証明よりも価値のあるものに思えた。
「レイン!」
工房の扉が勢いよく開き、エマが飛び出してきた。
魔力で形成された左腕を使うことさえ忘れたように右腕だけでレインの胸を強く叩き、そのまま怒った顔で見上げてくる。
「遅い!」
「十二時間には間に合っただろ?」
「時間の問題じゃない! 途中から境界の反応が全部変わるし、《レゾナンス》は勝手に完成に近づくし、観測者の侵食はいきなり消えるし、お父さんらしい情報まで増えるし、こっちは何が起きてるのか全然分からなかったんだから!」
一息でそこまで言い切ったエマは、ようやくレインの隣に立っているカイン、ノア、ユウトの姿を順番に確認すると、四人とも無事であることに気づいたのか、張り詰めていた肩から力を抜いた。
「……でも、ちゃんと帰ってきた」
「ああ。ただいま」
「おかえり」
その短いやり取りを聞いたカインが、少しだけ羨ましそうな顔をしたため、エマはすぐに気づいて彼の方を向いた。
「カインも、おかえり」
「……うん。ただいま」
その時、工房の奥からルークが走ってきた。
「兄さん!」
レインへ向かってきたと思ったルークは、その直前で足を止めると、レインではなく《レゾナンス》の置かれている奥の部屋へ視線を向けた。
「ノエルは?」
「まだだ」
「帰せるの?」
「帰せる」
レインが答えると、ルークは何度も頷いたものの、それ以上何も言わなかった。
喜んでいるはずなのに、顔には緊張が浮かんでいる。
当然だった。
ルークにとってノエルは、昨日まで一緒に暮らしていた弟ではない。世界から存在そのものを消され、失ったことさえ忘れさせられた弟であり、戻ってきた記憶も完全ではない。帰ってきたノエルが自分を覚えている保証もなければ、自分が記憶している弟と同じ性格である保証もない。
レインはルークの肩へ手を置いた。
「怖いか?」
「……ちょっと」
「俺もだよ」
「兄さんも?」
「当たり前だろ。俺なんて、最初に何を言えばいいのか全然決めてない」
隣で聞いていたカインが小さく笑った。
「僕は決めてるよ」
「何て言うんだ?」
「初めまして」
レインは思わずカインを見る。
「それでいいのか?」
「だって今の僕としてノエルに会うのは初めてだよ。昔の僕はレインと一緒だったんだから、昔のことを知ってるふりをする方がおかしいでしょ」
レインはしばらく考え、それから笑った。
「確かに」
三人が工房の奥へ入ると、中央には完成した《レゾナンス》が置かれていた。
完成率100%。
しかし見た目が劇的に変わったわけではない。むしろ以前より光が穏やかになり、これまで内部で絶えず揺れていた境界情報もほとんど感じられなくなっている。
【神造武具】
【完成率――100%】
【神造最終機能――《世界帰還》】
【帰還対象――2】
【ノエル・アーク】
【アイリス】
【肉体形成可能】
【世界定着可能】
【実行待機】
レインは表示を確認した後、すぐに実行しようとはせず、エマへ尋ねた。
「二人同時に帰すのか?」
「できる。でも私は一人ずつを勧める。肉体を作って世界へ定着させる工程は、実際にやるのは初めてだから、一人目に問題が起きた時に二人目まで巻き込みたくない」
「順番は?」
エマは少し考えた。
「ノエルから。今の世界で生まれた記録が残ってる分、定着条件がアイリスより安定してるから、最初の実行対象としてはこっちの方が安全」
レインは頷いた。
それなら迷う理由はない。
工房にはガルドとリリアも集まり、王都にいるセラ、ミア、アレン、ソラ、レイ、レオンとは《世界接続》で繋いだ。遠く離れた帝国側にも最低限の状況だけが伝えられたが、これは国を挙げて見守るような儀式ではないため、必要以上に人を集めることはしなかった。
レインは《レゾナンス》の前へ立つ。
「ノエルを帰してくれ」
【《世界帰還》――起動】
【対象――ノエル・アーク】
【独立人格基準――確認】
【世界定着器――形成】
【肉体形成――開始】
《レゾナンス》から白い光が広がり、工房中央へ集まっていく。
最初に現れたのは骨でも肉でもなかった。
世界記録だった。
ノエルがこの世界で生まれたという事実、父と母の子であり、レインとルークの弟であったという記録、七歳まで生きていた時間、レオンへ残した一%の情報、そして消失後にレインとカインの中へ分かれて残っていた存在情報が、一つずつ照合されていく。
【世界出生記録――復元】
【個体連続性――確認】
【欠損領域――補完禁止】
レインはその最後の表示を見て、僅かに安心した。
足りない記憶を勝手に作ることはしない。
戻ってくるのは、理想化された昔のノエルではなく、今残っているノエルなのだ。
やがて光の中に、小さな身体が形を取り始めた。
十歳ほどに見える。
境界内で現れた情報投影より少し成長しているようにも見えたが、保存されていた存在情報と現在の世界定着条件を照合した結果、その年齢が最も安定する肉体として選ばれたらしい。
髪が現れ、指が形を持ち、胸がゆっくり上下し始める。
【肉体形成――100%】
【生命活動――開始】
【世界定着――実行】
【成功】
光が消えた。
少年が床へ倒れそうになったため、レインは反射的に抱き止めた。
温かい。
情報ではない。
幻でもない。
確かに心臓が動いている。
「ノエル……」
レインが名前を呼ぶと、少年の瞼がゆっくり開いた。
しばらく焦点の合わない目で天井を見ていたが、やがて自分を抱えているレインへ視線を移す。
「……兄ちゃん?」
レインの喉が詰まった。
何を言うか決めていなかった。
本当に、その通りだった。
謝るべきなのか。
おかえりと言うべきなのか。
自分が兄だと名乗るべきなのか。
迷っているうちに、ノエルの方が先に眉を寄せた。
「兄ちゃん……大きくなった?」
工房の空気が一瞬止まり、その直後、ユウトが吹き出した。
レインも堪えられなかった。
「そりゃ、まあ……いろいろあったからな」
「どれくらい?」
「説明すると長い」
ノエルはまだ状況を理解できていないようだったが、レインの腕の中で周囲を見回し、ルークを見つけたところで目を止めた。
「ルーク兄ちゃん?」
ルークの顔が歪んだ。
「……うん」
「大きい」
「ノエルがいなくなってから時間が経ったんだよ」
ルークが近づくと、ノエルは不思議そうにその顔を見上げ、やがて何かを思い出したように小さく笑った。
「また会えた」
それだけで十分だった。
ルークはノエルを抱き締めた。
ノエルは少し驚いていたが、やがて細い腕をルークの背中へ回した。
その横でカインだけが少し離れて立っている。
ノエルが気づいた。
「……誰?」
「うん。それが普通だよね」
カインはノエルの前まで歩き、少しだけ緊張した顔でしゃがんだ。
「初めまして。僕はカイン」
「カイン?」
「レインの兄弟みたいなもの……って言うとちょっと違うかな。僕も君の兄だと思ってる。ただ、そう思うかどうかはノエルが決めていいよ」
ノエルはカインをじっと見る。
何かを感じ取ったのかもしれない。
やがて首を傾げた。
「兄ちゃんに似てる」
「元々一人だったからね」
「?」
「それも説明すると長い」
「みんな長いね」
今度は工房に笑いが起こった。
レインはその光景を見ながら、胸の奥に長く残っていた何かが、ようやく少しだけほどけていくのを感じた。
しかし、まだ一人残っている。
エマが《レゾナンス》を確認した。
「問題なし。ノエルの世界定着は完全に安定してる。《世界帰還》も正常に再使用できる」
レインはノエルへ尋ねた。
「もう一人、ずっと帰るのを待ってる人がいるんだ。一緒に迎えていいか?」
「女の人?」
「知ってるのか?」
「少しだけ。暗いところで一緒だったから」
保存領域の中で直接会話できなかったはずだが、互いの存在くらいは感じていたのだろう。
ノエルは頷いた。
「一緒に帰ろう」
レインは立ち上がった。
二度目の《世界帰還》が始まる。
【対象――アイリス】
【現世界出生記録――なし】
【新規世界定着――実行】
【独立人格基準――確認】
【本人選択――確認】
【肉体形成――開始】
ノエルとは違い、アイリスにはこの世界での出生記録がない。
そのため《レゾナンス》は過去の肉体を復元するのではなく、保存されていた本人の存在情報を基準として、新しい世界法則の中でも生存できる肉体を形成していく。
淡い金色の髪。
閉じられた瞼。
細い身体。
終焉回廊で見た十七、八歳ほどの少女の姿が、今度は情報投影ではなく、確かな肉体として形成されていった。
【肉体形成――100%】
【現世界生命法則――適合】
【世界定着――実行】
一瞬だけ表示が止まった。
レインの心臓が強く鳴る。
【世界承認――照合】
【本人意思――照合】
【帰還後居場所――確認】
そして。
【世界定着――成功】
アイリスの身体がゆっくり床へ降りる。
レインが支えようとしたが、彼女は自分の足で立った。
少しふらつきながらも踏み止まり、ゆっくり目を開く。
青い瞳だった。
最初にレインを見る。
次にカイン。
そして周囲に集まっている知らない人々を見る。
最後に、窓の外から差し込んでいる朝の光へ顔を向けた。
長い間、何も言わなかった。
レインたちも急かさなかった。
やがてアイリスは窓へ歩き、恐る恐る手を伸ばして朝の光へ触れた。
「……暖かい」
その声は震えていた。
境界の外側には、本当の朝はなかった。
保存された世界には空があっても、それは記録でしかなかった。
今、彼女の頬を照らしている光だけが、千年以上待ち続けた本物の朝だった。
アイリスは窓を開けた。
冷たい朝の風が工房へ入り、淡い金色の髪を揺らす。
遠くから鳥の声が聞こえる。
パンの焼ける匂いも流れてきた。
アイリスはその一つ一つを確かめるように目を閉じ、それから振り返った。
「レイン」
「ああ」
「今度は……置いていかなかったね」
レインは一瞬、答えられなかった。
その言葉は現在のレインだけに向けられたものではない。
千年以上前、彼女を境界の外へ残してしまったRain。
二百十四年前、《レゾナンス》を作りながら帰還させられなかったRain。
何度も失敗し、それでも次のRainへ方法を残し続けたすべての過去へ向けられた言葉だった。
「遅くなった」
レインは答えた。
「千年以上」
アイリスが笑う。
「本当に遅い」
「ごめん」
「でも、来た」
「ああ」
「だから、いいよ」
それ以上の言葉はいらなかった。
ノエルがレインの服を引っ張る。
「兄ちゃん」
「ん?」
「お腹すいた」
レインは固まった。
世界継承機構。
観測者。
千年以上の寄生。
二核の分離。
《レゾナンス》。
世界帰還。
それだけの出来事を乗り越えて帰ってきた弟の最初の要求が、食事だった。
ユウトが腹を抱えて笑い始める。
「最高だな、お前の弟!」
「笑うな」
「だって世界の外から帰ってきて第一声が腹減っただぞ」
「第一声じゃない!」
レインが反論していると、アイリスが不思議そうに尋ねた。
「食べるって……どんな感じ?」
全員が止まった。
彼女には、千年以上まともな肉体がなかった。
レインは少し考えてから笑った。
「それじゃ、最初に飯にしよう」
アイリスが目を輝かせる。
「美味しい?」
「多分」
「多分なの?」
「俺が作るなら保証する」
「兄ちゃん、料理できるよ」
ノエルがなぜか得意そうに言う。
「昔から?」
「昔から。荷物持ちと料理ばっかりしてたから」
「おい、そこは余計だ」
また笑いが起こった。
レインはその中心で、ノエルとアイリスを見た。
二人とも生きている。
もう保存情報ではない。
世界の外側で待つ存在でもない。
これから腹が減り、眠くなり、笑い、怒り、失敗し、時には病気にもなり、いつかは老いていく普通の生命として、この世界で時間を重ねていく。
【世界帰還――完了】
【帰還個体――2】
【ノエル・アーク――現世界定着】
【アイリス――現世界定着】
【神造武具――使命達成】
表示が静かに消えていく。
しかし、その直後だった。
レインの視界に、自分自身のステータスが開いた。
【レイン・アーク】
【表示Lv――30】
【表示ランク――D】
【真Lv――100】
【職業――《後衛》】
そこまでは変わらない。
だが、一番下に見覚えのない項目が追加されていた。
【世界継承機構――完成】
【世界捕食寄生体――分離】
【継承世界数――0】
レインは首を傾げた。
「……ゼロ?」
観測者から解放され、世界継承機構は100%完成した。
それなのに、継承世界数はゼロと表示されている。
その意味を考えるより早く、新しい文字が現れた。
【次回継承――未定】
【強制継承――なし】
【世界渡航――任意】
そして最後に。
【現在世界――継承対象ではありません】
レインはしばらく表示を見つめ、それから静かに笑った。
今までRainは、世界が滅びれば次へ行く存在だった。
世界を背負い、記録し、残し、また次の世界へ渡ることを宿命としてきた。
しかし完成した世界継承機構は、レインへ命令しなかった。
この世界を離れろとも、次の世界を探せとも言わない。
世界を渡る力はある。
けれど、使うかどうかは自分で決められる。
レインは窓の外を見る。
朝のベルクでは、人々がいつも通り一日を始めている。
その隣ではノエルが朝食を催促し、アイリスが初めて見る鳥を不思議そうに眺め、カインはそんな二人を見ながら笑っている。
ここに残る理由としては、それで十分だった。
「レイン?」
アイリスが呼ぶ。
「何でもない」
レインは表示を閉じた。
「飯にしよう」
世界最強でもない。
世界を支配する者でもない。
攻撃能力など、最後まで一つも手に入らなかった。
それでもレインは、少しだけ胸を張って歩き出した。
世界を救うためではなく。
仲間と一緒に、今日を生きるために。
――第七十八話 了――




