第七十五話 最後の三パーセント
第七十五話 最後の三パーセント
【受容核解析――1%】
【捕食核分解――1%】
【外部寄生拒絶機能――生成開始】
原初寄生情報へ触れた瞬間から、レインの中には自分のものではない膨大な感覚が流れ込み始めていた。それは人間の記憶とはまるで異なり、喜びや悲しみといった感情を伴うものではなく、ただ生き残るために周囲の情報を読み取り、自分の構造を書き換え、利用できるものを取り込んでいくという極めて単純な行動の積み重ねだった。
千年以上前、観測者は世界を滅ぼしたいと考えてRainへ近づいたわけではなかった。
世界を支配しようという目的さえ持っていなかった。
最初に存在したのは、ただ「消えたくない」という生存反応だけだった。
「レイン、どう?」
隣で原初寄生情報を分解しているカインの声が聞こえたため、レインは解析を止めないまま、自分が見ている情報を《相互支援》へ流した。
「こいつ……最初は世界を喰おうとしてなかった。境界の中で生まれて、何かに寄生しないと自分を維持できなかったんだと思う」
「じゃあ、Rainを見つけたからくっついた?」
「多分。でも、そこでRainが持っていた能力を覚えた」
滅びる世界から情報を受け取る受容核と、崩壊した情報を分解する捕食核。その二つの機能は、単独では世界へ入ることさえできなかった原初の情報生命体にとって、あまりにも都合の良いものだった。
最初はRainの世界移動に便乗しただけだったものが、やがて世界情報そのものを栄養として利用することを覚え、さらに受容核と捕食核を統合すれば、情報を受け取る機能と喰う機能を一つの存在として支配できることまで学習した。
【受容核解析――19%】
【捕食核分解――17%】
【寄生原理――部分解明】
【生存依存対象――世界継承機構】
レインはそこで重要な事実に気づいた。
観測者がRainを追い続けているのは、世界を喰うための便利な道具だからという理由だけではない。千年以上もRainへ寄生し続けた結果、自分自身の構造を世界継承機構へ依存する形に変えすぎてしまい、今ではRainとの接続なしに安定して存在することさえ難しくなっている。
「だから俺たちを一つに戻したがってるのか」
観測者にとって、受容核と捕食核が別々の人間として完成することは、自分が利用してきた寄生経路そのものを失うことを意味している。まして外部寄生拒絶機能まで完成すれば、千年以上にわたって利用してきた宿主から永久に締め出されることになる。
その事実へ到達した瞬間、周囲を覆っていた黒い情報が激しく動いた。
「解析を停止しろ」
観測者の声が境界深層全体から響いたが、先ほどまでの命令口調とは違い、その奥には明らかな焦りが混ざっていた。
「受容核。お前は我々なしでは完成しない。捕食核。お前は受容核なしでは存在を維持できない。二つは不完全。一つへ戻れ」
レインは解析を続けながら、思わず苦笑した。
「まだそれ言ってるのか。俺たちはもう、それが間違いだって知ってる」
「二つでは弱い」
「弱くていいよ。足りないところは仲間に頼るから」
その返答と同時に、観測者から押し寄せた情報の塊がレインたちへ迫った。しかしユウトが《同期解析》によって複数の情報流が一つの命令源から動いていることを見抜き、ノアがその解析結果を使って最も薄い地点へ生存経路を組み直したため、黒い奔流は四人を完全には捉えられなかった。
それでも防ぎ切れる量ではない。
ユウトの存在固定率が急速に低下し始め、ノアの右腕も輪郭が薄くなっていく。
「ノア!」
「こちらを見るなと言ったはずだ。今のお前が支援をこちらへ集中させれば、原初寄生情報の解析が遅れる」
「でも、このままだと二人が――」
「後衛が仲間を信じるという話を、つい先ほどまでしていただろう」
ノアは冷静だった。
「我々は守られるためだけについて来たのではない。自分で選んでここにいる」
その言葉に反応するように、《広域後衛》が僅かに震えた。
レインが意識して支援を送ったわけではない。それにもかかわらず、現世界へ残してきた《自律支援網》が動き、必要な支援を自ら選択したノアとユウトへ、境界を越えて力が流れ込んでくる。
【自律支援網――境界外接続】
【支援要求――ノア】
【支援要求――結城悠斗】
【現世界側承認――成立】
遠く離れた仲間たちが、自分たちの判断で支援網を繋いだのだった。
レインがすべてを指示しなくても、仲間は動ける。
それこそ、Rainが一人で世界を背負わなくてもよいという証明でもあった。
【受容核解析――43%】
【捕食核分解――41%】
【外部寄生拒絶構造――仮形成】
カインが突然顔をしかめた。
「レイン、これ以上分解すると、変なのが出てくる」
「変なの?」
カインが分解した原初寄生情報の奥から、これまでとは異なる小さな情報が現れていた。それは観測者がRainから盗んだ情報でも、世界から捕食した情報でもなく、観測者自身が最初から持っていた構造だった。
レインが慎重に触れる。
【原初個体情報――検出】
【自己識別情報――残存】
【内容――生存要求】
それだけだった。
名前もない。
出身世界もない。
誰かを憎んだ記録もない。
ただ、生きたい。
千年以上前の観測者が持っていた最初の情報は、それだけだった。
カインが小さく尋ねる。
「これも喰う?」
レインはすぐには答えなかった。
観測者を完全に消滅させるのであれば、この情報まで分解した方が確実なのかもしれない。しかし、それは壊れた世界から何を残すかを勝手に決めていた過去のRainと同じ行為にも思えた。
「それは残そう」
「危なくない?」
「寄生する仕組みと、こいつが存在していることは別だ。俺たちに入り込んで勝手に書き換える部分だけを分解してくれ」
カインは少しだけ笑った。
「了解。僕、こういう細かい仕事ばっかり上手くなってない?」
「世界を喰うよりいいだろ」
「まあね」
カインは原初個体情報を避けながら、寄生構造だけを正確に切り分け始めた。
【捕食対象再設定】
【対象――強制接続機能】
【対象――人格侵食機能】
【対象――二核統合命令】
【原初個体情報――保護】
その瞬間、観測者の反応が変わった。
「なぜ残す」
レインは一瞬、解析を止めそうになった。
これまで観測者は命令し、要求し、二人を統合しようとしてきた。しかし今の言葉は初めて、レインの行動を理解しようとする問いだった。
「お前が生きたいと思うことまで、俺が消していい理由はないからだ」
「我々はお前を喰う」
「だから寄生は拒否する」
「我々は世界を喰う」
「それも止める」
「ならば我々を消すべきだ」
レインは少し考えてから答えた。
「お前が俺たちから離れて、それでも生きられる方法があるなら、消す必要はないだろ」
返事はなかった。
観測者自身にも、その発想が存在しなかったのかもしれない。
千年以上、Rainへ寄生することでしか生きてこなかった存在にとって、宿主から離れて生きるという選択肢そのものがなかったのである。
解析が一気に進む。
【受容核解析――71%】
【捕食核分解――69%】
【外部寄生拒絶機能――構築率74%】
しかし同時に、レインとカインを覆う黒い線が急激に増えた。観測者の一部は会話を続けながらも、境界領域全体に広がる本能的な寄生機能までは止められず、完成前に二核を強制統合しようとしている。
カインの右腕が一瞬、レインの身体へ引き寄せられた。
「レイン!」
「離れるな! でも混ざるな!」
「無茶苦茶な言い方だね!」
二人は互いの手を掴んだ。
距離を取るのではなく、繋がったまま別人でいる。
それこそが《相互支援》だった。
【受容核――レイン・アーク】
【捕食核――カイン】
【独立人格――維持】
【相互支援――最大】
【統合要求――拒否】
解析率が80%を越える。
その頃にはレインも、最後の三%をどう作ればよいのか完全に理解していた。必要なのは外部情報をすべて遮断する壁ではない。それでは世界から情報を受け取り、仲間と繋がる《後衛》としての能力まで失われてしまう。
必要なのは、接続するかどうかを自分たちで選べる仕組みだった。
【外部接続原則――受容核・捕食核双方の意思確認】
【一方拒否時――内部構造変更禁止】
【人格情報変更――本人同意必須】
【二核統合――双方の意思があっても実行不可】
最後の項目を見て、カインが笑った。
「そこは絶対禁止なんだ」
「世界の方も相当反省したんじゃないか?」
「千年以上失敗してるからね」
やがて解析率と分解率が同時に99%へ到達した。
残されたのは、観測者が最初に二核の間へ挿入した一本の接続だけだった。
レインはその構造を完全に記録し、カインが寄生機能だけを切り離す。
【受容核解析――100%】
【捕食核分解――100%】
【原初寄生情報――処理完了】
二人の間に、新しい世界法則が固定された。
【外部寄生拒絶機能――完成】
【世界継承機構完成度97%→100%】
その瞬間、レインとカインの身体を覆っていた黒い線がすべて消えた。
【二核強制統合――解除】
【人格侵食――解除】
【世界捕食寄生体による管理権限――0%】
【Rain――完全独立】
千年以上にわたり世界継承機構へ食い込んでいた観測者の接続が、初めて完全に外れた。
しかし観測者そのものは消えなかった。
境界外領域には依然として巨大な情報生命体が存在している。ただしRainを通じて世界へ接続していた経路だけが失われ、周囲を覆っていた黒い情報が急速に縮み始めていた。
「消えるのか?」
ユウトが尋ねる。
レインは《世界接続》で確認したが、返ってきた結果は違った。
【世界捕食寄生体――存続】
【世界継承機構への寄生――不可能】
【現世界侵入経路――喪失】
【状態――境界外孤立】
勝った。
少なくとも、自分たちの世界を守るという意味ではそう言ってよかった。
ところが次の瞬間、《レゾナンス》から緊急通信が入った。
『レイン!』
エマだった。
『侵食が全部止まった! ノエルとアイリスも無事! それから《レゾナンス》が――』
彼女が言い終える前に表示が現れる。
【世界継承機構――100%完成を確認】
【外部寄生拒絶構造――《世界帰還》へ反映】
【神造武具完成率91%→96%】
残り四%。
ノエルとアイリスの帰還まで、あと僅かだった。
レインが安堵した、その時だった。
背後から弱い声が聞こえた。
「レイン……」
振り返る。
深層へ入る直前に父を残した方向から、父の存在反応が急速に薄くなっていた。
観測者との接続が切れたということは、観測者の内部情報として存在していた父もまた、その存在を維持するための場所を失ったことを意味している。
【内部抵抗個体――接続消失】
【識別――父】
【存在維持率――18%】
レインの表情から、喜びが消えた。
世界継承機構は完成した。
観測者からも解放された。
しかし、まだ帰ることはできなかった。
カインも同じ表示を見つめていた。
「レイン」
「ああ」
二人はほとんど同時に、来た道へ向き直った。
父を置いて帰るという選択肢は、最初からなかった。
――第七十五話 了――




