第七十四話 最初の寄生地点
第七十四話 最初の寄生地点
「観測者が最初にRainへ寄生した場所まで行く必要がある」
父からそう告げられたレインは、その場所へ行けば単純に観測者を倒せるのだとは考えなかった。千年以上前、世界継承機構として存在していた最初期のRainは、受容核と捕食核という二人の人間に分かれたまま、滅びゆく世界から残すべき情報を受け取り、壊れた部分だけを処理しながら次の世界へ運んでいた。しかし境界を渡る途中で正体不明の情報生命体に接触され、二人を結んでいた相互支援の構造を強制統合へ書き換えられたことで、本来なら二人で完成するはずだった世界継承機構は、一人のRainとして存在する異常な形へ変えられてしまった。
それ以降、Rainは世界を救うための機構でありながら、条件次第では世界そのものを捕食する存在へ変わるようになり、観測者はその欠陥を利用しながら千年以上にわたってRainを追い続けてきたことになる。
「そこへ行けば、観測者との接続を完全に切れるのか?」
レインが尋ねると、父はしばらく考えてから、簡単にはいかないという意味を込めるように首を横へ振った。
「お前とカインに繋がっている接続だけなら、今のお前たちでも切れるだろう。しかし奴が最初に書き換えたのは一人のRainではなく、世界継承機構そのものだ。お前たちだけが解放されても、機構の内部に寄生経路が残っていれば、奴は時間をかけて再び接続してくるし、場合によっては次のRainへ寄生することさえできる」
「だったら、俺たち自身の仕組みを変える必要があるってことか」
「正確には、原初の世界継承機構には存在しなかった機能を追加する必要がある。受容核と捕食核の関係を外部から書き換えられないようにし、二人の意思を無視した統合も、外部情報による侵入も拒絶する機能だ」
その説明を聞いたレインは、世界継承機構の完成度が97%で止まっている理由をようやく理解した。原初のRainは不完全な試作品だったわけではなく、世界の外側に自分たちとは異なる情報生命体が存在し、それが世界を渡る機構へ寄生するという事態そのものを想定していなかったのである。受容核と捕食核が互いを支える仕組みは最初から存在していたものの、その関係を第三者から守る機能だけがなく、観測者はそこへ入り込んだ。
「その最初の場所は、もう分かってるの?」
カインが尋ねると、父は境界外領域のさらに奥へ視線を向けながら、自分が長い時間ここへ残っていた理由の一つが、その場所を探すためだったと説明した。
「完全な座標までは特定できなかった。ただ、お前たちが受容核と捕食核として独立しながら《相互支援》を完成させたことで、原初の二核構造と同じ経路を辿れるようになっている。俺には入れなかった場所でも、今のお前たちなら到達できるはずだ」
父が手を伸ばすと、周囲を流れていた膨大な情報の一部がゆっくりと分かれ、暗い境界外領域の中に細い道のようなものが形成された。
【境界深層経路――検出】
【推定到達地点――原初寄生座標】
【距離――測定不能】
【到達条件――二核相互固定】
表示を確認したノアは、目的地よりも「距離測定不能」という部分を問題視し、現世界との時間差が発生する可能性を指摘した。現在、《レゾナンス》は観測者から《世界帰還》の接続先を書き換えられようとしており、エマの見立てでは長くても半日程度しか安全な状態を維持できないため、境界深層で何日も費やす余裕はない。
レインがベルクへ通信を繋いで状況を確認すると、返ってきたエマの声は先ほどより切迫していた。
『侵食が少し強くなってる。今のままだと八時間くらいかな。それ以上になると、私でもノエルとアイリスの保存領域を守りながら《世界帰還》の書き換えを止められる保証がない』
「八時間か……」
レインは一度目を閉じ、《世界接続》を現世界側へ伸ばした。境界外領域では通常の世界法則がほとんど働かないため、本来なら遠隔支援も極端に弱くなるはずだったが、《レゾナンス》が帰還座標として現世界を固定していることで、一本だけ細い接続が残っている。その接続へ真Lv100となった受容核の認証情報を送り込み、《レゾナンス》の正規使用者が誰なのかを世界帰還機能そのものへ再確認させた。
【世界継承機構――受容核認証】
【《世界帰還》正規使用者――照合】
【外部書換要求――拒否】
数秒後、エマの驚いた声が返ってきた。
『侵食速度が落ちた。完全には止まってないけど、これなら十二時間くらいまで伸ばせると思う』
「だったら、その十二時間以内に戻る」
「十二時間で到達できる保証はないが、少なくとも何もしないより条件は良くなった」
ノアの現実的な指摘に頷き、レインたちは深層経路へ入ろうとした。しかし父が一歩踏み出した瞬間、その身体が大きく揺らぎ、腰から下が光の粒子となって崩れ始めたため、レインは慌てて引き返そうとした。
「来るな。俺はここから先へ行けない」
父はレインを手で制しながら、自分の生命情報は既に観測者の内部へ深く組み込まれており、原初寄生座標へ近づけば、観測者にレインたちの位置を知らせる目印になってしまうと説明した。
「ここから先は、お前たちだけで行け。俺が同行するより、その方が見つかるまでの時間を稼げる」
レインは納得できない表情を浮かべたが、その横でカインが父をじっと見つめた後、静かに尋ねた。
「僕たちが帰ってくるまで、ここにいる?」
父は一瞬だけ驚いた顔をしたものの、やがて小さく笑って「努力する」と答えた。
「じゃあ、帰ってきたら話の続きをする。僕はまだ、あなたを許したわけじゃないし、聞きたいこともいっぱいあるから」
「ああ。それでいい」
カインは父を許したわけではない。それでも「帰ってきたら」と言ったことで、父と自分の間に未来の時間を残した。その意味を理解したのか、父はそれ以上何も言わず、深層へ向かう四人を見送った。
境界深層には本来、上下も前後も存在していなかったが、レインとカインが《相互支援》によって互いの存在を固定することで、少なくとも自分たちが進むべき方向だけは認識できた。ノアとユウトについても、レインが《全域支援》で現世界との接続を維持し続けることで、二人の肉体が境界情報へ分解されるのを防いでいる。
どれほど進んだのか分からなくなった頃、ユウトが突然足を止め、《境界戦術士》の《同期解析》を発動した。
「追われてる。ただし、こっちを直接攻撃しようとしている感じじゃない。もっと別の方法で進行を邪魔してる」
その直後、周囲の情報が形を変え、レインの目の前に幼い頃のノエルが現れた。少し離れた場所には母やルークの姿まであり、どれも記憶の中とほとんど同じだったため、レインは無意識にノエルの方へ足を向けかけたが、その腕をカインに掴まれた。
「そっちじゃない。僕たちが進んでいた方向は右だよ」
「分かってる。ただ、あまりにも本物っぽかったから……」
「今、本気で近づこうとした人の台詞じゃないよ」
カインが《境界干渉》でノエルの姿に触れると、少年の身体は一瞬で黒い情報へ変わって消えた。観測者は直接攻撃するのではなく、四人の記憶を利用して進行方向を狂わせ、原初寄生座標へ到達させないよう誘導しているらしい。
次にカインの前へ現れたのは父だった。
偽物の父は穏やかな表情で手を伸ばし、「今度こそ、お前をレインへ戻してやる」と告げたが、カインは一瞬も迷わずその姿を切り裂いた。
「それ、僕が一番嫌いな言葉だから。偽物を作るなら、もう少し僕のことを勉強した方がいいよ」
「観測者は二人を一つへ戻すことが正しいと本気で考えている。だからこそ、二人がそれを最も拒絶していることを理解できないのだろう」
ノアの分析を聞きながら、レインは妙な皮肉を感じていた。千年以上もRainを追い続けてきた存在が、Rainの能力や構造については誰より詳しいにもかかわらず、レインとカインが別々の人間として生きたいという最も単純な願いだけを理解できていないのである。
さらに深層へ進むにつれて、周囲から世界の記録も生命情報も消えていき、やがて観測者の反応さえほとんど感じられない静かな領域へ辿り着いた。
そこで四人が目にしたのは、原初記録に残されていた滅びゆく世界――エルノアだった。
崩壊率94.7%。
残された時間、十九時間。
映像の中では黒髪の青年と赤茶色の髪をした女性が互いの手を握り、崩壊した世界から持ち出した情報を次の世界へ運ぼうとしている。
【受容核――正常】
【捕食核――正常】
【相互支援――正常】
以前に見た原初記録はここから大きく欠落していた。しかし今回は、その直後に何が起きたのかまで鮮明に残されている。
境界を渡った二人の近くへ、一粒の黒い情報が漂ってきた。
巨大な怪物ではなかった。攻撃能力を持っているようにも見えず、意思が存在するのかさえ疑わしいほど小さな情報体だった。
【未知情報――接触】
【外部情報取得――開始】
【世界継承情報――解析】
黒い粒は二人を攻撃するのではなく、まずRainが運んでいた情報を覗き、その仕組みを学び始めた。世界を渡る方法、滅びた世界から情報を受け取る方法、崩壊した部分を情報へ変換する方法を少しずつ吸収し、それに合わせて自分自身の構造まで変化させていく。
【未知情報生命体――自己改変】
【生存方式――寄生】
【対象――世界継承機構】
「最初から世界を喰う怪物だったわけじゃなかったのか……」
ユウトが低い声で呟くと、ノアも映像から目を離さず、「Rainから学習し、Rainの機能を模倣することで現在の世界捕食寄生体へ変化したのだろう」と答えた。
やがて黒い粒は二人の間に存在する《相互支援》へ入り込み、最初の書き換えを始めた。
【二核構造――非効率】
【情報処理効率改善――統合を推奨】
【外部書換――開始】
レインは、その表示を見た瞬間に背筋が冷たくなった。千年以上経った現在まで、観測者が繰り返し口にしてきた「二つは不完全」「一つに戻せ」という考えは、この時から何一つ変わっていない。
映像が消えると、四人の前には当時の黒い粒と同じ情報だけが残された。
【原初寄生情報――検出】
【世界捕食寄生体――最古構造】
【世界継承機構完成度――97%】
【不足機能――外部寄生拒絶】
そして、これまで表示されなかった最後の完成条件が初めて明らかになる。
【原初寄生情報を解析し、拒絶情報へ反転せよ】
【受容核――寄生構造解析】
【捕食核――寄生情報分解】
【二核相互支援――拒絶構造固定】
【成功時――世界継承機構完成度100%】
カインは黒い粒を見つめながら、「僕がこれを喰えば終わる?」と尋ねたが、レインはすぐに首を横へ振った。
「それだけじゃ駄目だと思う。お前が消してしまったら、また同じものが来た時に防げない。俺がこいつの仕組みを全部受け取って、どうやってRainへ入り込んだのかを理解する。その上でお前が寄生部分だけを分解して、最後に《相互支援》を使って『外から二人を書き換えさせない仕組み』として俺たちの中へ残す」
「つまり、敵の仕組みを僕たちの免疫にする?」
「多分、それが一番近い」
受容核だけでは寄生情報を抱え込んでしまう可能性があり、捕食核だけでは原因ごと消してしまうため、次の侵入に備えることができない。相手を理解するレインと、不要な部分だけを分解できるカインが同時に処理し、その結果を二人の共通構造へ固定して初めて、千年以上存在しなかった最後の三%が完成する。
二人が同時に原初寄生情報へ手を伸ばした瞬間、それまでほとんど反応を示していなかった境界深層全体が激しく震えた。
【警告】
【世界捕食寄生体――本体反応】
四方から膨大な黒い情報が流れ込み、初めて観測者の声に明確な感情が混ざる。
「それを知るな。触れるな。解析を停止しろ」
恐怖だった。
観測者は、RainがLv100へ到達した時よりも、《レゾナンス》が91%へ到達した時よりも、原初寄生情報へ触れた今の方を恐れている。
ユウトは即座に《崩壊予測》を最大まで展開し、押し寄せる情報の流れが最初に崩す場所を読み始め、ノアもその結果を使って四人の存在を維持できる経路を組み直した。
「レイン、カイン、こちらを見るな。お前たちは解析を続けろ。完全に防げる保証はないが、お前たちが中途半端に手を離せば、ここまで来た意味そのものがなくなる」
以前のレインなら、自分の支援を守りへ回し、全員を自分で助けようとしたかもしれない。しかし終焉回廊で何度も学んだように、後衛とは何もかも一人で抱える者ではない。仲間に任せるべき時に任せ、その力を信じることもまた後衛の役割だった。
「頼む、ノア。ユウト」
「ああ。そっちは任せた」
レインは原初寄生情報の構造解析へ意識を集中させ、カインもその情報を消滅させないよう慎重に分解を始める。
【受容核解析――1%】
【捕食核分解――1%】
【外部寄生拒絶機能――生成開始】
二人の間にある《相互支援》へ、これまで存在しなかった新しい情報が少しずつ組み込まれていく。それは壁を作って世界との接続を閉ざす機能ではなく、外部から届いた情報を受け取る前に二人の意思を確認し、どちらか一方でも拒絶すれば内部構造への書き換えを許さないという、極めて単純な仕組みだった。
千年以上前のRainに足りなかったものは、圧倒的な力ではなかった。
自分たちの関係を、自分たち自身で決める権利を守る仕組みだったのである。
解析率が上昇するほど観測者の攻撃は激しくなり、境界深層そのものが崩れ始めていたが、レインはもう手を離さなかった。
この三%を完成させれば、Rainは初めて観測者なしで世界を渡れる。
そして観測者もまた、Rainなしでは世界を渡れなくなる。
千年以上続いた寄生関係を終わらせるための本当の戦いが、ようやく始まった。
――第七十四話 了――




