第七十三話 向こう側へ
第七十三話 向こう側へ
観測者の内部へ入れるようになったからといって、レインはすぐに《境界外領域への接続》を発動しなかった。
真Lv100へ到達した直後からレインとカインの身体には黒い線が浮かび、二人を強制的に一つへ戻そうとする力が絶えず働いているうえ、《レゾナンス》にも同時に侵食が始まっている。ここで何も考えず敵の領域へ飛び込めば、観測者にとっては自分から捕まりに行くのと変わらない。
「ノア。入る前に整理したい」
「当然だ。敵の本体へ乗り込むのに、勢いだけで行かれては困る」
ノアはそう答えると、終焉回廊に残された情報と仲間たちから届く報告をまとめ始めた。
最優先は《レゾナンス》だった。
ベルクではエマが神造補助肢を展開し、完成率91%まで成長した《レゾナンス》を直接制御している。その周囲をガルドとリリアが守り、ルークが《記録保持者》として内部に保存されたノエルとアイリスの存在情報を監視していた。
『侵食はまだ外側だけだよ』
エマの声が届く。
『《レゾナンス》そのものを乗っ取ろうとしてるんじゃなくて、《世界帰還》の接続先を書き換えようとしてるみたい。このまま完成させたら、ノエルとアイリスを今の世界じゃなくて、観測者側へ送られる可能性がある』
「完成を止められる?」
『止めるだけならできる。でも91%の状態を維持しながら侵食を防ぐのは、長くても半日くらいだと思う』
十二日の猶予などなかった。
レインたち自身の強制統合は十二日後でも、《レゾナンス》はそれより遥かに早く危険な状態になる。
ノアが確認する。
「観測者を倒せば侵食は止まるのか?」
『分からない。でも接続元を消すか切り離せれば、少なくとも書き換えは止められるはず』
そこでルークが割り込んだ。
『兄さん、もう一つある』
「どうした?」
『父さんの反応が強くなってる』
レインは息を止めた。
父の肉体は既に死んでいる。しかし生命情報の一部は観測者内部へ移され、これまで内部抵抗として検出されていた。
【観測者】
【内部抵抗――検出】
【識別――父】
以前は覚醒率15%程度だったその反応が、真Lv100への到達と同時に急激に変化しているらしい。
ルークから情報が送られる。
【内部抵抗反応――増大】
【外部接続要求――検出】
【対象――レイン・アーク】
【対象――カイン】
「父さんが呼んでる?」
『多分。ただ、本人の意識が残っているかまでは分からない。記録だけが反応している可能性もある』
それでも、観測者内部へ入るための手掛かりとしては十分だった。
レインは自分に浮かぶ黒い線へ意識を向ける。
強制統合のために観測者から伸びている接続。
普通なら切断すべきものだ。
しかし今は、それを逆に利用できる。
「カイン。この線、切らずに辿れる?」
カインは少し驚いた後、すぐに意図を理解した。
「向こうが僕たちを引っ張ってるなら、接続先は必ず本体に繋がってる。でも、そのまま行ったら統合されるよ」
「だから《相互支援》を使う。俺がお前を固定して、お前が俺を固定する」
二人が独立したまま互いを支える現在の構造なら、観測者の接続を利用しながら強制統合だけを拒否できる可能性がある。
ノアは成功率を計算した。
【境界外領域侵入成功率――68%】
【二核独立維持率――74%】
【帰還経路維持率――39%】
「帰って来られる確率が低いな」
ユウトが言う。
「だったら帰還経路は外から作る」
レインはベルクへ通信を繋いだ。
「エマ。《レゾナンス》の《世界帰還》、まだ完成してなくても接続だけなら使える?」
『誰かを帰還させるのは無理。でも座標を固定するくらいならできると思う』
「俺たちの今いる世界を帰還地点として固定してほしい」
エマはすぐに理解した。
『帰ってくるための目印にするんだね』
「うん。それと、俺たちが向こうへ入った後は《レゾナンス》を完成させないでくれ。侵食が残っている状態で100%にしたくない」
『分かった』
準備が整うにつれ、帰還成功率が上昇していく。
【《世界帰還》座標固定――仮成立】
【帰還経路維持率――39%→63%】
まだ安全とは言えないが、賭ける価値はある。
ところがレインが出発しようとすると、ノアも当然のようについて来た。
「ノア?」
「何だ」
「向こう側、世界法則が通じる保証ないぞ」
「だから必要だろう。お前とカインだけで行けば、二人とも感情で突っ込む可能性が高い」
「否定できないけど」
「僕は否定するよ」
カインが口を挟む。
ユウトも手を挙げた。
「俺も行く」
「お前まで?」
「境界生命体の解析が俺の仕事になったんだろ。観測者以上に職業適性の高そうな相手がどこにいる」
確かにその通りだった。
二人の帝国兵についてはノアが止めた。ここから先は通常の戦闘能力より境界への適応や情報処理能力が重要になるうえ、終焉回廊と外部との連絡経路を維持する者も必要になる。
最終的に向こう側へ入るのは、レイン、カイン、ノア、ユウトの四人となった。
レインは《広域後衛》を開く。
遠く離れた仲間たちとの接続は残っている。
ガルド。
リリア。
エマ。
セラ。
ミア。
アレン。
ソラ。
レイ。
ルーク。
そしてアルディスとグランディアで、それぞれ自分の意思によって戦っている人々。
レインは彼らへ命令を出さなかった。
ただ一言だけ伝える。
「ちょっと行ってくる」
最初に返ってきたのはガルドだった。
『ちょっとで済む場所じゃないだろう』
セラからも声が届く。
『帰ってくる未来は見えてる。ただし、まだ一本じゃない』
「一本あるなら十分」
『そう言うと思った』
エマは短く告げた。
『帰ってきて。《レゾナンス》を完成させる時、二人とも必要だから』
最後にルークの声が届く。
『兄さん。父さんが本当にそこにいたら――』
途中で言葉が止まった。
レインは少し待った。
『ちゃんと話してきて』
「ああ」
それだけ答える。
レインとカインが並び、《相互支援》を最大まで展開した。
【受容核――独立固定】
【捕食核――独立固定】
【相互支援――完全定着】
【統合拒否――有効】
レインは黒い線を掴むように《世界接続》を伸ばし、カインがその接続を境界の向こうまで辿っていく。
空間が開いた。
そこには光も闇もなかった。
色という概念そのものが存在せず、距離や方向さえ曖昧な空間が広がっている。無数の文字、記憶、生命情報、世界法則らしきものが巨大な流れとなり、どこか一つの場所へ吸い込まれていた。
【境界外領域――侵入】
【世界法則適用率――12%】
【通常生命体生存――困難】
【世界継承機構――活動可能】
レインの支援が即座にノアとユウトを包む。
二人の存在情報を自分たちの世界へ繋ぎ止めなければ、肉体そのものが境界情報へ分解されかねない。
「これは長居できないな」
ノアが周囲を見ながら言う。
ユウトは既に《境界戦術士》を使っていたが、しばらくして顔をしかめた。
「敵が見つからない」
「こんなに反応があるのに?」
「逆だ。全部が敵の反応なんだよ」
その言葉にレインは周囲を見回した。
空間そのもの。
流れている情報。
世界から吸い上げられた記録。
その全てに同じ反応がある。
観測者は、この場所のどこかにいる巨大な生命体ではなかった。
この境界外領域そのものに広がっている。
【世界捕食寄生体】
【個体境界――判定不能】
【推定存在規模――境界領域全域】
「これを倒すって、どうすればいいんだよ」
レインが呟いた時だった。
遠くで、小さな光が点滅した。
他の情報とは違う。
観測者の反応を持っていない。
しかもレインには、その光に覚えがあった。
【内部抵抗――検出】
【識別――父】
「父さん」
光が移動する。
ついて来いと言っているようだった。
四人はその反応を追い、境界情報の流れに逆らって進んだ。
途中で何度も観測者の情報が身体へ入り込もうとしたが、カインが不要な接続を切り、レインが三人の存在を現世界へ固定することで耐える。
やがて巨大な情報の流れの奥に、不自然な空洞が現れた。
そこだけ観測者の情報が薄い。
中心には一人の男が立っていた。
若くはない。
白衣はところどころ破れ、身体の半分以上が光の粒子へ変わっている。
レインは顔を知っていた。
記憶の中で何度も見た。
自分を二つに分けた男。
カインを封じた男。
ノエルを救えなかったことを悔やみ続けた男。
そして最後まで、レインを世界の道具ではなく人間として育てようとした男。
父だった。
「……遅かったな」
声まで同じだった。
レインは何を言えばいいのか分からず、その場で立ち尽くした。
父はカインを見る。
長い沈黙の後、最初に口にしたのは謝罪だった。
「カイン。すまなかった」
カインの表情が固まる。
「俺はお前を救う方法が分からなかった。だから封じた。Rainを二つへ戻すことが正しいと知りながら、お前を一人の息子として扱うところまで辿り着けなかった」
レインは息を呑んだ。
父はやはり知っていた。
二核構造を。
Rainが本来、一人ではなかったことを。
「父さん、どこまで知ってたんだ?」
「すべてではない。だが、お前を二つに分けたのは事故への対処だけではなかった」
父の姿が僅かに揺れる。
「ノエルが消えた日、統合されたRainが再び捕食を始めた。それを見て、俺は師が隠していた古い記録の意味を理解した」
師。
エリアス・アーク。
「Rainは、一人で完成させてはいけない」
父はそう言って、レインとカインを交互に見た。
「だから二人へ戻した」
カインが静かに尋ねる。
「だったら、どうして僕を閉じ込めたの?」
父は言い訳をしなかった。
「怖かったからだ」
その答えは、あまりにも人間らしかった。
「お前が再びレインを喰うことも、レインがお前を取り込むことも、ノエルと同じことが起きることも怖かった。正しい構造までは分かっても、二人を安全に育てる方法を知らなかった」
カインは何も答えない。
父は続けた。
「俺は間違えた」
長い説明も正当化もなかった。
その一言だけだった。
レインは、カインの代わりに許すことはできない。
だから黙っていた。
やがてカインが小さく息を吐く。
「今すぐ許すとは言わないよ」
「ああ」
「でも、聞けてよかった」
父は僅かに笑った。
それだけで十分だったらしい。
しかし再会を喜んでいる時間は残されていなかった。
父の背後で、巨大な情報の流れが動き始める。
「レイン。時間がない」
父は奥を指した。
「観測者を殺そうとするな」
「え?」
「奴には、殺せるような核がない」
先ほどユウトが解析した通りだった。
観測者は境界外領域全体へ広がっている。
「なら、どうやって止める?」
父は答えた。
「寄生先を失わせる」
レインは意味を理解しかけた。
「奴は単独では世界へ入れない。Rainの世界継承機能を利用しなければ、世界情報を捕食することも、世界を渡ることもできない」
「だったら俺たちとの接続を全部切れば――」
「違う」
父は首を横へ振る。
「切るだけでは、また次のRainを待つ。千年以上前と同じだ」
そして父は、レインの胸を指した。
「奴がRainへ寄生できる仕組みそのものを変えろ」
レインの視界に新しい情報が現れる。
【世界継承機構――完成度97%】
【未完成領域――3%】
【欠落機能――外部寄生拒絶】
その三%こそが、原初のRainにも存在しなかった最後の欠陥だった。
二人に戻るだけでは足りない。
互いを支えるだけでも足りない。
世界を喰わずに継承できるようになっても、それだけでは観測者を完全には排除できない。
Rainそのものを、寄生されない世界継承機構へ変えなければならない。
そして父は最後に告げた。
「そのためには、観測者が最初にRainへ寄生した場所まで行く必要がある」
境界外領域のさらに奥。
千年以上前、最初の受容核と捕食核に寄生体が触れ、二人を一つへ変えた場所。
すべての失敗が始まった地点が、今も残っている。
――第七十三話 了――




