第六十一話 ノエルの声
第六十一話 ノエルの声
『……兄……ちゃん……』
途切れ途切れの声だった。
遠くから聞こえているわけではない。耳に届いているわけでもない。それでもレインには、その声が誰のものなのか分かった。
ノエル。
七歳の頃、自分とカインがまだ一人だった時に、その才能も、レベルも、記憶も、存在そのものまで奪ってしまった弟。世界から名前を消され、家族の記憶からさえ失われた少年が、終焉回廊のさらに深い場所から確かに自分を呼んでいる。
「ノエル!」
レインが扉へ駆け寄った瞬間、強烈な反発が身体を弾き飛ばした。
「レイン!」
ノアの声と同時にカインが受け止めたため壁への激突は免れたが、レインの腕には境界干渉を受けたような黒い亀裂が走っていた。
【深層領域――侵入拒否】
【Rain真Lv78】
【必要最低値――80】
「たった二つだろ!」
レインは立ち上がり、もう一度扉へ向かおうとした。
今度はカインが腕を掴んだ。
「駄目だよ」
「ノエルがいるんだぞ!」
「だから駄目なんだ」
普段の軽さが消えた声だった。
「僕だって行きたい。でも、ここで君が壊れたらノエルを戻せなくなる。真Lv100以上の支援核が必要なんだろ?」
レインは何も言えなくなった。
王都から繋がっているルークも、しばらく黙っていた。
やがて。
『兄さん。カインの言う通りだよ』
「ルーク……」
『ノエルは待ってる。ずっと待ってたんだから、あと少しくらい待てる』
その言葉の方が、レインにはきつかった。
あと少し。
ノエルにとって、その「少し」がどれほど長かったのか分からない。
それでも。
焦って失敗することだけは許されない。
レインは扉から離れた。
「……分かった。80にする」
ノアが頷く。
「それが最短だ」
◇◇◇
深層前室の周囲には、これまでの階層とは比較にならないほど高位の境界獣が存在していた。
Lv76。
Lv79。
中にはLv82と表示される個体までいる。
通常なら避けるべき相手だが、今の目的は経験値を得ることであり、しかも終焉回廊ではLv50以降に課される成長補正が弱くなっている。
ただし、レイン自身が攻撃できない以上、戦い方はこれまでと変わらない。
レインが敵の構造を読み。
ノアが戦場を組み立て。
ユウトが境界魔物の行動を予測する。
そしてカインと帝国兵が攻撃する。
二核試験を終えたことで最も大きく変化したのは、レインとカインの連携だった。
「後ろ、二秒」
レインが言う。
カインは振り向かない。
二秒後に境界から現れた獣の攻撃を紙一重で避け、そのまま敵が出現した境界へ手を入れる。
「三歩右」
「分かってる」
「まだ言ってないけど」
「見えてるから」
二人の間では、《相互支援》によって視覚や感覚の一部まで共有され始めていた。
融合しているわけではない。
カインの考えていることが全部分かるわけでもない。
それでも戦闘に必要な情報だけなら、言葉より速く伝わる。
受容するレイン。
境界へ干渉するカイン。
二人が独立したまま繋がることで、過去のRainが失敗した「一人で全部を背負う」という構造から少しずつ離れ始めていた。
三体目の高位境界獣を退けたところで。
表示が変わる。
【Rain――真Lv78→79】
「あと一つ!」
「まだ喜ぶな」
ノアの声が飛ぶ。
前方の空間が大きく裂けた。
現れたのは、これまでとは明らかに違う魔物だった。
人型。
巨大な身体に六本の腕。
そして胸の中央に、黒い球体が埋め込まれている。
【深層門番】
【Lv――84】
【分類――世界外生命体】
レインの表情が変わった。
「世界外……」
探している《境界外生命情報》に近い存在である可能性がある。
しかし解析を続けると、さらに厄介な情報が出た。
【世界法則適用率――19%】
【通常物理攻撃――大幅減衰】
【通常魔法攻撃――大幅減衰】
ユウトが嫌そうに顔をしかめる。
「どうやって倒す?」
「世界側の攻撃が効かないなら、境界側から干渉するしかない」
全員の視線がカインへ向く。
「僕?」
「お前しかいない」
「Lv27なんだけど」
「俺が支える」
カインは少し黙った後、笑った。
「それなら仕方ないか」
◇◇◇
戦闘は始まった瞬間から劣勢だった。
深層門番の攻撃は単純な物理攻撃ではなく、腕が通過した場所の世界情報そのものを削り取っていく。まともに受ければ防御力に関係なく身体の一部が消失する可能性があり、レインは《全域支援》のほとんどを回避と世界定着へ振り分けなければならなかった。
「左二本、来る!」
ユウトの警告。
ノアが生還経路を示す。
「全員、右へ!」
一行が移動した直後、床の一部が音もなく消えた。
レインは敵の胸にある黒い球体を見続けていた。
あれだけが。
周囲と違う。
【解析――31%】
まだ足りない。
【解析――48%】
門番がカインへ向かう。
レインは《世界接続》でカインを固定する。
【解析――67%】
「もう少し!」
六本の腕が一斉に振り上げられる。
カインが境界へ逃げようとした瞬間。
レインには分かった。
「入るな!」
カインが寸前で止まる。
直後。
門番の周囲の境界そのものが消えた。
もし潜っていたら、戻れなかった。
「助かった」
「あとで!」
【解析――100%】
情報が開く。
【深層門番】
【存在核――境界側】
【現実側肉体――仮構成】
【弱点――境界接続点】
レインには。
それが見えた。
胸の黒い球体ではない。
門番の背後。
現実世界から僅かに外れた場所に、一本だけ細い接続線が伸びている。
「カイン、後ろだ!」
説明は必要なかった。
《相互支援》を通じて。
レインが見たものを。
カインも見た。
「そこか」
カインが消えた。
正確には。
一瞬だけ境界へ入った。
門番が振り返るより早く、その背後へ現れる。
レインは攻撃しない。
ただ。
全力で支える。
《全域支援》。
《才能共鳴》。
《世界接続》。
そして。
《相互支援》。
カインの手が。
境界接続点へ触れた。
「切るよ」
「やれ!」
接続が断たれた。
深層門番の身体が止まる。
六本の腕が崩れ。
巨大な身体が光へ変わっていった。
【深層門番――存在接続解除】
【試練達成】
大量の経験値が流れ込む。
【Rain――真Lv79→80】
レインは思わず拳を握った。
「80!」
続いて。
【カイン――Lv27→31】
【ユウト――Lv17→20】
ユウトが表示を見て固まる。
「20……」
そして。
別の表示。
【ユウト】
【Lv20】
【職業候補――発生】
「おお!」
レインが振り返る。
「無職卒業じゃん!」
「そこを一番喜ぶな!」
カインまで笑う。
「百年以上魔王やって、再就職おめでとう」
「まだ候補だ!」
張り詰めていた空気が一瞬だけ緩んだ。
しかし。
すぐに。
深層への扉が動き始める。
【Rain真Lv80――確認】
【深層侵入条件――達成】
【境界外生命情報保管区――開放】
レインから笑みが消えた。
扉の向こうへ。
今度こそ進める。
◇◇◇
深層は。
何もない場所だった。
床も。
壁も。
空もない。
暗闇の中に、無数の光だけが浮いている。
その一つ一つに。
生命の情報が保存されていた。
【境界外生命情報保管区】
【保存個体数――測定不能】
滅びた世界。
失われた種族。
この世界には存在しない生命。
その情報が、ここに残されている。
レインが一歩進むと。
遠くに。
小さな人影が見えた。
少年だった。
十歳にも満たない。
こちらへ背中を向けている。
レインの足が止まる。
カインも動かない。
王都から繋がったままのルークが。
震える声で言った。
『……ノエル』
少年が。
ゆっくり振り返る。
顔は。
はっきりとは見えない。
まだ存在情報が足りないからだ。
それでも。
少年は笑った。
『兄ちゃん』
今度は。
はっきり聞こえた。
レインは何も言えなかった。
少年はカインを見る。
少し不思議そうに首を傾げて。
そして。
また笑った。
『兄ちゃんが、二人いる』
カインの顔から。
いつもの笑みが消えた。
ノエルは。
二人を見ながら。
ごく自然に言った。
『やっと来た』
その言葉と同時に。
世界記録が開いた。
【消失個体――ノエル・アーク】
【存在情報――照合】
【復元可能性――再計算】
レインは息を止めた。
【従来推定復元率――不足】
【境界外生命情報――取得可能】
【世界承認証明――確認】
【Rain二核共存――成立】
そして。
【ノエル独立復元――実行可能性】
【43%】
ゼロではない。
初めて。
ノエルを取り戻せる可能性が。
数字になった。
しかし。
その下に。
さらに一行が現れた。
【完全復元に必要な最終条件】
【Rain真Lv100】
【神造武具完成率100%】
レインはその表示を見つめた。
あと二十レベル。
そして。
《レゾナンス》を完成させること。
ノエルは目の前にいる。
もう。
存在しない弟ではない。
手を伸ばせば届きそうなところまで。
帰ってきている。
レインは少年へ向かって言った。
「待ってろ」
ノエルが笑う。
『うん』
「今度は絶対に迎えに来る」
『知ってる』
ノエルは。
レインとカインを交互に見た。
『だって兄ちゃんたち、昔から諦め悪いもん』
レインは。
その言葉を覚えていた。
記憶から消されたはずなのに。
なぜか。
確かに覚えていた。
――第六十一話 了――




