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世界最低の後衛は最高の後衛だった ~三度追放された荷物持ちは、捨てられた才能だけを集めて魔王を討つ~  作者: あめのひくもり


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第五十四話 皇帝が頭を下げる日

第五十四話 皇帝が頭を下げる日


帝国全土に存在する七つの境界門が同時に拡大を始めたという報告が届いた直後、玉座の間は一瞬にして戦場のような緊張に包まれた。もっとも、そこに剣を振るう敵が現れたわけではない。目の前にいるのは姿すら持たない観測者であり、その武器は魔法でも軍隊でもなく、ヴァルディオス自身が同意して結んだ契約だった。


皇帝はすぐさま帝国軍へ命令を発した。


「全軍に通達。境界強化を即時停止し、七つの境界門から全部隊を撤収させろ。すでに強化を受けた兵士についても、追加処置を禁止する」


宰相イレーネが命令を帝国軍の指揮系統へ流す。しかし、わずか数秒後に返ってきたのは、誰も予想していなかった結果だった。


【皇帝命令――拒否】


【境界契約――優先】


【帝国軍境界強化――継続】


ヴァルディオスの表情が固まった。


「私の命令を拒否しただと?」


「軍が反乱を起こしたわけじゃない」


ノアは表示された情報を確認しながら、すぐに状況を整理した。


「帝国軍の指揮権を奪われたわけでもない。観測者との契約が、皇帝命令より上位の規則として帝国軍へ組み込まれている。つまり兵士たちが命令を無視しているんじゃなく、皇帝の命令そのものが届く前に契約によって拒否されているんだ」


カインも境界構造を探っていたが、やがて険しい顔で首を横に振った。


「しかも帝都だけじゃない。七つの境界門を中心にして帝国全体へ細い線が広がってる。これを僕一人で切ろうとしたら、たぶん帝国側の魔力網まで一緒に壊すことになる」


「観測者を利用するつもりで、帝国そのものを差し出していたということか」


ヴァルディオスの声には怒りが滲んでいたが、レインはそれ以上に気になることがあった。


皇帝は確かに騙された。


だが、契約したのはヴァルディオス自身である。


観測者が契約を強制したわけではない。


その事実を曖昧にしたままでは、おそらくこの問題は解決できない。


「ヴァルディオス」


「何だ」


「国民に話した方がいい」


皇帝の目がレインへ向く。


「何をだ」


「全部。世界が危ないことも、観測者と契約したことも、三割を切り捨てて七割を助けようとしたことも、それが罠だったことも」


イレーネがすぐに反応した。


「お待ちください。皇帝陛下が国家存亡に関わる判断を誤ったと公表すれば、帝国全土が混乱します。軍の士気だけでなく、皇帝権そのものが揺らぐ可能性もあります」


「じゃあ隠す?」


レインはイレーネを見る。


「今まで国民に知らせなかったから、帝国兵は《世界を守るための力》だと思って魔王兵化を受け入れたんだろ。だったら本当のことを知った上でもう一度選んでもらわないと、それは本人が選んだことにならない」


ヴァルディオスが低く言う。


「国家の存亡を国民一人一人へ委ねろというのか」


「違う。皇帝として決めなきゃいけないことまで投げろとは言ってない。でも、自分の身体を魔王兵に変えるかどうかくらいは、本人が決めることだろ」


皇帝は答えなかった。


そこでレオンが静かに口を開いた。


「ヴァルディオス、私はつい先ほどまで、十八年間も国民に本当の自分を隠していた。王権核によって作られた姿を見せ、それが国王として必要なことだと思い込んでいた」


ヴァルディオスは、二十五歳の姿へ戻ったレオンを見る。


「お前の事情と帝国の事情は違う」


「違う。だが、王が国のためだと考えて秘密を抱え込み、国民の選択まで奪っていたという点は同じだ。私はそれをやめた結果、国民に助けてもらった」


レオンはそこで少し笑った。


「王だからといって、何もかも一人で背負えるわけではなかったらしい」


「それ、俺も最近覚えた」


レインが言うと、カインが横から口を挟んだ。


「君の場合、最近どころか昨日くらいじゃない?」


「うるさい」


ほんの一瞬だけ空気が緩んだが、ヴァルディオスは笑わなかった。帝国皇帝として長い間、自分が最終的な決断を下すことこそ責任だと考えてきた男にとって、「国民に選ばせる」という考え方は、単なる政治手法の変更ではない。自分が正しいと信じてきた統治そのものを否定することに近かった。


それでも、皇帝はやがて玉座から立ち上がった。


「イレーネ」


「陛下」


「帝国全土へ通信を繋げ」


イレーネはすぐには動かなかった。


「本当に、すべてを公表されるおつもりですか」


「私が誤った判断をしたのなら、それを隠すためにさらに誤る必要はない」


その言葉を聞いて、イレーネは深く頭を下げた。


「承知いたしました」


◇◇◇


帝国全土へ向けた皇帝の緊急通信は、軍施設だけでなく、都市、農村、港湾、鉱山、国境要塞に至るまで同時に流された。突然現れた皇帝の姿に、多くの国民は何が起きたのか分からず仕事の手を止め、これまで一部の軍人と高官しか知らなかった世界の危機を、初めて直接知らされることになった。


ヴァルディオスはいつものように堂々と立っていた。


しかし、なかなか話し始めなかった。


レインは何も言わず待った。


やがて皇帝は、ゆっくり口を開いた。


「グランディア帝国、すべての臣民へ告げる。現在、我々の世界は境界崩壊と呼ばれる危機に直面しており、帝国政府が保有する未来演算機関では、このまま何の対策も行わなければ、一年後の生存人口は一%を下回るという結果が出ている」


帝国各地で動揺が広がる。


それでも皇帝は続けた。


「私はこの危機を回避するため、観測者と名乗る存在と秘密裏に契約した。現在、帝国軍の一部が受けている境界強化も、その契約に基づくものである」


ここまでは、ヴァルディオスの声に迷いはなかった。


次の言葉だけが、僅かに遅れた。


「観測者は、現在の世界を再構築することで七割以上の生命を残せると提示した。その代償として約三割を切り捨てる必要があり、私はその条件を受け入れた」


通信を見ていた帝国兵たちの表情が変わる。


自分たちが「世界を守るため」と聞かされていた力の裏側に、最初から切り捨てられる人々が存在していたことを、彼らは初めて知ったのだ。


ヴァルディオスは目を逸らさなかった。


「私は、三割を犠牲にして七割を残す方が、一%すら残せない未来より正しいと判断した。その判断そのものを、今ここで正しかったとも間違っていたとも言うつもりはない。だが私は、国民に説明せず、自分一人で選択した。そして何より、契約内容を完全に理解できていなかった」


イレーネが静かに目を伏せる。


「観測者が保証した《帝国民》とは、現在この国で暮らす諸君を意味していなかった。私は契約の解釈を誤り、その結果、帝国そのものを危険に晒した」


そこで皇帝は、はっきりと言った。


「これは私の失敗である」


帝国全土が静まり返った。


皇帝ヴァルディオス・グランディアが、自らの失敗を認めた。


それは、帝国軍が一つの都市を失ったことより大きな衝撃だったかもしれない。


「ゆえに私は、先ほど帝国軍へ境界強化の停止を命じた。しかし、観測者との契約によって命令は拒否された。現在、境界強化は志願制ではなくなりつつある」


そこでヴァルディオスは一度目を閉じ、次に目を開いた時には、皇帝ではなく一人の人間として話しているようにレインには見えた。


「私は、もう一度諸君に命令することもできる。観測者と戦え、皇帝を信じろ、帝国のために命を懸けろと命じることもできる。だが、それをすれば私は同じ間違いを繰り返す」


ヴァルディオスは正面を見た。


「だから、今度は諸君自身が選んでほしい。観測者との契約を受け入れる者も、拒む者も、戦う者も、逃げる者も、自分で決めろ。逃げた者を罪には問わない。そして、私の判断によって諸君を危険へ晒したことについて――」


帝国皇帝が。


頭を下げた。


「謝罪する」


◇◇◇


最初に変化したのは、帝都から遠く離れた北部国境要塞だった。


境界強化を受け、すでに身体の一部が魔族化し始めていた一人の兵士が、自分の腕を見つめながら小さく呟いた。


「俺は……世界を守れるって聞いたから、これを受けたんだ」


隣にいた兵士が聞く。


「どうする?」


男はしばらく迷った。


「分からない。でも、少なくとも今のまま続けるのは嫌だ」


その瞬間。


【自主契約解除意思――発生】


一人。


それだけだった。


しかし、その一人が生まれたことで、別の場所でも変化が始まった。


境界門を守っていた兵士が武器を下ろし、別の兵士はそれでも観測者との契約を支持した。ある者は家族のもとへ戻ることを選び、ある者は皇帝の失敗に怒りながらも帝国を守るために残ることを選んだ。


全員が同じ方向を向いたわけではない。


むしろ帝国は、初めて大きく意見を分けた。


それでもレインには、その光景が悪いものには見えなかった。


《連合支援》が静かに反応する。


【新規共闘意思――検出】


【対象――グランディア帝国】


ただし、まだ支援は発動しない。


帝国の人々はレインを知らない。


レインを選んだわけでもない。


ただ、自分の意思を取り戻しただけだった。


それで十分だった。


ヴァルディオスは通信を終えると、玉座へ戻らず、その場に立ったままレインへ尋ねた。


「これで満足か」


レインは首を横に振る。


「別に俺を満足させるためにやったんじゃないだろ」


「当然だ」


「だったら、それでいい」


皇帝は少しだけ目を細めた。


「帝国は割れるぞ」


「もう割れてる。でも、自分で選んで割れるのと、何も知らないまま観測者にまとめられるのは違う」


「それで国が弱くなれば?」


レインは少し考えてから答えた。


「その時は、弱くなった分をみんなで補えばいいんじゃないか。俺、そういうのが仕事みたいだから」


ヴァルディオスは一瞬呆れたような顔をした後、ほんの僅かに笑った。


「やはり甘い男だ」


「よく言われる」


その時だった。


帝都の空が、低い音を立てて震えた。


一度ではない。


二度、三度と続き、やがて皇宮そのものが僅かに揺れ始める。


ノアがすぐに窓へ向かい、レインも後を追った。


帝都の遥か上空に、巨大な黒い輪が浮かんでいる。


境界門。


だが、先ほどまでのものとは規模が違う。


さらに帝国各地からも同じ反応が上がり、七つの境界門が黒い光の線で互いに結ばれ始めていた。


王都に残っているエリアスの声が《リベレーションⅡ》を通じて飛び込んでくる。


『レイン、聞こえるか! すぐに帝国全体を解析しろ。観測者が境界門を使って、国土そのものを世界から切り離そうとしている!』


レインの表情が変わった。


「国ごと?」


『そうだ。おそらく観測者は、契約による帝国支配が失敗する可能性を想定していた。七つの門を接続し、グランディア帝国を独立した境界領域へ変えようとしている』


ユウトが息を呑む。


「世界再構築の実験場にする気か」


エリアスは否定しなかった。


『その可能性が高い。帝国だけを先に切り離し、そこで再構築を実行すれば、観測者は本格侵攻を待つ必要すらない』


ヴァルディオスが黒く染まり始めた空を見上げる。


「私が契約から離れようとしたから、帝国そのものを奪うつもりか」


レインも空を見上げた。


七つの門を壊せばいいわけではない。


無理に破壊すれば、帝国領そのものが境界へ引きずり込まれる可能性がある。


そして今のレインは、アルディス王国では《国家後衛》として世界側の承認を得ているが、グランディア帝国ではまだ何の権限も持っていない。


それでも。


方法が一つだけある。


レインは隣に立つ皇帝を見た。


「ヴァルディオス」


「何だ」


「今度は、俺を帝国に認めてもらう」


皇帝が眉を寄せる。


「誰にだ」


レインは、帝都の街を見下ろした。


「皇帝じゃない」


その視線の先には、先ほど初めて自分の意思で未来を選び始めた人々がいる。


「この国のみんなに」


黒い境界網が、帝国全土を覆い始める。


そしてレインの視界に、新たな表示が現れた。


【グランディア帝国――世界分離開始】


【完全分離まで――47分】


残された時間は。


一時間もなかった。


――第五十四話 了――

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