第五十三話 皇帝の選択
第五十三話 皇帝の選択
グランディア帝国は、アルディス王国の北方に位置する大陸最大級の国家であり、常備軍だけでも十八万を数える。その帝国が観測者と自ら契約し、国内に出現した七つの境界門を破壊するどころか、帝国軍を配置して守っているという報告を受けた時、レインは単純に敵が増えたとは考えなかった。
観測者に操られているのであれば救い出せばいい。しかし、自分たちの意思で観測者を受け入れているのなら話はまったく違ってくる。
「ヴァルディオス・グランディアは愚かな男ではない。むしろ、必要だと判断すれば自国民すら切り捨てられるほど合理的な男だ」
王宮の作戦室でレオンがそう説明すると、ユウトは難しい表情を浮かべた。百年以上も観測者と繋がっていた彼には、皇帝が何を吹き込まれたのか、ある程度想像がつくらしい。
「観測者は最初から世界を滅ぼせとは言わない。このままでは全員死ぬ、一部を犠牲にすれば大多数を救える、だから力を貸せ――そうやって、正しいように聞こえる選択肢を出してくる。皇帝が世界の崩壊を予測していたなら、自分から契約していても不思議じゃない」
「だったら、本人に聞くしかないな」
レインがそう結論を出したことで、レオン、ノア、カイン、ユウトを加えた五人で帝国へ向かうことになった。レイやソラは観測者との強制接続から解放されたばかりであり、アレンたちとともに王都へ残す。ベルクの防衛も続いているため、ガルド、リリア、エマも動かさなかった。
今回は戦いに行くのではない。
観測者と契約した皇帝が何を考えているのか、それを確かめに行くのだ。
◇◇◇
両国の王族が緊急会談を行うために造られた古い転移門を使うと、帝国側は驚くほどあっさり接続を許可した。転移先では百人近い重装兵が整列していたものの、武器を向けられることはなく、帝国宰相イレーネ・ヴァイスが正式な使節として五人を迎えた。
「アルディス国王陛下、そしてレイン・アーク殿。皇帝陛下がお待ちです」
「俺が来ることも知ってたのか?」
「はい。皇帝陛下は、あなたが必ず来ると仰っておりました」
帝都を皇宮へ向かう途中、レインは街の様子を観察したが、そこには世界滅亡の危機に直面している国とは思えないほど平穏な日常が残っていた。市場では商人が客を呼び込み、食堂には人が集まり、子供たちも普段通りに道を走っている。
どうやら一般市民には、境界門の本当の危険性そのものが知らされていないらしい。
一方で、街を警備する帝国兵を解析すると、レインにはさらに気になる情報が見えた。
【境界適合率――18%】
【魔王兵化――進行中】
【本人同意――あり】
「強制じゃない……」
レインが足を止めると、前を歩いていたイレーネが振り返った。
「帝国軍では、希望した兵士だけが境界強化を受けています。皇帝陛下は強制を禁じられました」
「兵士には何て説明したんだ?」
「世界を守るための力だと説明しております」
レインは何も答えなかった。
世界を守るため。
観測者が使うには、あまりにも都合のいい言葉だった。
◇◇◇
皇宮の玉座の間で待っていたヴァルディオス・グランディアは、レインが想像していた姿とはまるで違っていた。四十代後半の大柄な男で、王というより歴戦の武人を思わせる威圧感を持っているが、その目には観測者に支配された者特有の濁りがない。
レインが解析すると、その理由はすぐに分かった。
【ヴァルディオス・グランディア】
【種族――人間】
【Lv50】
【職業――皇帝】
【境界契約――成立】
【観測者同期率――0%】
「本当に操られてないんだな」
レインが思わず口にすると、ヴァルディオスは不快そうに眉を動かした。
「当然だ。私は観測者の奴隷になった覚えはない。あれとは互いの利益のために契約しただけだ」
レオンが一歩前へ出る。
「何を得るために?」
「未来だ」
皇帝が手を上げると、玉座の間に巨大な大陸地図が浮かび上がった。それは現在の地図ではなく、これから始まる第二次魔王軍侵攻を起点として計算された未来予測だった。
一か月後には複数の都市が消滅し、三か月後には国家単位で統治機構が崩壊する。一年後になると大陸そのものが境界侵食によって変形し、最後に表示された推定生存人口は、現在のわずか〇・八%だった。
「観測者が見せた未来か?」
ノアの問いに、ヴァルディオスは頷いた。
「もちろん、そのまま信じたわけではない。帝国が十年前から運用している七基の未来演算機関を完全に独立させて検証したが、結果はすべて誤差二%以内だった。つまり、少なくとも世界がこのままでは滅びるという点について、観測者は嘘をついていない」
レインも、その部分については否定できなかった。境界安定率はすでに危険域へ落ち込み、世界各地で三十一もの境界門が開いている。何もしなければ世界が崩壊するという予測には、十分すぎるほど現実味があった。
「それで、観測者は何を提案した?」
レインが尋ねると、皇帝は迷うことなく答えた。
「世界の再構築だ。現在の世界を一度解体し、境界へ適合可能な生命と文明の情報を保存した上で、安定した世界へ作り直す」
レインの表情が険しくなる。
「犠牲は?」
「推定三割だ」
その数字を聞いて、玉座の間が静まり返った。
ヴァルディオスはそれでも目を逸らさなかった。
「何もしなければ九九%以上が失われる。それに対して、三割を犠牲にすれば七割以上を救える。国を預かる者として、私がどちらを選ぶかは明白だ」
「その三割に入る人間は、誰が決める?」
「境界適合率、人口維持能力、生産力、資源、軍事力などから決定する」
「本人には聞かないのか?」
「聞く必要はない。国家を守る責任を負うのは皇帝である私だ。責任を負わない者に、国家存亡の判断まで委ねるつもりはない」
レインは反論しようとしたが、言葉がすぐには出なかった。
全員を救おうとして全員を死なせるのか、それとも三割を捨てて七割を確実に残すのか。数字だけで考えるなら、ヴァルディオスの判断には合理性がある。
だからこそ厄介だった。
単純な悪人なら、もっと簡単だった。
「レイン・アーク、お前は全員を救うつもりなのだろう?」
「ああ」
「では聞く。救える保証はあるのか?」
レインは少し黙ってから首を横に振った。
「ない」
「ならば、私は保証のある七割を選ぶ。理想を語ることと、国民の命へ責任を持つことは違う」
その言葉にレインが答えられずにいる中、ユウトだけは皇帝ではなく、先ほどから表示されている境界契約を凝視していた。
「ヴァルディオス。その保証っていうのを見せてくれないか?」
「契約内容か?」
「ああ。私は百年以上観測者と繋がっていた。あいつが本当に七割を保証したのか確認したい」
皇帝は少し考えた後、契約内容を開示した。
【境界契約】
一、帝国領内を優先保全対象とする。
二、世界再構築後、帝国民の生存率を最低80%保証する。
三、皇帝本人の意思へ直接干渉しない。
四、帝国軍の自主選択権を保証する。
五、Rain確保後、帝国と共同管理する。
六、世界再構築後も帝国主権を維持する。
レインは五番目を見た瞬間に顔をしかめた。
「何で俺が勝手に管理対象にされてるんだ?」
「世界再構築にはお前の能力が必要だからだ」
「俺の意思は?」
「世界存亡と一個人の意思を同列には扱えない」
「やっぱり俺、この皇帝嫌いだ」
「奇遇だな。私もお前の甘さは好かん」
カインが小さく笑ったが、ユウトは笑わなかった。
契約文の二番目を何度も読み直した後、彼はゆっくり顔を上げた。
「ヴァルディオス。これ、騙されてるぞ」
玉座の間から空気が消えたように静かになった。
皇帝の目が細くなる。
「どういう意味だ?」
「二番には《世界再構築後、帝国民の生存率を最低八十%保証する》と書いてある。でも、《現在の帝国民》を八十%生かすとは一言も書いてない」
ノアがすぐに契約文を読み直し、ユウトの指摘の意味を理解した。
「再構築後に観測者が《帝国民》と定義した者が百人しか残っていなくても、そのうち八十人を生かせば契約上は成立するということか」
レオンも六番目を確認する。
「帝国主権を維持するという条項も同じだ。現在の国土や国民を保存するとは書いていない。帝国という名称と統治制度だけを残しても、契約違反にはならない」
ヴァルディオスの表情から、それまでの余裕が消えた。
レインはさらに五番目を指した。
「それに《帝国と共同管理》ってあるけど、誰と共同で俺を管理するんだ?」
契約表示が、その問いに反応するように情報を追加した。
【共同管理相手――未定義】
誰も言葉を発しなかった。
やがてヴァルディオスが、低い声で呼びかける。
「観測者。答えろ」
玉座の間全体に、あの無機質な声が響いた。
――契約は有効。
皇帝の声に怒気が混じる。
「世界再構築後に生き残る《帝国民》とは、現在この国に生きる者たちのことか?」
わずかな沈黙の後、観測者は答えた。
――再構築後。
――帝国民。
ユウトが目を閉じる。
「やっぱりだ」
ヴァルディオスは玉座の肘掛けを強く握りしめた。
「契約を解除する」
――不可。
「解除条項があるはずだ!」
宰相イレーネが急いで契約情報を確認し、その顔色を変えた。
「陛下……解除には、双方の合意が必要です」
レインはようやく理解した。
観測者は皇帝を操ってなどいなかった。
嘘すら、ほとんどついていない。
ただ、人間なら当然そう解釈するだろうという言葉を並べ、ヴァルディオス自身に選ばせただけだった。
だからこそ、皇帝の観測者同期率はゼロだったのだ。
「最初から私を騙したのか」
ヴァルディオスが低く問いかけると、観測者は感情のない声で答えた。
――契約内容。
――提示済。
――解釈。
――契約者責任。
皇帝の表情に初めて明確な怒りが浮かんだ、その直後だった。
帝国全土に存在する七つの境界門が一斉に拡大を始め、レインの視界に赤い警告が次々と表示される。
【契約者――離脱意思を検出】
【観測者側――契約強制履行開始】
【帝国軍・境界強化】
【本人同意――あり】
その表示が一度揺らぎ、別の文字へ書き換わった。
【本人同意――不要】
ヴァルディオスの顔色が変わる。
レインは拡大していく境界反応を見ながら、ようやく観測者が仕掛けた本当の罠を理解した。
皇帝が観測者を利用していたのではない。
観測者は最初から、帝国という巨大な国家そのものを契約によって手に入れるつもりだったのだ。
そして今、その契約が強制的に動き始めた。
――第五十三話 了――




