第四十話 死んでいる母
第四十話 死んでいる母
【対象】
母親。
【血縁一致率】
99.97%。
【生命状態】
――死亡。
レインは、目の前の女性から目を離せなかった。
「……母さん」
女性は、あの日と同じ顔で微笑んでいる。
十五年前。
病に倒れたと聞かされ。
そのまま。
二度と会えなかった母。
棺の中の顔を見た記憶はない。
葬儀の記憶も。
ひどく曖昧だ。
ただ。
「母は死んだ」
その事実だけが。
レインの中に残っている。
そして今。
目の前の存在も。
確かに。
死んでいる。
「レイン」
母が手を伸ばす。
「おいで」
一歩。
レインの身体が動きかける。
「レイン!」
ノアの声。
止まる。
「触るな!」
ノアは《生還経路》を見ている。
普段。
冷静な男。
その顔が。
青い。
「触れた瞬間」
「お前の未来だけ消える」
ガルドが大盾を構える。
「敵なのか?」
「分からない!」
ノアが答える。
「敵意が見えない!」
「でも」
「レインだけ」
「死ぬ!」
母は。
ガルドたちには視線すら向けない。
レインだけを見ている。
「大丈夫」
優しい声。
「怖がらなくていいの」
レインの胸が痛む。
この声を。
知っている。
幼い頃。
熱を出した夜。
頭を撫でてくれた。
転んで膝を擦りむいた時。
抱き締めてくれた。
間違いない。
母だ。
だからこそ。
怖い。
「母さん」
「なあに?」
「俺が」
レインはゆっくり聞いた。
「小さい頃」
「一番嫌いだった食べ物は?」
母は。
すぐに笑った。
「人参」
「違う」
母の笑顔が。
僅かに止まった。
後ろ。
ミアが小声で。
「人参じゃないんですか?」
「人参は普通に食べる」
「じゃあ何です?」
「豆」
ガルド。
「妙に地味だな」
「うるさい」
レインは母を見る。
「母さんなら知ってる」
女性。
数秒。
沈黙。
そして。
「忘れてしまったのね」
レインの目が細くなる。
「誰が?」
「あなたが」
「違う」
レインは首を横に振る。
「忘れてるのは」
「お前だ」
空気が変わった。
母の笑顔。
少しずつ。
消える。
リリアが杖を構える。
セラも弓を引く。
だが。
レインは手で止めた。
「まだ撃つな」
「でも」
「本物だ」
全員が驚く。
ガルド。
「今のやり取りで?」
「血縁反応がある」
「じゃあ」
「偽物じゃない」
レインは続ける。
「ただ」
「俺の知ってる母さん」
「そのままじゃない」
母が。
静かに言う。
「よく分かったわね」
声。
変わらない。
姿も。
変わらない。
だが。
雰囲気。
完全に違う。
優しい母。
ではない。
もっと。
遠い。
「私は」
「あなたの母よ」
レイン。
「でも」
「死んでる」
「ええ」
即答。
全員。
息を呑む。
ミア。
「本人が認めた……」
母。
自分の胸へ手を置く。
「十五年前」
「私は確かに死んだ」
「なら」
レイン。
「今のお前は何だ」
「記録」
「記録?」
「あなたの父親が」
一拍。
「死ぬ前の私を」
「ここへ保存した」
レインの表情が変わる。
「父親が?」
「そう」
「何のために」
母。
悲しそうに笑う。
「あなたを」
「止めるため」
また。
その言葉。
守る。
隠す。
止める。
全部。
父親。
「俺を止めるって」
「何から」
母は答えない。
その代わり。
レインへ。
また一歩。
近づく。
ノア。
「止まれ!」
母。
止まる。
「あなた」
ノアを見る。
初めて。
レイン以外へ。
視線。
「面白い力を持ってるのね」
ノア。
「答えろ」
「レインに何をする気だ」
「返すだけ」
「何を」
「私が」
母。
「預かっているものを」
レイン。
「何だ」
母。
静かに。
笑う。
「愛情」
全員。
「……?」
レイン自身。
意味が分からない。
母。
「あなたの父親は」
「レインから」
「多くのものを切り離した」
「力」
「記憶」
「名前」
「家族」
一拍。
「そして」
「感情の一部」
レインの表情が変わる。
「感情?」
「そう」
「特に」
母。
「家族への執着」
レイン。
言葉が出ない。
「なぜ」
「あなたが」
「父親をほとんど思い出せなかったと思う?」
「記憶を封じたからだろ」
「それだけではない」
母。
「思い出したいという」
「感情そのものを」
「弱くした」
レインの胸。
ざわつく。
確かに。
おかしい。
父親の記憶がない。
普通なら。
もっと。
探すのではないか。
名前。
顔。
死の理由。
なのに。
レインは。
ほとんど。
調べなかった。
母についても。
弟についても。
違和感を。
深く追わなかった。
「俺が」
「気にしないように」
「されてた?」
「ええ」
「誰に」
分かっている。
それでも。
聞く。
母。
「父さんよ」
◇◇◇
レインの拳が。
強く握られる。
「何の権利があって」
低い声。
「俺から」
「そんなものまで奪った」
母。
「守るため」
「またそれか!」
声。
迷宮に響く。
「何から守るんだ!」
「世界?」
「境界?」
「アビス?」
「俺自身?」
母。
答えない。
「みんな」
「同じこと言う」
レイン。
一歩。
前へ。
「まだ知るな」
「今は早い」
「父親が止めた」
「守るため」
「何一つ」
「まともに説明しない!」
ガルドたち。
黙っている。
今は。
止めない。
「俺の人生だ!」
母の表情。
僅かに揺れる。
「俺が知るかどうか」
「俺が決める!」
「強くなるか」
「ならないか」
「誰といるか」
「何を思い出すか」
「全部!」
レイン。
胸を指す。
「俺が決める!」
静寂。
長い。
母は。
レインを見つめる。
そして。
ほんの少し。
嬉しそうに。
笑った。
「そう」
「何だよ」
「それでいいの」
レイン。
「……何?」
「私は」
母。
「あなたを止めるために」
「ここにいる」
「でも」
一拍。
「止まるかどうかを」
「決めるのは」
「あなた」
レイン。
完全に。
意味が分からない。
「父さんの命令に」
「従うんじゃないのか」
母。
「私は記録」
「でも」
「あなたの父親の道具ではない」
アレン。
ソラ。
同じ。
番号。
命令。
道具。
母も。
死後。
保存された存在。
それでも。
意思。
ある。
「父さんは」
母。
「完璧な人ではなかった」
初めて。
誰かが。
そう言った。
今まで。
父親を知る者は。
皆。
何かを隠した。
守った。
必要だった。
仕方なかった。
でも。
母は違う。
「怖かったの」
「何が」
「あなたが」
即答。
レイン。
止まる。
母。
続ける。
「父さんは」
「あなたを愛していた」
「誰よりも」
「だからこそ」
「怖がった」
「自分の息子を?」
「ええ」
母。
レインへ。
ゆっくり。
近づく。
ノア。
生還経路。
「待て」
母。
止まる。
レイン。
「続けて」
「あなたは」
「生まれた時から」
「普通ではなかった」
「レベルの上限がない?」
「それは」
「結果の一つ」
「じゃあ」
母。
少し。
迷う。
「あなたは」
「生まれたのではない」
全員。
止まる。
「……何?」
レイン。
「どういう意味」
母。
「私から」
「産まれた」
「それは本当」
「でも」
「レインという存在は」
一拍。
「あなたの身体が生まれる前から」
「存在していた」
レインの背筋が。
冷たくなる。
Rain。
この世界にない文字。
仮登録。
存在。
切り離し。
全部。
繋がる。
「俺は」
「何なんだ」
母。
首を横に振る。
「今は」
レインの表情。
険しくなる。
母。
苦笑。
「違う」
「隠すつもりじゃない」
「私にも」
「全部は分からない」
「父さんだけが」
「知っていた」
「でも」
レイン。
「父親が」
「入口にいる」
母の顔。
初めて。
完全に。
変わった。
「……何?」
「生きてるみたいだ」
「そんな」
母。
後退。
「あり得ない」
レイン。
「血縁反応99.98%」
「ルークも」
「父さんって呼んだ」
母。
声。
震える。
「違う」
「何が」
「あなたの父さんは」
「死んだ」
「アレンもそう言った」
「違う!」
強い声。
初めて。
母が叫ぶ。
「死んだの!」
レイン。
「でも」
「私は」
母。
胸。
押さえる。
「死ぬ瞬間を」
「見た」
全員。
静止。
アレン。
殺した。
心停止。
回収班。
その後。
分からない。
でも。
母。
見た。
「いつ」
レイン。
「十八年前」
「アレンが殺した後?」
「違う」
母。
「その三日後」
「三日後?」
「父さんは」
母。
「一度蘇生された」
アレンの推測。
当たっている。
「その後」
「私に」
「会いに来た」
「最後の別れを」
「それから」
母の瞳。
涙。
「自分で」
「死んだ」
レイン。
「……自殺?」
「違う」
「じゃあ」
「境界へ」
一拍。
「自分自身を」
「封印した」
レイン。
理解できない。
「それ」
「死んだって言うのか」
「肉体は」
「完全に死んだ」
「魂も」
「この世界から消えた」
母。
「だから」
「今」
「入口にいるものは」
顔。
青ざめる。
「あなたの父親じゃない」
◇◇◇
その瞬間。
迷宮全体。
揺れた。
ゴゴゴゴゴ――。
レイン。
表示。
【外部干渉】
検知。
【迷宮管理権限】
侵入。
ノア。
「何か来る!」
セラ。
未来視。
顔色。
変わる。
「速い!」
「何が」
「人!」
「一人!」
「どこ」
「ここ!」
次の瞬間。
第三層。
奥。
空間。
裂ける。
黒い。
亀裂。
そして。
男。
一人。
歩いてくる。
黒い外套。
白髪混じり。
顔。
今度は。
見える。
レイン。
息。
止まる。
記憶。
封印。
反応。
【血縁一致】
99.98%。
男。
レインを見る。
そして。
笑う。
「大きくなったな」
レイン。
声。
出ない。
顔。
知らない。
はず。
でも。
胸。
知っている。
「……父さん」
無意識。
言葉。
出る。
母。
叫ぶ。
「違う!」
男。
母を見る。
「久しぶりだな」
母。
後退。
「あなたは」
「誰」
男。
少し。
悲しそうに。
「ひどいな」
「夫の顔を」
「忘れたのか」
「あなたは」
母。
震える。
「死んだ」
「そうだ」
男。
あっさり。
認める。
「私は」
「死んだ」
ガルド。
「話が見えねえぞ」
ノア。
「静かに」
男。
レインへ。
視線。
戻す。
「正確には」
「私は」
「お前の父親の」
一拍。
「記憶」
母。
表情。
変わる。
男。
「そして」
「意思」
「そして」
胸。
黒い文字。
【境界】
「死ぬ直前まで」
「彼が持っていた」
「境界適性の全て」
レイン。
「保存体?」
「似ている」
男。
ルーク。
思い出す。
「だが」
「私は」
「記録だけではない」
「考える」
「選ぶ」
「成長する」
「つまり」
男。
笑う。
「死んだお前の父親から」
「生まれた」
「別の生命だ」
レイン。
「じゃあ」
「父親じゃない」
「そうとも言える」
「でも」
男。
頭。
指す。
「ここには」
「お前が生まれた日の記憶もある」
「初めて歩いた日」
「熱を出した夜」
「お前が弟を抱いた日」
「全部」
レイン。
拳。
震える。
男。
「父親ではない」
「でも」
一拍。
「父親だったもの」
母。
低い声。
「何をしに来たの」
男。
母を見る。
「約束を」
「果たしに」
「何の」
男。
レインへ。
「こいつを」
一拍。
「完成させる」
全員。
構える。
レイン。
「完成?」
「そうだ」
「今のお前は」
「半分以下」
男。
「優しさ」
「支援」
「仲間を求める心」
「それだけを」
「こちらに残された」
「もう半分」
「力」
「捕食」
「支配」
「境界」
「それが」
「向こうにいる」
レイン。
アビス。
暗闇の声。
「統合しろって?」
「最終的には」
ガルド。
前へ。
「本人が嫌だって言ったら」
男。
「それでもだ」
空気。
変わる。
ガルド。
盾。
構える。
「なら」
「敵だな」
リリア。
杖。
セラ。
弓。
ミア。
薬。
ノア。
戦場設計。
エマ。
名無しの剣。
レイン。
手。
上げる。
「待て」
ガルド。
「でも」
「俺が話す」
男。
少し。
笑う。
「そうだ」
「昔のお前なら」
「仲間の後ろに隠れていた」
「違う」
レイン。
「今も」
「後ろにいる」
男。
「……」
レイン。
笑う。
「俺の場所だからな」
一瞬。
母。
小さく。
笑った。
男。
目を細める。
「なら」
「聞こう」
「何」
「なぜ」
「統合しない」
レイン。
「危険だから」
「それだけ?」
「違う」
仲間。
見る。
「今の俺は」
「一人じゃない」
「統合して」
「一人で百倍強くなって」
「全部できるようになったら」
一拍。
「こいつらと」
「一緒に強くなる意味が」
「なくなる」
男。
黙る。
「俺は」
「それが嫌だ」
長い。
沈黙。
男の表情。
ほんの少し。
変わる。
父親の記憶。
その中。
幼いレイン。
一人で。
何でも。
やろうとする子供。
弟を。
守ろうとする。
母を。
助けようとする。
誰にも。
頼らない。
その息子が。
今。
仲間がいるから。
一人で強くなるのは嫌だ。
そう言った。
男。
突然。
笑った。
大きく。
「……はは」
レイン。
「何だよ」
「いや」
男。
目元。
少し。
柔らかい。
「彼が」
「一番」
「聞きたかった言葉だ」
「父親が?」
「ああ」
レイン。
「じゃあ」
「統合しなくていい?」
「それは別だ」
レイン。
「おい!」
男。
笑い。
消える。
「世界が」
「待ってくれない」
その瞬間。
迷宮。
警告。
【境界異常】
【アビス覚醒率】
3%。
↓
5%。
レイン。
顔。
変わる。
一気に。
二%。
男。
「始まった」
「何が」
「お前の」
「もう半分が」
「こちらへ」
一拍。
「来ようとしている」
迷宮。
天井。
黒い。
亀裂。
広がる。
その向こう。
無数の目。
レインを。
見る。
声。
響く。
「見つけた」
暗闇。
アビス。
もう一人の。
レイン。
「今度は」
「逃がさない」
男。
レインの前へ。
立つ。
初めて。
庇うように。
「選べ」
「何を」
「ここで」
「私から」
男。
自分の胸。
指す。
「父親の記憶を」
「受け取るか」
「それとも」
黒い亀裂。
指す。
「向こうの自分と」
「戦うか」
レイン。
「両方は?」
男。
一瞬。
止まる。
そして。
笑った。
「やっぱり」
「お前は」
「彼の息子だ」
亀裂。
さらに。
広がる。
レイン。
仲間を見る。
ノア。
すぐ。
理解。
「両方やる気だな」
「ああ」
ガルド。
笑う。
「最初からそう言え」
リリア。
「私たちもいます」
セラ。
「未来」
「見ます」
ミア。
「薬あります!」
エマ。
「武器も」
レイン。
全員を見る。
そして。
父親だったものへ。
「記憶」
「返してもらう」
次。
亀裂。
見る。
「その後」
一拍。
「俺自身に」
「勝つ」
黒い亀裂の向こう。
もう一人のレインが。
笑った。
「できるかな」
レインも。
笑う。
「一人なら無理」
そして。
仲間たちを。
指す。
「でも」
「俺」
「後衛だから」
支援の光。
七人へ。
広がる。
「前は」
一拍。
「こいつらに」
「任せる」
――第四十話 了――




