第三十八話 本当の名前
第三十八話 本当の名前
扉の向こうに広がっていたのは、これまでレインたちが見てきたどの迷宮とも違う空間だった。石造りの通路も、魔物の気配もない。黒い湖のような床面が果てしなく続き、その上に無数の光の粒が浮かんでいる。星空を上下逆さまにしたような、不自然で静かな世界だった。
そしてレインの前には、三つの選択肢が浮かんだまま消えない。
【父親の記憶】
【攻撃能力】
【失われた名前】
「……どれか一つしか選べないのか」
レインが呟くと、すぐに新しい表示が現れた。
【第一封印解除】
解除可能項目:1
【注意】
選択後、他項目は再封印されます。
【次回解除条件】
実レベル60
ガルドがレインの顔を覗き込む。
「また何か見えてるのか?」
「ああ。三つある」
レインは隠さず説明した。父親の記憶。攻撃能力。そして、自分の本当の名前。
全員の表情が変わった。
「攻撃能力……」
リリアが最初に反応した。
レインが冒険者になってから、一度も手に入らなかったもの。それこそが、三度追放された最大の理由でもある。
ガルドは腕を組んだ。
「普通に考えたら、それじゃねえか?」
「俺も一瞬そう思った」
「一瞬?」
「ああ」
レインは自分の手を見る。
敵を倒せない。剣を振っても弱い。魔法攻撃も使えない。ずっと、それを欠点だと思っていた。
だが今は。
後ろに仲間がいる。
ガルド。
リリア。
セラ。
ミア。
ノア。
アレン。
エマ。
彼らと戦うようになってから、レイン自身が敵を倒せないことが、本当に致命的だった場面はほとんどない。
「攻撃できなくても、今まで何とかしてきた」
レインが言う。
ガルドが笑った。
「何とかどころじゃねえだろ。最近は格上ばっかり相手にしてるぞ」
「それを言われると嫌になるな」
少しだけ空気が緩んだ。
ノアが三つの選択肢について考える。
「父親の記憶は情報として重要だ。今起きていることの核心に近い可能性が高い」
「そうですね」
アレンも頷く。
「十八年前の事件、境界、あなたの封印、私たち完成個体の研究。おそらく、あなたの父親はすべてに関わっています」
「じゃあ父親の記憶?」
セラが尋ねる。
レインは答えない。
三つ目。
失われた名前。
そこが。
どうしても気になる。
「名前なんて、後でもいいんじゃないですか?」
ミアが言った。
悪気はない。
合理的でもある。
今、最も役に立つものを選ぶなら、父親の記憶か攻撃能力だろう。
名前。
それが何になる。
レイン自身もそう考えようとした。
だが。
できなかった。
アレン。
ソラ。
二人を見てきた。
番号しか持たなかった者が、自分で名前を選んだ。
それだけで。
二人は変わった。
名前は単なる呼称ではない。
少なくとも。
今のレインには。
そう思えた。
「俺は」
全員がレインを見る。
「名前を選ぶ」
ミアが驚く。
「本当ですか?」
「ああ」
「攻撃能力じゃなくて?」
「ああ」
「お父さんの記憶でも?」
「ああ」
ガルドが少し笑う。
「お前らしいって言えば、お前らしいな」
リリアがレインを見る。
「理由を聞いてもいいですか?」
「簡単だ」
レインは目の前の表示を見た。
【現在名称】
レイン・アーク
――仮登録。
「俺が誰なのか分からないまま、父親のことを知っても意味がない気がする」
それだけだった。
父親が何をしたか。
なぜ封印したか。
なぜ自分を守ったか。
それを知る前に。
まず。
自分自身が何者なのか。
それを知りたい。
レインは手を伸ばす。
【失われた名前】
選択。
一瞬。
世界が暗くなった。
◇◇◇
何も見えない。
仲間の声も聞こえない。
ただ。
遠くから。
誰かの声。
「名前を消せ」
男の声。
知らない。
次。
別の声。
「本当にいいのか」
今度は。
聞いたことがある。
ほんの一度。
記憶封印が揺らいだ時に聞いた。
父親の声。
「これしかない」
父親。
そして。
三人目。
女性。
泣いている。
「この子から」
「全部奪うの?」
母親。
レインは。
初めて。
母の声だと分かった。
記憶にある。
優しい声。
ただ。
今聞こえているものは。
震えている。
「名前だけじゃない」
父親。
「記憶も」
「家族も」
「力も」
「全部」
「世界から隠す」
母。
「そこまでする必要が?」
「ある」
父親。
声。
低い。
強い。
「この子が」
「レインである限り」
一拍。
「見つかる」
レインの意識が。
止まる。
レインである限り。
見つかる。
でも。
自分は。
今。
レイン。
どういう意味だ。
映像。
一瞬。
白い部屋。
幼い自分。
ベッド。
父親。
顔。
見えない。
ただ。
父が。
何かを書いている。
【旧個体名】
――――。
文字。
ぼやける。
【新規仮登録名】
レイン・アーク。
父親。
子供の額へ手を置く。
「ごめんな」
その声。
苦しい。
「いつか」
「自分で」
「取り戻せ」
光。
そして。
全て。
消える。
◇◇◇
レインが目を開けた。
仲間たち。
目の前。
「レインさん!」
リリアが一番近くにいた。
「大丈夫ですか?」
「……ああ」
頭。
痛い。
でも。
意識。
はっきり。
そして。
表示。
【第一封印】
解除。
【名称情報】
復元完了。
全員が。
レインを見る。
「何だった?」
ノアが聞く。
レイン。
表示を読む。
だが。
数秒。
言葉が出ない。
「……あり得ない」
ガルド。
「何が」
レイン。
もう一度。
確認。
【現在名称】
レイン・アーク。
【仮登録】
解除予定。
【本来名称】
――レイン。
一瞬。
全員。
黙る。
ミア。
首を傾げる。
「同じ?」
「いや」
レイン。
続き。
【本来名称】
レイン。
【姓】
なし。
【識別名】
アーク。
後付け。
アレンの目。
変わる。
「姓が」
「偽物?」
「らしい」
ガルド。
「じゃあ」
「レインって名前自体は」
「本物なのか」
レインは。
少し安心した。
全部。
嘘ではなかった。
レイン。
その名前。
父親が。
最後まで。
残した。
でも。
その下。
まだ。
続きがある。
【旧分類名】
――Rain。
表記。
違う。
この世界の文字ではない。
レイン。
目を細める。
「何だこれ」
アレン。
「読めますか?」
「読める」
「意味は?」
「同じ」
「レイン」
でも。
違和感。
強い。
Rain。
この世界に。
存在しない。
文字。
「レインさん」
リリア。
「どうしました?」
レイン。
答えようとした。
その瞬間。
さらに。
新しい表示。
【由来情報】
閲覧制限。
解除条件。
――境界接続率10%。
現在。
0.8%。
レイン。
「……また条件か」
ノア。
「何が」
「名前の由来」
「今は見られない」
ガルド。
「じらすの好きだな」
「俺に言うな」
でも。
重要なこと。
一つ。
分かった。
レイン・アーク。
そのうち。
レイン。
本物。
アーク。
偽物。
父親が。
自分を隠すために。
付けた。
「つまり」
アレン。
「アークという姓が」
「追跡からあなたを隠す」
「鍵だった可能性がある」
レイン。
「そうかもしれない」
「では」
「今」
アレンの表情が変わる。
「本来名称を解除したことで」
レイン。
止まる。
同時。
視界。
赤。
【警告】
【名称封印解除】
【世界照合開始】
「……まずい」
【照合率】
1%。
2%。
3%。
ノア。
「何が」
「世界が」
「俺の名前を」
「確認してる」
アレン。
顔色。
変わる。
「再封印できますか?」
「分からない」
レイン。
操作。
【再封印】
不可。
「駄目だ」
「解除したら戻せない」
ガルド。
「だから父親が」
「名前まで隠した?」
レイン。
頷く。
たぶん。
それ。
世界。
照合。
5%。
6%。
その時。
迷宮。
揺れる。
ゴゴゴゴ――。
「何だ!」
エマ。
壁。
見る。
ノア。
《生還経路》。
「崩落じゃない!」
「迷宮が」
「変形してる!」
前。
黒い空間。
光。
一本道。
生まれる。
レインの視界。
【名称認証】
通過。
【本来個体】
確認中。
【第二試練】
強制開始。
「第二試練?」
レイン。
前を見る。
遠く。
人影。
一人。
歩いてくる。
自分。
同じ身長。
同じ髪。
同じ顔。
レイン。
「……俺?」
もう一人のレイン。
立つ。
仲間たち。
武器。
構える。
だが。
表示。
【試練対象】
レイン・アーク。
単独。
【他者介入】
禁止。
透明な壁。
突然。
レインと。
仲間。
分断。
「レイン!」
ガルド。
盾。
叩く。
ドン!
壁。
動かない。
リリア。
魔法。
効かない。
ミア。
「爆発させます!?」
全員。
「やめろ!」
もう一人のレイン。
静かに。
こちらを見る。
そして。
口を開く。
「久しぶり」
声。
同じ。
でも。
少し。
違う。
冷たい。
レイン。
「誰だ」
「君だよ」
「違う」
「そう」
偽レイン。
笑う。
「正確には」
一拍。
「君が」
「父親に切り捨てられた方」
レイン。
呼吸。
止まる。
アビス。
声。
――お前が捨てたもの。
ルーク。
――本当のレイン・アーク。
全て。
同じ方向。
向かう。
「俺の」
「切り離された部分?」
偽レイン。
「そう」
「じゃあ」
「アビスにいるのは」
「僕でもある」
レイン。
「何だそれ」
「簡単だよ」
偽レイン。
近づく。
「父親は」
「君を」
「二つに分けた」
透明壁の向こう。
アレン。
表情。
変わる。
「二つ……」
偽レイン。
指。
一つ。
レインへ。
「こちら」
「弱い方」
レイン。
眉。
ひそめる。
「喧嘩売ってる?」
「事実」
偽レイン。
もう一つ。
暗闇。
指す。
「向こう」
「強い方」
一拍。
「世界を」
「壊せる方」
全員。
静止。
レイン。
「……俺が?」
「君じゃない」
偽レイン。
笑う。
「僕たちが」
言い直す。
「一つに戻ったら」
迷宮。
再び。
大きく。
揺れる。
【世界照合率】
12%。
【警告】
分離個体。
相互認識。
【統合可能性】
発生。
レイン。
赤い表示。
【選択】
分離状態を維持。
または。
第一統合を実行。
「……」
レイン。
偽の自分を見る。
父親が。
なぜ。
分けた。
名前を隠し。
弟を隠し。
記憶を封じ。
成長を。
遅くした。
そして。
自分から。
強い方を。
切り離した。
理由。
たぶん。
これ。
「統合したら」
レインが聞く。
「どうなる」
偽レイン。
答える。
「強くなる」
「どれくらい」
「今の」
一拍。
「百倍くらい」
ガルド。
壁の向こう。
「やめとけ!」
即答。
レイン。
「俺もそう思う」
偽レイン。
少し。
驚く。
「興味ない?」
「ある」
「なら」
「でも」
レイン。
仲間を見る。
「父親が」
「ここまでして」
「止めた理由を」
「知らない」
「なら」
「今」
「戻すのは」
「馬鹿だろ」
ノア。
壁。
向こう。
小さく。
笑う。
「正解」
偽レイン。
「臆病だね」
「よく言われる」
「強くなりたいんじゃないの?」
「強くなりたい」
「矛盾してる」
「してない」
レイン。
一歩。
前へ。
「俺は」
「自分で」
「扱える分だけ」
「強くなる」
偽レイン。
「誰に決められた?」
「俺が」
一拍。
「決めた」
その瞬間。
偽レイン。
表情。
僅かに。
変わる。
初めて。
笑みではなく。
何か。
懐かしむ。
ような。
「……そう」
そして。
手。
下ろす。
【第一統合】
拒否。
【分離状態】
維持。
だが。
偽レイン。
言う。
「じゃあ」
「一つだけ」
「返す」
レイン。
「何を」
「名前を」
レイン。
「もう取り戻した」
「違う」
偽レイン。
自分の胸。
指す。
「レインは」
「名前じゃない」
全員。
表情。
変わる。
レイン。
「何?」
「それは」
一拍。
「役割」
迷宮。
光。
強くなる。
偽レイン。
消え始める。
「待て!」
「実レベル60」
声。
遠く。
「そこまで来たら」
「次を教える」
「本当の名前を?」
「違う」
最後。
顔。
笑う。
「君が」
「何のために」
「作られたのか」
消失。
◇◇◇
透明壁。
消える。
ガルド。
すぐ。
レインの肩。
掴む。
「大丈夫か」
「ああ」
「百倍って」
「聞こえたぞ」
「聞かなかったことにして」
「無理だ」
リリア。
「統合しなくて」
「良かったと思います」
レイン。
「俺も」
ミア。
「百倍強くなったら」
「レインさん」
「一人で全部できちゃいますね」
その言葉。
レイン。
少し。
止まる。
一人で。
全部。
できる。
昔なら。
欲しかった。
攻撃能力。
防御。
力。
でも。
今。
それ。
必要?
自分一人で。
全部できたら。
ガルド。
いらない。
リリア。
いらない。
セラ。
ミア。
ノア。
アレン。
エマ。
いらない。
そんな。
強さ。
レイン。
「それ」
「嫌だな」
ミア。
「何がです?」
「一人で」
「全部できるの」
ガルド。
笑う。
「お前」
「本当に変わったな」
レイン。
「そう?」
「ああ」
「昔なら」
「一人で戦えないこと」
「気にしてただろ」
レイン。
少し。
考える。
確かに。
でも。
今。
攻撃能力。
選ばなかった。
自分から。
「そうか」
レイン。
小さく。
笑う。
「俺」
「もう」
「攻撃できなくても」
「気にしてないんだな」
アレン。
「それは」
「良いことだと思います」
ノア。
「お前が攻撃役になったら」
「戦場が崩れる」
「そこまで言う?」
「事実」
エマ。
笑う。
空気。
少し。
戻る。
その時。
迷宮。
奥。
扉。
開く。
【第一封印試練】
完了。
【報酬】
実レベル経験値。
大量獲得。
レイン。
表示。
【実レベル】
52。
↓
54。
「二つ上がった」
ノア。
「効率いいな」
レイン。
「まだ60まで六」
ガルド。
「なら」
「この迷宮」
「全部攻略すれば」
「届くんじゃねえか」
レイン。
前を見る。
通路。
さらに。
奥。
そして。
新しい表示。
【灰月迷宮】
攻略進捗。
18%。
全員。
「18%?」
ミア。
「まだそれだけ!?」
ノア。
目。
輝く。
「いい」
「何が」
「経験値」
「まだ」
「82%残ってる」
レイン。
少し。
笑う。
「行くか」
だが。
その時。
セラ。
未来視。
突然。
膝。
つく。
「セラ!」
レイン。
支える。
「何見た」
「……ルーク」
「弟?」
「はい」
入口。
未来。
ルーク。
一人。
待っている。
その前。
誰か。
現れる。
男。
黒い服。
顔。
見えない。
「敵?」
「分からない」
「ルークは?」
セラ。
息。
荒い。
「逃げません」
「何で!」
「その人を」
「知ってる」
レイン。
「誰」
セラ。
未来。
声。
聞く。
ルーク。
震える。
男を見る。
そして。
呼ぶ。
「父さん」
レイン。
完全に。
止まった。
「……何?」
死んだ。
はず。
アレンが。
十八年前。
殺した。
父親。
でも。
ルークは。
未来で。
確かに。
そう呼んだ。
「父さん」
セラ。
顔。
青い。
「レインさん」
「その人」
「迷宮の中へ」
一拍。
「入ってきます」
その瞬間。
レインの視界。
【血縁反応】
検知。
【対象】
接近中。
一致率。
99.98%。
レイン。
言葉。
失う。
死んだはずの父親が。
今。
この迷宮へ。
向かっていた。
――第三十八話 了――




