3話 リユニオン・プロミス(イズ・ノット)(3)
ほのかに甘い、香木の香りに鼻先をくすぐられて、静かに目を開いた。
——薄暗い部屋……。窓に掛けられているカーテンの下あたりから、わずかに陽の光が洩れる以外に照明はない。掛けられている薄手の寝具を胸元で押さえ、ゆっくりと上体を起こす。
誰もいないが、どうやらマザーパーチ号の医務室らしい。何故こんなところで寝かされているのか記憶を辿り、自分がレドナとの会話の最中に倒れてしまったことを思い返した。
(やってしまった……。私、いったいなにをしてるんだろう)
激化するビーストとの戦闘と、拡大していく被害に神経をすり減らし、これまで以上に疲労が溜まっていることを感じてはいた。だが、こんなふうに倒れた原因は他にある。それがなんであるかも分かっていた。
『恨めしい。憎い。何もかも壊してしまいたい』
決して言葉にはなっていないが、なにかこう、激しく駆り立てる感情の波が足元を浚い、胸下まで上ってきて、もの凄い力で押し流しそうとしていく。
いくら藻掻いたとて、濁流の前にはなんの抵抗もできやしない。
されるがままに荒波に揉まれていると、無性に心がざわつく。
心の奥底、普段はまったく気づかない深さにある自分自身が、目覚めていくかのような感覚。
——その声に、耳を貸しちゃいけないよ……。
マラザがかけてくれた言葉を思い返しながら、右手で左の手首を掴み、小さな赤黒い点となった痕を親指でそっと撫でた。
(あれは、ビーストの声? ……それとも)
鈍い頭痛がやってきた。痛みを和らげようと目を閉じたのと、医務室のドアが開いたのはほぼ同時だった。
「……クーナさん、大丈夫ですか?」
様子を窺うような、弱く揺れる声だったが、その声には確かに聞き覚えがある。はっとして入り口の方向を仰ぎ見ると、赤みの混じる黒髪をした少年が目に入った。
「スレイ……良かった。思ったより、元気そう」
ベッドの脇まで寄ってきたスレイは、口端を緩ませた。その表情が、少しだけ歪んで見えたのは、きっと相手からも同じだっただろう。
「俺よりも、クーナさんの方が大変じゃないですか。聞きましたよ、過労で倒れたって」
「……ええ。ほんと、情けない話だけれど。迎えに行くって約束したのに、これじゃ貴方に迎えに来てもらったみたい」
「いや、迎えに来てもらったことに変わりないんだから、別にいいじゃないですか。こうやってまた会えて。俺、嬉しいです。クーナさん」
そう言って笑みを浮かべるスレイに、つい「私も、会えて嬉しい」なんて口走る。彼は、照れるようにして左の頬を指で掻いていた。
足にまでかかっている寝具をどかし、ベッドから右足を抜く。向き合う格好をしようと端に足を出したところで、ぐらっと前のめりに倒れた。
「クーナさん!」
腕から頬にかけて固い感触が当たる。咄嗟に身を乗り出したスレイに、抱きかかえられる格好になったのだと理解するまで少し間が空いた。冷たいはずのジャケットの生地からほのかに伝わる、温もりと息遣い。
「大丈夫ですか? まだ無茶しちゃ駄目ですって」
「……ええ、ごめんなさい。ちょっと眩暈がしたみたいで。ありがとう」
支えられるようにして顔を離し、スレイが羽織るジャケットの右胸に縫われたワッペンに触れる。
黄金の葉を銜え、翼を広げる渡り鳥を象った、ソング・バード隊のエンブレム。
「……知ってる? モチーフになったこの渡り鳥は、もうずっと昔に絶滅してしまった種なの。その大きな翼で空を駆ける姿に、人々は幸運を祈り、言い伝えをたくさん残したのよ」
「え、なんです?」
どうやら呟いた言葉は聞こえなかったらしい。構わぬふりをして体勢を戻し、足裏を床につけ、座ったまましっかりと背を伸ばした。
「スレイが隊に戻ってきてくれて、ほっとしました。艦長から話を聞いた時は、嫌な想像もしたものだけど、こうやってまた話せるようになって、本当に良かった」
ぐっと眉根を寄せるスレイに、冷えたものが胸をよぎった。
「……違うの?」
「クーナさん……。落ち着いて聞いてほしいんですけど、俺、まだソング・バード隊には戻れません」
自分の目が大きく見開かれたのが分かる。
たぶん、私はものすごい貌をしているのだろう。スレイは、なんとか説明しようと身振り手振りを交えて、言葉を繋いだ。
「クルセイダが共和国から『調和の器』って言われてるのも、それを操縦できる俺の立場も、なんとなくですけど、理解しているつもりです。皇帝陛下は、そういうことはどうでも良いみたいですけど。
俺が帝国に呼ばれたのは、エレオラっていう人の思いつきだったみたいなんですけど。あっちでヴァーンって大導師に助けられて、お世話になったんです。訳が分からないですけど、皇帝陛下にも気に入られたみたいで、俺は、自分ができることを探そうと思ったんです……」
その懸命な声が、どこか遠くから聞こえてくるような気がしていた。
さっきまでたしかにあった温もりが芯まで冷え、代わりに底の方から突いてこみ上げてくるその感情は、悲しさと怒りだった。
「俺のやりたいことは、ずっと変わっていません。だからこそ、自分のやりたいことの為に多くのことを知りたかったんです。そのなかで知り合ってしまった人たちを、すぐに離れられない。だから、せめてこの作戦が終わるまで」
「———身勝手な人」
スレイの口が空いたままで止まる。聞きなれた私自身の声のはずなのに、びっくりするほどに冷ややかで、残酷な響きが伴っていた。
「貴方、自分勝手だわ。そうやって自分のことしか考えていないから、周りのことを心配したふりをしているの。政府が、軍が、私たちが、どれだけ貴方のことを考えていたか、想像した?」
「……それは、もちろんです」慌てながらも答えるその言葉に、首を振る。
「嘘ね。考えたことがあるのなら、まだ帰れないなんて言えるはずないもの」
まるで自分じゃないもう一つの心があって、その心を持った自分が、怯えるスレイに言い詰める様子を俯瞰するようだった。
(やめて。そんなこといいたいわけじゃない)
声にならない声は、虚しく溶けて消えていく。
女の嗤う声が小さく聞こえた気がした。
「いったいどうしちゃったんです! クーナさんじゃない、まるで別人みたいだ」
「まるで別人? 知った口を聞かないで。貴方が私の何を知っているというの。何も変わらないわ。私は正しい軍人であることに誇りを感じているし、それをとやかく言われる筋合いもない。弱さなんて捨て去って、私は私であろうとしているの」
「弱さ? 落ち着いてください、クーナさん。なんの話ですか」
肩を掴まれた手を、力任せに腕で振り払う。予想だにしてなかった行動に驚いたのだろう、よろめいたスレイは壁に背をぶつけていた。そのまま、ずるずると床に腰が落ちていく。
「クーナさん……?」
私は立ち上がって、スレイを見下ろす。
「貴方の考えは分かりました。保護せよという命令があれば別ですが、おそらく帝国と共和国の間で話はついているのでしょうし。好きにすればいいのではないですか?
私は貴方の家族でもなんでもない。必要以上に関与する必要もないのですから。さっさと、貴方の隊へ戻りなさい」
「……俺は。クーナさん、俺は」
縋るような視線に無性に腹が立つ。そんことなど微塵も思っていないのに、勝手に動く唇は、スレイを追い立てる。
「出て行きなさいと言っているのが、分からないの!? さぁ、早く! 出て行きなさい!」
無言で立ち上がり、小さく萎んだ背中がスライドした扉の向こう側に消える。
ちらりと見えた、赤く滲む目が、床に縫われたように動こうとしない足を、より一層重たいものにしていた。




