40
「シ…ヴィ?ユー…リ?」
発音しづらそうにガンツがユーリの名前を呼ぶ。その隣でナンシーも悪戦苦闘しながら発音するが上手く発音できないでいる。
「こっち風だとユカリ・シキベだよ。最初から発音しにくいかと思ってユーリにしたんだ」
少し寂しそうに笑うユーリ。此方の世界にいる限り正しい発音で自分の名前を呼ばれないと分かっているからだ。
「紫」
ユーリの背後にいるアンリがユーリの本当の名前をなんなく呼ぶ。驚きビクッと反応したユーリは自分の背後にいるアンリへと顔を向ける。その顔は驚いているようでも恥ずかしそうでもある複雑な表情をしていた。
「何で?」
あちらの世界にいた時には同級生などから「紫式部」だなどとからかわれる事が多かった。そして、家族であった人達からはまともに名前で呼ばれる事もなかった。大概が「おい」などと呼ばれる事が多かった。呼ばれる事の少ない名前に今更未練などないのだと思っていたが、いざ呼ばれると自分の名前がとても大切なものだと思い出した。
「私はユーリの名前が違う事を知っていましたよ。あちらの世界のユーリを見ていましたから、だから誰も呼べない名前を私は呼べるんです」
優しい笑顔を向けてくれるアンリに誰も呼んでくれないだろうと思っていた名前を突然呼ばれ、驚いたもののやはり嬉しくて、頬をほんのり染めると嬉しそうに笑い、感極まって涙ぐむ。
「ありがとう、アンリ。でも、今まで通りでいいからね」
甘い響きを含んだアンリの声で呼ばれると居心地が悪いと言うか、心臓が痛いほどに高鳴る。嬉しくて溢れた涙をアンリは細く長い指で掬い取る。
「では、二人きりの時だけにしますね」
「っ!」
ユーリの肩に甘えるように自分の頭を擦り付けるアンリ、ユーリはアンリのその仕種にゾクゾクッと喜びと興奮の入り交じった感情で体が熱くなった。それを悟られないようにまた前を向くが、アンリは時折、首筋に悪戯に唇を当てている。
その度にユーリはピクッと反応してしまう。その反応が楽しいのかアンリは止めようとしない。
「私達もいるのですけれど?」
その言葉に居たたまれなくなったユーリは顔を真っ赤にさせ、アンリに離れるように訴えるが一向に聞かないアンリ。
「そう言えば、アンリ。これ何?」
自分の左手を持ち上げるユーリ。事も無げにアンリはユーリの手を取り、口付ける。
「これは結婚指輪ですよ」
「え?」
ユーリとアンリは婚約したという話ではなかったのか?と思い、グラナトに目を向ける。
「間違ってはいません。それは精霊が結婚相手に刻むもので両者がお揃いの紋様を刻むのです」
「ふ~ん…ところでなんでグラナトとティアンはそんな喋り方なの?」
「ユーリ様は我が君の伴侶です。その方には敬意を払わねばなりません」
お茶を片手に言っているのは良いのだろうかと思ったりもするユーリだったが、そこを気にしたら負けな気がして言わない事にした。
「ふあ~、あっ、…ごめんなさいね」
欠伸をして少し眠そうなナンシー、その隣のガンツもいつもと変わりないように見えるが、目をシパシパさせている。相当我慢しているのだろう。それに気付いたアンリが、ユーリを抱き上げて立ち上がる。
「え?ちょ!アンリ!?」
「まだ真夜中ですからね。一度、解散して寝る事にしましょう」
グラナトとティアンは了承すると頭を下げ、すぅと空間にそのまま溶けていなくなってしまった。ガンツとナンシーも寝室へと移動し始めた。
「では、私達も寝ましょう」
「え?あ、うん」
抱き上げられたままユーリとアンリの寝室へとやって来た。器用に片手でドアノブを回し、室内へ入ると真っ暗な室内はとても寒々しかったが、抱き抱えるアンリに接する腕や胸は温かく、それだけでほっとする。
アンリはユーリをベッドへと優しく下ろすと上掛けをそっと掛け、ベッドの端へ腰掛けた。
「アンリは寝ないの?」
花冠が乗った頭に手を当てると花弁が舞い、十二時を過ぎて魔法が解けたシンデレラの様にいつも身に付けている寝衣に変化する。
「ユーリが寝付くまでここにいます」
ゆっくりと髪を鋤かれるユーリ。その仕種は優しく、高ぶっていた感情が徐々に凪いでいく。すると過ぎ去っていた眠気がゆっくりとやって来て、ユーリの目蓋を重くしていく。
「おやすみ、アンリ」
「おやすみなさい、ユーリ。良い夢を」
完全に目蓋が閉じられるまで髪を愛しそうに鋤く手は止まず、深い眠りの中へと落ちていく瞬間、額に柔らか感触を感じたような気がしたが、それすらも分からない程に眠りの底へと沈んでいった。
読んでいただきありがとうございます。




