第四話 今さら戻って来いと言われましても
第四話 今さら戻って来いと言われましても
北方大公家の応接室。
重苦しい空気が漂っていた。
レティシアはソファに腰掛け、向かい側に座る人物を見つめていた。
エドワード王太子。
かつての婚約者である。
しかし以前とは違った。
顔色は悪く、目の下には隈ができている。
自信に満ちていた表情は影も形もない。
しばらくの沈黙の後。
先に口を開いたのはエドワードだった。
「……久しぶりだな」
「はい」
会話が終わった。
隣でアレクシスが少しだけ満足そうな顔をしている。
エドワードはそんな公爵を睨んだが、すぐ視線を落とした。
今の彼にその相手と対等に話す余裕は無い。
「今日は何のご用件でしょうか」
レティシアが穏やかに尋ねる。
昔の彼女ならもっと気を遣っただろう。
だが今は違う。
もう婚約者ではない。
その事実が二人の距離を明確にしていた。
エドワードは拳を握った。
そして。
「すまなかった」
深く頭を下げた。
レティシアが少し驚く。
王太子が頭を下げるなど滅多にない。
「私は騙されていた」
エドワードは苦しそうに言った。
「全て調べた。ミレーユの罪も、お前への冤罪も、全部だ」
レティシアは静かに聞いている。
怒りもない。
恨みもない。
ただ過去の話を聞くような気分だった。
「お前は何も悪くなかった」
「そうですね」
即答だった。
エドワードの表情が少し引きつる。
否定されると思っていたらしい。
だが事実なので仕方ない。
「私は……取り返しのつかないことをした」
「そうですね」
また即答。
今度はアレクシスが吹き出しそうになっていた。
レティシアに悪気はない。
純粋に事実を言っているだけである。
だから余計に刺さる。
エドワードは肩を落とした。
そしてついに本題を口にする。
「戻ってきてくれないか」
部屋が静まり返る。
護衛も使用人も息を呑んだ。
レティシアはぽかんとしている。
数秒後。
「どこへですか?」
「王都だ」
「何のために?」
「王太子妃として」
レティシアは本気で困惑した。
あまりにも自然に言うので一瞬理解できなかったほどだ。
「婚約破棄しましたよね?」
「取り消す」
「追放しましたよね?」
「撤回する」
「私は畑があります」
「畑?」
話のスケールが合っていない。
王太子と侯爵令嬢の重要な話である。
なのにレティシアは畑の心配をしていた。
「それに」
彼女は少し微笑んだ。
「今の生活が好きなんです」
その言葉に迷いは無い。
王都にいた頃。
レティシアはいつも誰かのために生きていた。
婚約者のため。
家のため。
王家のため。
王国のため。
しかし今は違う。
自分のために生きている。
だから。
「お断りします」
優しく。
そしてはっきりと言った。
エドワードの顔から血の気が引く。
しかし反論できない。
自分が捨てたのだ。
自分の意思で。
そして今さら気付いたから戻ってこいなど身勝手にも程がある。
それは彼自身が一番理解していた。
◇
「本当に幸せなのか?」
エドワードがかすれた声で尋ねる。
レティシアは隣を見た。
アレクシスがいる。
出会った時は怖い人だと思った。
冷酷公爵。
氷の大公。
そんな噂ばかり聞いていたから。
だが実際は違った。
不器用で。
真っ直ぐで。
優しい人だった。
畑の話を聞いてくれる。
野菜の成長を一緒に喜んでくれる。
忙しいはずなのに時間を作ってくれる。
そして何より。
自分を大切にしてくれる。
「ええ」
レティシアは笑った。
「とても」
その笑顔を見て。
エドワードは負けを悟った。
昔のレティシアはこんな顔をしなかった。
義務感の笑顔だった。
王太子妃としての微笑みだった。
今は違う。
本当に幸せそうだった。
だからこそ。
自分が失ったものの大きさを理解してしまった。
◇
やがて面会は終わった。
エドワードは立ち上がる。
「最後に一つだけ」
「はい」
「幸せになれ」
レティシアは少し驚いた。
そして微笑む。
「ありがとうございます」
それが最後だった。
エドワードは振り返らず屋敷を後にした。
失った時間は戻らない。
過ちは消えない。
だから前へ進むしかないのだろう。
その背中はどこか寂しげだった。
◇
静かになった応接室。
アレクシスが突然立ち上がる。
「レティシア」
「はい?」
真剣な表情だった。
先ほどよりさらに。
戦場へ向かう時のような顔。
「先日の返事を聞きたい」
レティシアの心臓が跳ねた。
第三話で告げられた言葉。
結婚してほしい。
その答えだった。
逃げ場は無い。
だが。
逃げたいとも思わなかった。
「私は」
言葉に詰まる。
顔が熱い。
恥ずかしい。
それでも。
アレクシスだけを見つめた。
「あなたといる時間が好きです」
アレクシスの瞳が揺れる。
「一緒にいると落ち着きます」
「……」
「ですから」
レティシアは小さく笑った。
「はい」
その瞬間。
王国最強と呼ばれる男が固まった。
数万の軍勢を前にしても動じない男が。
完全に。
固まった。
そして数秒後。
珍しく取り乱した。
「執事!!」
「はい」
「結婚式の準備だ!!」
「早すぎます」
執事が即座に突っ込む。
屋敷中に笑いが広がった。
そして。
二人の未来は幸せな結末へ向かって動き出す。




