第8話:総裁室の狂瀾、あるいは引き裂かれたイチゴの絶望
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大陸中央銀行、最上階。
すべてが幾何学的な大理石と、魔導ガラスによって構築された総裁室は、外界の喧騒とは無縁の静寂に包まれていた。部屋の中央に浮遊する巨大な魔導スクリーンには、大陸全土からリアルタイムで集計される数百億ゴールド規模の資金流動が、精緻な光の数式となって明滅している。
その光の中心で、豪奢なベルベットの椅子に腰掛け、虚ろな目でソロバン(魔導計算機)の珠を弾いている少女がいた。
リーゼロッテ・フォン・ゴールドベルク。見た目は十二歳前後の、可憐なゴスロリ衣装を纏ったエルフ。しかしその実年齢は三百歳を超え、大陸の全通貨の発行権を握る、文字通りの『為替の支配者』である。
コンコン、と室内に控えめなノックの音が響き、一人の上級官僚が冷や汗を流しながら入室してきた。
「総裁閣下。王都に派遣いたしましたエレオノーラ特使より、緊急の事後報告が入っております。……ルード王国に対する、大陸同盟規約に基づく『物理的全面経済封鎖』の発令、および魔導転送陣のライン遮断が、一時間前に完了したとのことです」
リーゼロッテは、ソロバンを動かす手をピタリと止めた。
その前髪に隠された双眸が、凍りつくような冷徹さを帯びて官僚を射抜く。
「……経済封鎖? エレオノーラが、独断でルードの国境を物理的に閉じたというの?」
「は、はい。先輩であるレオン氏が主導するゲリラ新通貨『精霊手形』の流通を、同盟領内でこれ以上拡散させないための、超法規的措置であると……。これにより、ルード王国からの物資の流入は完全にストップいたします。ゴールドの秩序は守られました!」
官僚は誇らしげに胸を張った。
だが、リーゼロッテの小さな肩は、静かに、しかし明らかに怒りで震えていた。
「――下がりなさい」
「は?」
「今すぐ私の目の前から消え失せなさい、この無能。……さもなければ、あなたの実家の商業ギルドの金利を、明日から三〇〇%に引き上げて自己破産させてあげるわ」
「ひ、ひぃぃっ! し、失礼いたします!」
官僚が転げるようにして総裁室から逃げ出していく。
重厚な扉が閉まり、室内に完全な静寂が戻った――その刹那。
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「……エレオノーラのバカァァァァァァァァァァァァッ!!」
先ほどまでの冷徹な女王の姿はどこへやら、リーゼロッテは総裁の椅子から転げ落ちると、最高級の絨毯の上でゴロゴロと転がりながら、小さな手足をバタつかせて絶叫した。
「何考えてるのよ、あの融通の利かない経済オタクのカタブツ女! 物理的経済封鎖!? 全面禁輸措置!? ということは何!? ルード王国で作られている、あの瑞々しい『精霊イチゴのコンフィチュール』も、精霊炉で焼かれた究極の『精霊ハチミツのタルト』も、明日から一切中央に届かなくなるってことじゃないのよ!」
リーゼロッテは真っ赤な顔で起き上がると、狂ったように髪を掻きむしった。
すべてを数字で管理する合理主義の権化である彼女が、唯一、人生の至福として愛しているのが、あのルード王国の非効率な伝統スイーツだったのだ。それが、部下の生真面目すぎる「経済封鎖」によって、物理的に遮断されてしまった。
「あああ、もう駄目。脳細胞のブドウ糖が足りなくて、ゴールドの為替レートの計算が狂いそうだわ。レオン……レオンが淹れてくれた、あの完璧な苦味のコーヒーが飲みたい……。レオンがいないと、私、あと三日でただの干からびた合法ロリになっちゃう……!」
リーゼロッテは机に突っ伏し、枕を濡らすようにして愚痴をこぼした。
三年前、レオンが同盟の腐敗に絶望して彼女の右腕を辞めたとき、彼女はショックのあまり一週間中央銀行の地下金庫に引きこもった過去がある。今回のルード王国への通貨攻撃も、本音を言えば「ルード王国を自分の管理下に置けば、レオンがまた私の右腕(お財布係兼パティシエ調達係)に戻ってきてくれるかもしれない」という、一〇〇%私情による甘えの裏返しだったのだ。
しかし、エレオノーラの余計な猛攻によって、その計画は最悪の形でこじれてしまった。
「……はぁ。でも、これで終わるようなレオンじゃないわよね」
リーゼロッテはふぅと息を吐き、口の周りに残っていた(隠し持っていた最後の)タルトのクズを指で拭ってペロリと舐めると、再び総裁としての鋭い目付きに戻った。
彼女は魔導スクリーンの前に立ち、暴落から一転して「同盟領内の闇市場」で奇妙な動きを見せている、精霊手形の流通グラフを睨みつけた。
エレオノーラの経済封鎖は、一見すると完璧だ。公式の魔導転送陣を遮断し、国境の街道を兵士で固めれば、普通の国なら物資の流通は完全に麻痺する。
だが、レオンが構築した『ゲリラ新貨幣ネットワーク』の本質は、中央のシステムからはじき出された、同盟全域の「敗者(ローカル職人)」たちの互助会なのだ。
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「ふん、やっぱりね。あいつ、国境なんて最初から無視してるわ」
リーゼロッテはソロバンの珠を一つ、パチンと弾いた。
画面のデータが示す通り、ルード王国の公式な窓口が閉じられたはずなのに、同盟南部の伝統織物ギルドや、北部の老舗炭鉱都市の周辺で、なぜか『精霊手形』の取引量が、ここ数時間で爆発的に跳ね上がっている。
経済封鎖という暴力に対し、レオンはトマスの『ワンクリック・ギルド』の正規ルートを捨て、すでにある別の「見えない密輸ルート」――例えば、中央の税関の手が届かない古代の地下遺跡の転送陣や、密輸商人の隠しルートを買い叩き、一瞬でゲリラネットワークのバイパス(迂回路)として組み込んだのだ。
中央が「法」で縛るなら、ローカルは「現実の隙間」を縫って越境する。
ゴールド経済圏という巨大な怪物の網の目が粗いことを、元・特級交渉人であるレオンは誰よりも知り尽くしていた。
『――緊急報告。総裁閣下、大変です』
魔導スクリーンに、今度は中央銀行の密偵からの通信が飛び込んできた。
『同盟領内の複数の地方都市にて、中央の「ゴールド」での納税を拒否し、ルード王国の「精霊手形」での支払いを要求する暴動が断続的に発生しています! 手形の流通シェアは、封鎖をきっかけにむしろ加速し、現在、同盟全域の九・五%に達しようとしています!』
「……クスクス、あはははは!」
リーゼロッテは、思わずお腹を抱えて高笑いした。
エレオノーラの仕掛けた経済封鎖という圧力が、逆に同盟内の困窮する民衆の反発を招き、ゲリラ通貨の価値を爆発的に高める結果になったのだ。まさに、グローバリズムの傲慢が生んだ致命的なバックラッシュ(反動)だった。
「いいわ、面白いじゃない、レオン。あと一歩で、私の突きつけた『市場シェア一割』の絶対条件がクリアされるわね。……でも、中央の無能な理事たちが、この事態をただ指をくわえて見ているはずがないわ」
リーゼロッテはゴスロリのスカートを優雅に翻し、総裁室の隠し扉へと歩みを進めた。
彼女の脳裏には、中央の資本家たちが次に繰り出すであろう、最も卑劣で、最も物理的な「最後の手段」が予見できていた。彼らは市場で勝てないとなれば、最終的に「軍隊(武力)」を使って、ルード王国そのものを地図から消し去ろうとするだろう。
「エレオノーラに変な真似をされる前に、私が直接、あのバカ(レオン)の顔を拝みに行ってあげるわ。……待っていなさい、レオン。私のために、最高のタルトとコーヒーを用意して、その首を洗って待っていることね!」
世界を揺るがす経済戦争は、ついに最高権力者であるリーゼロッテ自身の「お忍び出陣」という、予測不能なカオスへと突入していく。国境が閉ざされた暗黒のルード王国へ向けて、為替の魔女が密かに動き出した――。




