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第9話:お忍び総裁の隠密交渉、あるいは迫り来る魔導騎士団

同盟による物理的な全面経済封鎖エンバゴが発令されてから、丸三日が経過していた。

ルード王国の国境の門は完全に閉ざされ、かつて王都の市場を潤していた同盟の商隊や物流馬車の姿は完全に途絶えた。普通であれば、ここで王国の経済は完全に窒息し、飢えを恐れた民衆が暴動を起こして無血開城へと至るはずだった。エレオノーラの計算は、国家という単位の経済学においては完璧な正論だった。


しかし、王都の闇市場ブラック・マーケットは、信じられないほどの熱気で脈動していた。


「おい、こっちの『精霊織物』は手形三枚だ!」

「南部のギルドから、地下の隠しルート経由で塩が届いたぞ! ゴールドはお断りだ、『精霊手形』を出せ!」


公式の魔導転送陣が遮断された瞬間、トマスはかつてスラムの裏稼業で培ったあらゆる「密輸バイパス」を開放した。同盟中央の税関の監視が届かない古代の地下遺跡、国境の険しい山岳地帯に隠された非公式の魔導陣――そこを通じて、同盟全域の困窮する地方職人たちの物資が、津波のようにルード王国へと流れ込んでいた。

中央のシステムに搾取されていた地方の敗者たちにとって、この封鎖はむしろ「ゴールド経済圏」から完全に脱却し、自分たちの経済を守るための聖戦に他ならなかった。彼らはこぞってゴールドでの決済を拒否し、精霊手形を買い漁った。その結果、手形の流通シェアは驚異的な速度で拡大し、リーゼロッテが突きつけた目標である「同盟全域の一割」まで、あとわずか〇・二%という極限のデッドラインにまで迫っていた。


「……信じられないわ。公式の貿易を止められたのに、手形の価値が暴騰して市場がさらに拡大するなんて」


王都の路地裏、ミュリンの鍛冶工房の裏手で、クロエが魔導通信機のグラフを見つめながら唖然と呟いた。

ミュリンもまた、精霊の刻印を押しすぎて魔力が空っぽになった手を休め、冷たいエールを飲みながらレオンを見上げる。


「レオンの言った通りになったわね。でも、トマスの闇ルートもそろそろ限界よ。同盟の正規の警備兵たちが、地下の遺跡や山岳ルートの捜索を始めたって連絡が来てる」


「ああ、エレオノーラも馬鹿じゃない。すぐにバイパスの出入り口を物理的に塞ぎにくるだろう」

レオンは干し肉を齧りながら、冷めた目で空を見上げた。夕闇が迫る王都の空は、嵐の前の静けさのように不気味に澄み渡っている。


「目標の一割まであと一歩だが、向こうのカードはまだ残っている。経済というルールで勝てないとなれば、奴らは必ず――」


レオンがそこまで言いかけた、その時だった。

工房の前の通りから、何やら尋常ではない騒ぎと、肉を焼く香ばしい匂いが漂ってきた。


「――ちょっと、あなた! この『純金製国家間決済用手形(数億ゴールド相当)』を出していると言っているでしょう! その串焼きを全部、今すぐこの私のソロバン(魔導計算機)の前に並べなさい!」


「ひ、ひえぇっ!? お嬢ちゃん、何言ってんだ! そんな見たこともない金ピカの板を出されても、お釣りなんか出せるわけねえだろ! うちは一本五クローネの串焼き屋だぞ!」


工房のすぐ目と鼻の先にある屋台で、大騒動が起きていた。

レオンたちが路地から顔を出すと、そこにはフードを深く被った小さな少女が、店主に向け、見たこともない純金のプレートを突きつけていた。フードの隙間から覗くのは、豪奢な縦ロールの金髪と、怒りに震える大きな瞳。


「な、何よそのマヌケな顔は! 小銭の計算なんて帳簿の数字デジタル以外でやったことないのよ! 重いし汚いし、銅貨なんて触りたくもないわ! いいからそれを全部よこしなさい、お腹が空いて為替の計算が狂いそうなのよ!」


「おいおい……」

レオンは深く深く溜息をつくと、スタスタと歩み寄り、少女の首根っこを子猫のようにひょいと掴み上げた。


「な、何をするのよ、不敬者……って、レオン!?」


「お忍びの偵察(お散歩)の最中に、串焼き一本で自爆する国家最高権力者がどこにいる、このバカ」

レオンは手慣れた手つきでポケットから五クローネ硬貨を店主に投げ、少女の口に焼き立ての串焼きを一本突っ込んだ。


「むぐっ!? ……ん、んんぅっ!?(モグモグ)……タレが、甘辛くて、ジャンクなのに絶妙な配合比率……じゃなくて! 離しなさい、レオン!」


フードが脱げ、現れたのはルード王国を経済的に絞め殺そうとしていた張本人――大陸中央銀行総裁、リーゼロッテ・フォン・ゴールドベルクその人だった。

ミュリンとクロエは、あまりの衝撃に言葉を失い、完全にフリーズしている。


「レ、レオン……その子、まさか画面に映ってた、あの『為替の魔女』……!?」

ミュリンの指がガタガタと震える。


「ああ。世界一有能で、世界一買い物のセンスが無い合法ロリ総裁だ。……とりあえず、ここでは目立つ。工房の中に入れ」


ミュリンの工房の奥、精霊炉の熱気が残る作業場に、リーゼロッテは不機嫌そうに座っていた。

その口元には、先ほどの串焼きのタレがうっすらと付着している。レオンが差し出した冷たい水を一気に飲み干すと、彼女はふん、と鼻を鳴らしてレオンを睨みつけた。


「相変わらずの無礼な扱いね、レオン。私がその気になれば、あなたを市場流動性阻害罪で今すぐ終身刑にできるのよ」


「よく言うぜ。わざわざ総裁室を空けて、こんな辺境までお忍びでやってきた理由は何だ? まさか、お釣りの計算を習いに来たわけじゃないだろ」

レオンが腕を組んで問い詰める。


リーゼロッテは一瞬だけ耳を真っ赤にし、視線を泳がせた。

「それは……ルード王国の『精霊資源』の検収を、より厳密に行うための現地視察フィールドワークよ。決して、あのハチミツタルトの焼き立てが食べたくて、居ても立ってもいられなくなったわけじゃないわ。……それはそれとして、レオン」


リーゼロッテの表情から、急に子供っぽさが消えた。

三百年の時を生きたエルフの、そして世界の金融を統べるトップとしての、底知れない冷徹な光がその双眸に宿る。


「エレオノーラの経済封鎖を逆手に取ったゲリラ通貨の国際化。……お見事だったわ。手形のシェアは現在、九・八%。私の出した『一割』の絶対条件まで、あと本当にわずかよ。……でも、だからこそ、もう時間が無いの」


「時間が無い?」

クロエが怪訝そうに尋ねる。


「同盟の常任理事会(お上の資本家ども)が、ついに痺れを切らしたわ。市場ルールで勝てない、経済封鎖でも潰せないとなれば、あの強欲な老人たちが次に繰り出す手段は一つしかないのよ」


リーゼロッテはソロバンを強く握り締め、レオンの目を真っ直ぐに見つめた。


「――『魔導騎士団』の派遣が、正式に決定されたわ。同盟直轄の第一から第三騎士団、総勢三万の兵力が、ルード王国を物理的に消去するために、すでにこちらへ向けて進軍を開始している。……三十日の猶予なんて、最初から無かったのよ」


「な……軍隊ですって!?」

ミュリンが息を呑み、クロエの顔から一瞬で血の気が引いた。


どれだけ経済のルールで勝とうとも、相手がルールそのものを物理的な武力で破壊しにくるのであれば、すべての計算は無意味に帰す。グローバリズムの最終兵器――それは、圧倒的な軍事力による市場の「強制執行」だった。


リーゼロッテはレオンの服の袖を、きゅっと小さな手で掴んだ。


「レオン、もうお終いよ。私のシステムすら、あの暴力の前に一時的に凍結されたわ。騎士団が国境に到達するまで、あと、わずか二十四時間(千四百四十分)。……今度こそ本当に、この国は買い叩かれるどころか、灰になるわよ。どうするの……?」


迫り来る物理的な滅亡のカウントダウン。

金融の魔女がもたらした絶望の報告に対し、レオンはただ静かに、自身のポケットの奥にある『特級交渉人』のバッジを握り締めていた――。

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