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第6話:タイムリミットは六十分、総裁の愛した「非効率」

「六十分……! 冗談じゃねえぞ、あと一時間で五千億ゴールドの現物をどこから用意しろってんだ!」


トマスが狂ったように自身の髪を掻きむしり、魔導計算機を地面に叩きつけた。

大陸中央銀行総裁、リーゼロッテ・フォン・ゴールドベルク。その幼き金融の魔女が放った理不尽な「即時償還」の通達は、ルード王国が辛うじて繋ぎ止めた希望の糸を、根元から断ち切るに十分な破壊力を持っていた。


通常、国際法において国債の償還期限を一方的に前倒しすることは許されない。だが、大陸の基軸通貨である『ゴールド』の発行権を独占する中央銀行と、その頂点に君臨するゴールドベルク家の権力は、既存の法律すら容易に書き換える。彼らが「ルード王国の不穏な経済破綻の兆候」を理由にリスク管理を主張すれば、それが国際社会の新たな正義となってしまうのが、グローバリズムという名の権力構造の冷酷な現実だった。


「五千億ゴールドなんて、この国の金山をすべてひっくり返したって、百年かかっても出ない量よ……っ」


クロエが唇を血が出るほどに噛み締め、悔しさに身を震わせる。

ミュリンが発行した『精霊手形』によって、民間の市場は辛うじて落ち着きを取り戻しつつあった。しかし、国家そのものが「五千億ゴールドの不渡り」を出してデフォルトすれば、その瞬間に王国の全土は同盟の管理下に置かれ、民間の経済圏もろとも強制的に解体される。商品本位制というゲリラ戦術が実を結ぶ前に、根幹の国家という土台を消し去る――リーゼロッテの指し手は、冷徹なまでに迅速で、完璧だった。


「慌てるな、トマス。クロエも、ミュリンもだ」


絶望が広場を支配する中、レオンだけは一人、静かに思考の海に沈んでいた。

草臥れた外套のポケットに手を突っ込み、絶え間なく明滅する電光掲示板の数字を凝視する。彼の頭脳は、かつて同盟の最前線で数々の国家を救い、あるいは解体してきた特級交渉人としての記憶を、凄まじい速度で検索していた。


「リーゼロッテの狙いは、この国を物理的に滅ぼすことじゃない。そんなことをすれば、ルード王国に眠る貴重な精霊資源もろとも市場が死ぬ。あいつの真の目的は、この国を『一刻も早く、自分の管理下に置くこと』だ。だからこそ、通常のルールを曲げてまで、こんな強硬手段に出てきている」


「だけど、現物の金がないのは事実よ!? どうやってあのロリ総裁を納得させるのよ!」


ミュリンの悲痛な叫びに対し、レオンは不敵な笑みを浮かべ、懐から一冊の小さな手帳を取り出した。それは、彼が同盟を辞める際に持ち出した、中央銀行の最高機密規約集の写しだった。


「ゴールドベルク家が作った金融システムには、一見すると完璧に見えるが、実は一箇所だけ『法的な抜け穴』が存在する。……同盟中央銀行特別規約・第十二条。――債務国が急激な流動性危機に陥り、かつ現物金の即時償還を要求された場合、国家は『同等の資産価値を持つ固有資源』を、総裁が『直接検収』することを条件に、代位弁済として一時預託できる」


「代位弁済……? つまり、金の代わりに別のモノを収めてもいいってことか?」


トマスが涙目のまま、算盤を握り直してレオンの顔を見上げた。


「そうだ。だが、それには条件がある。総裁であるリーゼロッテ・フォン・ゴールドベルク本人が、その資源に『五千億ゴールド以上の価値がある』と直接認め、検収書にサインをしなければならない。普通の特産品じゃ、あいつは鼻で笑って終わりさ。何せ、世界中の富を見てきた女だからな。……だが、あいつが絶対にNOと言えない『例外』が、この国にはある」


レオンはクロエとミュリンの二人を交互に見つめ、その口元をさらに吊り上げた。


「クロエ、お前の農場の倉庫に、去年の秋に収穫して厳重に保管してある『精霊ハチミツ』と、完熟の『精霊イチゴのコンフィチュール』はまだ残っているな?」


「え? ええ、あるけど……あれは市場に出さずに、うちの家宝として取ってある最高級品よ。それが何だって言うの?」


「ミュリン、お前はその最高級の素材を使って、今から三十分以内に、お前の工房の精霊炉で『特製精霊ハチミツのタルト』を焼き上げろ。普通のオーブンじゃダメだ。精霊の魔力を極限まで注ぎ込み、一口食べただけで脳の細胞が半分溶けるような、非効率の極みみたいな極上のお菓子を作るんだ」


「は、はあ!? この国家存亡の危機に、お菓子作りをしろって言うの!?」


ミュリンとクロエが同時に素っ頓狂な声を上げた。国家の命運を懸けた五千億ゴールドの戦争の最中に、タルトを焼くなど、正気の沙汰とは思えない。


「いいからやれ。時間が無い。……トマス、お前はギルドの転送陣を使って、王宮の地下にある『中央銀行出張所』の通信回線を強引にジャックしろ。あいつらは金庫を物理的に閉鎖して立てこもっているはずだが、同盟の回線が生きていれば、リーゼロッテの専用端末へ直接映像を繋ぐことができる」


「分かった、やってやるよ! もう破れかぶれだ!」


トマスが私兵を率いて王宮へと走り出す。

レオンの言葉には、確信があった。誰も知らないリーゼロッテ・フォン・ゴールドベルクの真実――すべての非効率を排除し、世界を数字で管理しようとする彼女自身が、実は「その土地の職人が手作りした、再現不可能な最高級スイーツ」の重度の限界オタクであるという事実を、元右腕であるレオンだけは熟知していた。


彼女が推進するグローバリズムは、世界を豊かにするためのシステムだ。しかし、そのシステムが行き着く先にある「均一化された味気ない世界」を、彼女自身が誰よりも恐れ、退屈している。だからこそ、彼女はルード王国の不便で非効率な、だが圧倒的な輝きを持つ「ローカルの価値」を、誰よりも愛し、惜しんでいた。


「お前がルールなら、俺はそのルールの裏にある、お前の『本音』と交渉してやるさ、リーゼロッテ」


レオンは静かに呟き、ミュリンの工房へと向かって走り出した。


タイムリミットまで、残り十五分。

王宮の地下深く、重厚な鉄扉で閉鎖された大陸中央銀行ルード出張所の前で、レオンたちは立っていた。トマスの手際によって、扉の横にある魔導通信端末の画面には、すでにリーゼロッテの姿が映し出されている。


画面の向こうのリーゼロッテは、冷徹な女王の仮面を被ったまま、手元のソロバンの珠を弾いていた。だが、レオンたちが持ってきた「ある物」を目にした瞬間、その指先が微かに震えた。


「――お待たせ、総裁閣下。五千億ゴールドの国債に対する、代位弁済の現物を持ってきたぞ」


レオンが提示したのは、金塊ではない。

ミュリンが精霊炉の烈火で焼き上げ、クロエの最高級イチゴとハチミツを惜しみなく注ぎ込んだ、未だ湯気の立つ『特製精霊ハチミツのタルト』だった。

魔導カメラを通じて送信される、黄金色の生地の質感と、精霊力の残留濃度を示す淡い緑色の輝き。それは、中央の大量生産ラインでは絶対に出せない、究極の非効率が産んだ芸術品だった。


『……な、何よそれ。レオン、私を愚弄するのも大概になさい。私が要求したのは現物のゴールドであって、そんな得体の知れない糖分の塊では――』


「嘘をつくなよ、リーゼロッテ。お前の喉が、さっきから鳴っているのがここまで聞こえるぞ」


レオンは通信機のレンズに向かって、タルトをさらに近づけた。


「同盟特別規約・第十二条に基づき、この『ルード王国固有の精霊資源製品』を担保として提出する。お前がこれを検収し、五千億ゴールドの価値があると認めれば、この国のデフォルトは回避される。……お前がこの国を強引に買い叩こうとしたのは、同盟の無能な上層部が、この素晴らしいイチゴや小麦の農場を『非効率だから』という理由で更地にしようとしたからだろ。だったら、お前自身の舌で、この国の価値を証明してみせろ!」


『レ、レオン……お前って奴は……っ!』


画面の向こうで、リーゼロッテの冷徹な仮面が完全に崩壊した。

彼女の耳は真っ赤に染まり、双眸はタルトの美しさに完全に釘付けになっていた。よだれを堪えるように小さな手を口元に当て、ゴスロリの衣装を激しく揺らす。

すべてを数字で管理する彼女が、唯一、計算を狂わされる瞬間がそこにあった。


『あ、あり得ないわ……。そのマナの配合比率、そして職人の手技……。それは、システムに従わない歪み(ローカル)の極み……。……ん、んんっ! 勘違いしないでよね! 私はただ、正当な経済価値を測定するために、一時的にその担保の価値を認めるだけなんだから!』


「じゃあ、検収書にサインをしてくれるんだな?」


レオンが不敵に微笑んだ、その時だった。

リーゼロッテはハッと我に返ると、急にその表情を、今まで以上の深い憂いと冷徹さを帯びたものへと戻した。


『……ダメよ、レオン。私の個人的な検収しゅみだけで、中央の監査部を黙らせることはできないわ。このタルトがどれだけ素晴らしくても、それは「今ここにある一本」に過ぎない。経済とは、持続的な循環フローなのよ』


リーゼロッテはソロバンを強く握り締め、画面越しにレオンを真っ直ぐに見つめた。その瞳には、甘党の少女ではなく、世界の経済を背負う総裁としての、重く残酷な覚悟が宿っていた。


『これほどの価値を生み出せるなら、条件を上乗せするわ。ルード王国がデフォルトを免れたければ、三十日以内に、この精霊資源を使った新通貨の流通総額を、同盟全域の市場の「一割」にまで拡大させなさい。……それができなければ、私はあなたごと、この国を今度こそ本当に買い叩くわよ』


タイムリミットは回避された。しかし、金融の魔女が突きつけてきたのは、一地方の防衛戦から、大陸全土の市場を巻き込む「全域規模のシェア争奪戦」という、さらに気が遠くなるような超難題の第2ラウンドだった。

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