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第32話:特異点的投資家(アノマリー)、あるいは神との両建て

レオン・ヴァルハイトの消えかける右手の指先が、多元宇宙最高経済議会の第一席――創世の巫女プライマリーの目と鼻の先で、ぴたりと静止した。

その刹那、感情を持たないはずの絶対神のガラスのような両眸に、これまで数億年の銀河の歴史の中で一度として記録されたことのない、激しい「ノイズ(不規則な乱れ)」が生じた。


キィィィィィン――。


空間全体を支配していた、世界の因果を司る巨大な黄金の歯車群が、引き裂かれるような高周波の摩擦音を立てて完全に停止した。

それに伴い、リーゼロッテたちの身体が光の塵へと分解されかけていた現象も、宙に浮かぶ天文学的な光の数字の羅列も、まるで分厚い氷の中に閉じ込められたかのように、その動きを完全に静止させる。この『原初資本のグランド・ゼロ・キャピタル』における時間の概念そのものが、神の動揺によって強制的にストップさせられたのだ。


その絶対的な静寂と静止の世界の中で、床に平伏していたレディ・オセアニアの意識だけが、現在の空間から切り離され、数万宇宙年分もの遥か遠い過去の記憶――「ある回想」の深淵へと引きずり戻されていった。


数万宇宙年前、まだ最高経済議会の第十三席へと昇格したばかりの若きレディ・オセアニアは、自身の底知れない野心と、手に入れたばかりの莫大なマナ資本の力に酔いしれていた。

彼女が初めてこの絶対零度の資本主義の聖域に足を踏み入れ、第一席であるプライマリーと謁見した時の記憶が、鮮明な情景として蘇る。当時のオセアニアは、完璧に統治された公社の規律こそが、全宇宙の富を永遠に拡大させる唯一の真理だと信じて疑わなかった。しかし、玉座に座る少女の姿をした絶対神は、その時も今と変わらぬ無機質な瞳で、終わりのない宇宙の帳簿をただ静めに見つめていたのだ。


「オセアニア。あなたは、この市場が永遠に最適化され、拡大を続けると信じていますか?」

少女の問いに、若きオセアニアは誇らしげに胸を張って答えた。

「当然です、プライマリー様。我々議会の厳格なガバナンスと、公社の完璧な市場管理があれば、不確定要素は排除され、富は無限に増大し続けますわ」


だが、絶対神は悲しいほどに冷酷な首を横に振った。

「それは間違いです。完璧に最適化され、誰も予測を外さなくなった市場は、最も重要な『不確実性スリル』を失います。リスクの存在しない市場に投資の価値はなく、いずれ経済的な成長は完全に停止して死に至る。それこそが、私の演算が導き出した最悪の終着点――『市場の熱的死エンド・オブ・トレード』です」


完璧すぎるがゆえに、市場そのものが自滅する。そのあまりにも壮大で理不尽な絶望を語るプライマリーは、手に持った黄金の鍵を弄びながら、静かに言葉を続けた。

「だからこそ、私はこの完璧な檻を内側からハメ殺し、ルールを逆手に取って私に『想定外の損失』を与えてくれる、本物のバグ――『特異点的投資家アノマリー』が市場の底から現れるのを待っているのです。もしそんな者が現れたなら、私は喜んで自分の席(第一席)すらも譲りましょう」


その神の歪んだ、しかしあまりにも純粋な「飢え」を知った時、オセアニアの背筋には冷たい戦慄が走った。しかし同時に、最高のエンターテインメントの予感に、彼女の商人の血が激しくたぎったのを、彼女は今でも鮮明に覚えていた。

「面白いですね、プライマリー様。では、もしそのようなアノマリーが歴史の歪みから這い上がってきたなら、私はその男の最初のパトロンになり、喜んで議会の席すらも賭け金にして差し上げますわ」


二人の間で交わされた、数万年前の秘密の密約。それこそが、オセアニアがこれまでレオンの型破りな経済無双を裏で黙認し、面白がって支援してきた真の理由だった。


ハッと意識が現実へと戻り、レディ・オセアニアは自分がまだ原始惑星の土の上に平伏していることに気付いた。

同時に、静止していた黄金の歯車が再び轟音を立てて回り始め、この世界の時間が激しく動き出す。プライマリーは、レオンの獰猛な視線を正面から受け止め、その感情のないはずの唇の端を、かすかに、だが確実に釣り上げて冷酷に微笑んだ。


『いいでしょう、レオン・ヴァルハイト。あなたがそのバグの正当性を、市場の数字で証明してみせなさい』


神の承認が下りた瞬間、リーゼロッテたちの存在消滅へのカウントダウンが再び加速し、彼女たちの身体の輪郭が本格的に黄金の光の数字へと分解され始めた。

だが、レオンは自分の足元がじわじわと透けていくのを見ても、一切動じなかった。彼は、神が提示した『因果の信用取引レバレッジ・カルマ』というルールの本質を、一瞬にして自らの牙へと作り替えていたのだ。


「お嬢様、ルチア、ミュリン、クロエ。少しだけ身体が軽くなるが、俺の相場ディールを信じてそのまま突っ立っていろ」

レオンはポケットから奪い取ったステラの電子端末へと、自身の消えかける指先を猛烈な速度で叩きつけ始めた。


「プライマリー。お前は俺たちの世界の歴史や存在確率を『担保』として市場に強制上場した。……ならば、上場された商品である以上、それを市場のルールでどう扱おうが、筆頭株主である俺の自由だな?」

『法的にはその通りです。ですが、買い支えるための資本マナがあなたにはありません。そのまま時間切れで上場廃止(消滅)です』

「買い支える? ハッ、誰がそんな効率の悪い、資本家どもの養分になるような真似をするか」


レオンは冷酷に言い放ち、端末の決済画面のレバレッジ倍率を「無限マックス」へと設定した。


「俺の戦術は最初から一貫している。――『存在の空売り(ショート)』だ。俺は今、この市場にロックされた『レオン・ヴァルハイトとその仲間たちがこの宇宙に存在する確率』そのものを、レバレッジ無限で限界まで売り浴びせる!」


「ええっ!? レ、レオン、自分の命を自分で空売りするっていうの!?」

リーゼロッテが透けかける口元で、驚愕の悲鳴を上げた。

普通、信用取引では自分の所有する資産や世界を守るために「買い」を入れる。しかし、レオンはその真逆を行った。自分が消滅するという「最悪の未来(価格下落)」に対して、自ら全財産と命を燃料にして「空売り」ボタンを連打したのだ。


もし、このままレオンたちが消滅すれば、市場における「レオンたちの存在確率」は完全にゼロになる。すなわち、空売りは大成功を収め、レオンの口座には「神の総資産」を丸ごと巻き上げるだけの天文学的な利益が払い戻されることになる。逆に、神がレオンたちの消滅を止めようとすれば、存在確率は上昇し、レオンの空売りポジションは巨大な含み損を抱えることになるが、それは同時に「レオンたちの存在が法的に完全保証される」ことを意味する。

生きるか死ぬかではない。死んでも神の全財産をスり剥き、生き残れば世界の生存が確定するという、完璧なる「両建てのハメ技」。


これこそが、ルール作成者であるプライマリーすらも想定していなかった、神のシステムそのものを人質に取る特異点的投資家アノマリーの真骨頂だった。


「神様、俺の存在が消える方に、お前の全財産を賭けてみろよ。お前が勝っても負けても、俺はその財布(中央銀行)を敵対的買収テイクオーバーしてやる。……空売り(ショート)開始だ」


レオンの消えかけた親指が、宇宙の因果を揺るがす最終決済ボタンを激しく叩き込んだ。

その瞬間、純金の空間全体が、神の資産とレオンの命を燃料にした、前代未聞の暗黒の暴落チャート(ショートスクイーズ)の渦へと飲み込まれていった――。

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