第22話:零号不渡(プロトタイプ・デフォルト)、あるいは終末の免責手続き
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公社との和解が成立し、勝利の余韻がジャンク・セクターの錆びついた路地裏に広まったのも束の間、ルチアの持つジャンク端末が、鼓膜を突き刺すような異音を立てて爆発寸前まで加熱し始めた。
「嘘……、何これ!? アタシの最高防壁が、一瞬で紙切れみたいに破られて――底から『何か』が上がってくる!」
ルチアが悲鳴を上げると同時に、彼らが立っていた鉄板の床が、激しい地鳴りを立てて歪み始めた。
ハッチの向こう、数百年分の産業廃棄物が堆積していた暗黒の深淵から噴き出してきたのは、先ほどのボイド・マナではない。それは、空間そのものを侵食する「漆黒の数字の暴風」だった。錆びついた数式と二進数の羅列が、まるで生き物のようにのたうち回り、周囲の壁や配管を次々と包み込んでいく。
『そんな……、あり得ません! どうしてあの【遺物】が起動しているのですか……!?』
激しく乱れるホログラム画面の中で、先ほど和解条約を結んだばかりのステラ・ヴァレンタインが、その冷徹な顔を完全に驚愕に染めていた。本社の財務メインフレームは復旧したはずなのに、彼女の端末には、公社の最高機密データベースの最深部から、真っ黒な墨汁を流したようなエラーコードが上書きされ続けている。
「おい、ステラ。あの黒い暴風の正体は何だ? お前たちの仕掛けた罠じゃないな」
レオンが鋭い視線を投げかけると、ステラは眼鏡を落としそうになりながら、狂ったように首を横に振った。
『罠なわけがありません! あれは……我が多元宇宙貿易公社が創業期に開発し、そのあまりの危険性ゆえに歴史から完全に抹消したはずの、自律型終末経済兵器――世界最初の不良債権、コードネーム『零号不渡』です!』
ステラの絶叫と同時に、暴風の一撃が、寝返ったばかりの私兵たちの装甲をかすめた。
次の瞬間、頑強さを誇ったサイバー装甲が、まるで時間が数万年加速したかのように急速に朽ち果て、灰のようになって崩壊した。ヘルメットの隙間から覗く彼らの肌には、「存在債務:一〇〇%」という不気味な黒い刻印が浮かび上がり、彼らは悲鳴を上げる暇もなく、その存在の確率ごと空間から消滅していった。
「な……ッ!? 私兵たちの魔力だけじゃない、存在そのものが消えた……!?」
マクシミリアンが魔導戦車の中で歯を鳴らし、ガタガタと震え始めた。
2
レオンは、眼前に広がる圧倒的な絶望の光景を前に、脳内の帳簿を高速で回転させていた。
ルチアの端末から漏れ出るノイズを解析し、この『零号不渡』――通称、飢餓の終末帳簿『ジ・エンド・オブ・クレジット』の、悍ましきロジックを看破していった。
このバケモノの正体は、物理的な破壊神ではない。公社の創業期、あらゆる世界の資源を最も効率的に略奪するために作られた、「対象の物質や概念を強制的かつ一方的に『債務(借金)』へと変換する」という概念兵器なのだ。
この暴風に触れたものは、その存在価値を「返すあてのない純粋な負債」として定義される。宇宙の法則において、価値がマイナスになった存在は、その場に留まる権利を失う。つまり、未払いのツケを回収されるかのように、存在そのものを根こそぎ公社の原初金庫へと吸い尽くされてしまうのだ。
「ミュリン、クロエ! 手を出すな! そいつに物理的な攻撃は一切通用しない!」
レオンが叫んだが、一歩遅かった。
「そんなの、私のハンマーで叩き壊して――きゃあああッ!?」
ミュリンが放った渾身の魔力一撃は、黒い暴風に触れた瞬間、パチンと虚しく霧散した。それどころか、彼女の自慢のハンマーの頭が、一瞬で錆びついてボロボロと崩れ落ちる。クロエの放った精霊の刃も、暴風に「債務」として美味そうに貪り食われ、逆に敵の数字の嵐を巨大化させる結果に終わった。
「うそ……、私の精霊魔法が、全部『マイナスの数字』に書き換えられていくわ……」
クロエが恐怖に顔を白くし、大鎌を抱えて後退した。
さらに絶望は連鎖する。路地裏に停めてあったリーゼロッテの最高級魔導馬車、そしてルチアの愛車であるジャンクバイクの表面に、黒い数字の群れがびっしりと張り付いた。
「資産価値:著しい毀損」という文字が空間に明滅した瞬間、それらの機械は一瞬で鉄くずへと変わり、サラサラと虚無の砂となって床に消えていった。
「私の……、私の特注の魔導馬車が……! レオン、あれはルード王国の国家予算の半分を投じて作った、私の大切な資産なのよ!? それを、あんな風にノーコストで没収するなんて、法律違反にも程があるわ!」
リーゼロッテが涙を浮かべ、小さな拳を握りしめてレオンの胸元を叩いた。
「ああ、お嬢様。奴には公社の最新法規も、俺たちのハチミツ本位制も通用しない。なぜなら奴自身が、ルールが作られる前に生み出された『経済のブラックホール』そのものだからだ」
3
黒い暴風の中心から、ページをめくるたびに世界を切り裂くような音が響く、巨大な漆黒の「終末帳簿」の幻影が現れた。
すべての存在を借金まみれにして無に還す、原初の厄災。ステラのホログラムもノイズで消えかかり、ルチアのバイパス回線も完全に崩壊寸前。七日間の猶予どころか、あと数分でこのジャンク・セクターごと、彼らの故郷であるルード王国も、存在の権利を剥奪されてデリスティング(消滅)する。
「……いや、まだだ。どんなに強大な借金王だろうが、帳簿の上に存在している以上、必ず『逆張りの出口』はある」
レオン・ヴァルハイトの瞳に、極限の危機においてのみ発火する、冷徹で狂気じみた交渉人の光が宿った。
「レオン……? あなた、あの世界を滅ぼす帳簿を相手に、まだ何か仕掛けるつもりなの?」
リーゼロッテが息を呑み、彼の顔を見上げた。
「ああ。奴のロジックが『すべての存在を債務に変えて回収する』ことなら、それを合法的に無効化する手段は一つしかない。――倒すんじゃない。こちらから奴に対して、【世界規模の自己破産(概念的自己破産)】を申請するんだよ」
「じ、自己破産ぉ!?」
ルチアが目玉を飛び出さんばかりにして叫んだ。
「そうだ。自己破産が裁判所に認められれば、すべての債務は『免責』され、一瞬でゼロになる。奴がいくら『借金を返せ』と存在を貪ろうとしても、法的に債務そのものが消滅してしまえば、回収を存在意義とする『零号不渡』は帳簿上の定義を失い、自縄自縛で勝手に消滅するしかない」
レオンは、これまで懐に溜め込んできた、ルード王国、地方都市、そして商工同盟から勝ち取ってきたすべての『精霊手形』の束を、天高く掲げた。それらは、彼らがこれまで経済を回し、人々の信頼を繋いできた、いわばこの世界の「総資産」の結晶だった。
「ただし、この規模の破産(免責)を申請するには、法的な保証金が必要だ。……お嬢様、そしてミュリン、クロエ。俺たちのこれまでの稼ぎ、ルード王国の未来、そしてこの世界が持つすべての信用を、一度限界まであのバケモノの前に担保として投げ出す必要がある。失敗すれば、本当にすべてがゼロになる。……俺に、全財産(世界)を賭ける許可をいただけますか?」
レオンは不敵に笑い、仲間の顔を見渡した。
すべてを飲み込む飢餓の終末帳簿の前に、自分たちのすべての価値を投げ出すという、前代未聞の「超巨大債務整理」。
リーゼロッテは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに不敵な、いつもの『為替の魔女』の笑みを取り戻した。
「ふん、いいわよレオン! 私の全財産も、ルード王国の未来も、全部あんたに投資してあげる! その代わり、あの生意気な帳簿を絶対に破産させてきなさい!」
「任せてください、お嬢様。――さあ、開廷だ。原初の借金王、俺たちの破産申立書を受け取ってもらおうか!」
レオンが精霊手形を虚空へと叩きつけた瞬間、黄金の光が漆黒の暴風へと真正面から激突し、世界を賭けた最終審判の幕が上がった――。




