第2話:ローカルの逆襲、あるいは元エリートの流儀
1
暴走する巨獣の群れに対し、人間が量産された鉄クズを手に悲鳴を上げる中、レオンの身体は信じられないほどの軽やかさで戦場を駆けていた。
その手に握られているのは、ミュリンが鍛え上げた一振りの精霊剣。淡い新緑の輝きを放つ刀身は、まるで呼吸をするかのように、周囲の大気から濃厚な魔力を吸い上げていた。
ルード王国は、大陸中央に比べて精霊の濃度が異常に高い。
同盟が持ち込んだ『標準鉄剣』は、魔力の薄い中央平原で効率よく作動するように、極小の魔術回路が緻密に組み込まれた精密機械のようなものだった。いわば、電圧の異なるコンセントに無理やり高級家電を繋いだような状態であり、過電流によって回路が内側から焼き切れたのが、先ほどの集団損壊の真相である。
対して、ミュリンの剣は違う。
地元の風の精霊と契約を交わし、その力を受け入れるための「器」として設計されたこの剣は、周囲の精霊力が強ければ強いほど、その構造を強固にし、切れ味を増す。
「ガアアアアッ!」
眼前に迫る、体重数トンはあるだろう岩石猪。
並の鉄剣を噛み砕く硬質の皮膚を持つ魔獣に対し、レオンは恐れることなく、真っ直ぐに踏み込んだ。外套を大きくはためかせ、吸い付くような動作で下段から剣を振り上げる。
「――『交渉』の余地なし、だ」
緑の閃光が、夕闇の迫る広場を鋭く切り裂いた。
次の瞬間、兵士たちの剣をことごとくへし折った魔獣の堅牢な突進が、一筋の光によって真っ二つに両断される。鮮血が舞うよりも早く、風の刃が傷口を圧搾し、巨躯は地響きを立てて左右に転がった。
「な……一撃……!?」
「あいつ、あの魔獣をたった一本の剣で斬り伏せやがったぞ!」
逃げ惑っていた民衆や、腰を抜かしていた兵士たちが、信じられないものを見る目でレオンを凝視する。
しかし、レオンに浸っている暇はなかった。群れのリーダーとおぼしき、一際巨大な『結晶岩石猪』が、背中の鉱石を発光させながら、明確な殺意を宿してレオンを睨み据えたからだ。
2
ステージの上で、エレオノーラは手すりに身を乗り出し、その戦いを目に焼き付けていた。
彼女の頭脳は、今起きている現象を冷静に分析しようとフル回転していたが、目の前の光景は同盟の『経済学』や『標準魔導理論』の枠組みを完全に逸脱していた。
「信じられません……。あの大気中の乱れたマナを、あのような不規則な術式で制御するなんて。計算が、理論が合いません。あれはいったい、どこの工房の……」
そこまで呟き、エレオノーラはハッと息を呑んだ。
魔獣の巨体を受け流し、最小限の動きで急所を的確に貫いていくあの独特の身のこなし。無駄を極限まで削ぎ落とし、環境を味方につける戦術。彼女は、その戦い方を知っていた。否、かつて同盟の研修施設で、伝説的な教科書として何度もその映像を見せられていたのだ。
「まさか……あの外套の男……。三年前に同盟の特級交渉人の地位を捨て、数千億クローネの予算と共に姿を消した――『経済の魔術師』、レオン・ヴァルハイト……!?」
その驚愕の声は、魔獣の咆哮にかき消された。
結晶岩石猪が咆哮を上げると、周囲の地面から無数の鋭利な岩のトゲが突き出し、レオンの退路を完全に塞ぐ。同時に、その巨体が弾丸のような速度でレオンへと肉薄した。
流石にこれをまともに受ければ、精霊剣が無事でも人間の肉体がもたない。
路地裏で見守るミュリンが、思わず悲鳴のような声を上げた。
「レオン! その剣の柄頭にある緑の魔石を押し込んで! 風の精霊が、あんたの道を拓くから!」
「――了解だ、職人!」
レオンは即座に親指で魔石を起動した。
刹那、剣の刀身から猛烈な暴風が噴出し、レオンの身体を真上へと押し上げた。跳躍というよりは、風の力による強引な浮揚。結晶岩石猪の突進はレオンの足元を虚しく通り抜け、背後の防壁へと激突する。
空中、重力に従って落下するレオンは、逆さの体勢のまま、精霊剣を両手で構えた。
周囲の濃厚な風の精霊たちが、ミュリンの打った美しい刀身に集い、巨大な光の刃を形成していく。それは、その土地を愛し、土地に生かされた者だけが放てる、固有の「力」だった。
「これでお終いだ。――市場から退場しろ」
落下の勢いを全て乗せた一撃が、結晶岩石猪の脳天にある、もっとも硬質な結晶へと突き立てられた。
凄まじい衝撃波が広場を駆け抜け、結晶が粉々に砕け散る。魔獣の巨体は一度だけ大きく痙攣すると、そのまま光の粒子となって霧散し、ルード王国の大地へと還っていった。
3
静寂が、広場を支配した。
先ほどまでの絶望的なパニックが嘘のように、魔獣の群れは完全に沈黙し、生き残った個体も脱兎のごとく城外へと逃げ去っていく。
人々が最初に見つめたのは、同盟の『標準鉄剣』の残骸だった。地面に転がる、へし折れて錆び付いた銀色の鉄クズ。次に人々が視線を向けたのは、レオンの手の中で、未だに美しい新緑の残光を放っているミュリンの剣だった。
「……あれが、伝統の精霊剣か?」
「同盟の剣は役に立たなかった。俺たちを守ってくれたのは、あの泥塗れの剣だ……!」
小さな囁きが、やがて大きな地鳴りのような歓声へと変わっていく。
それは同盟が持ち込んだ「安さの神話」が崩壊し、人々が自分たちの足元にある「伝統の価値」を思い出した瞬間でもあった。
レオンは静かに剣を鞘に収めると、路地裏から駆けてきたミュリンへと手渡した。
「返すよ、お嬢さん。最高の剣だった。あんたの勝ちだ」
「……バカ。戦ったのはあんたでしょ。でも、ありがとう……私の剣が、間違ってないって証明してくれて」
ミュリンは剣を抱きしめ、今度は嬉し涙を浮かべて微笑んだ。
だが、その感動的な余韻を切り裂くように、硬い靴音が近づいてくる。
「素晴らしい手際でした、レオン・ヴァルハイト先輩。……いえ、今はただの『無職』とお呼びすべきでしょうか」
白手袋を鳴らしながら歩み寄ってきたのは、エレオノーラだった。その瞳には、先ほどの動揺は一切なく、冷徹な経済官僚としての光が宿っている。
「やはり、あなたが裏で糸を引いていたのですね。この国の関税撤廃を拒み、我が同盟の市場統合に抵抗する、頑固な悪霊の正体があなただとは」
「人聞きが悪いな、エレオノーラ。俺はただ、美味い干し肉と美味い酒を求めて旅をしていただけさ。それを、お前たちが不味い量産品で台無しにしようとするから、少しばかりアドバイスをしたに過ぎない」
レオンは肩をすくめ、エレオノーラの視線を受け流した。
エレオノーラはフッと冷ややかな笑みを浮かべ、レオンと、その後ろに立つミュリンを交互に見据える。
「今回の魔導干渉による製品の破損は、我が同盟の予期せぬ過失です。認めましょう。ですが……これで勝ったと思わないことです。我が同盟の武器は、何も『魔法剣』だけではないのですから」
彼女がパチンと指を鳴らすと、背後の魔導スクリーンに、新たな数字が映し出された。
それは、ルード王国の基幹産業である「農業」に関する、恐るべき統計データだった。
「明日より、同盟全域から『魔導品種改良ジャガイモ』および『高速栽培小麦』を、現在の市場価格の『三分の一』でこの国に投入します。防げますか、先輩? 剣は一振りの誇りで戦えても、人間の胃袋は、毎日の『価格』に支配されているのですよ」
エレオノーラは勝利を確信した笑みを残し、護衛と共に馬車へと乗り込んでいった。
宣戦布告。同盟の本質は、武力ではなく、この圧倒的な「物量と資本」による兵糧攻めにある。
「三分の一……? そんなの、うちの村の農家はみんな干からびちゃうわよ……!」
ミュリンが顔を青くしてレオンを見上げる。
しかし、レオンは慌てる風もなく、去り行く馬車を見つめながら、不敵に口元を歪めていた。
「面白い。食糧主権の乗っ取りか……。いいだろうエレオノーラ、その勝負、受けて立つさ。――おい、ミュリン。明日から忙しくなるぞ。まずは、この国で一番『頑固で過激な農家の娘』をスカウトしに行く」
グローバリズムの巨大な波に対し、元エリート交渉人と辺境の職人たちが仕掛ける、前代未聞の「経済戦争」。その本格的な火蓋が、今、切って落とされようとしていた。




