第17話:法的猶予の七日間、あるいは裏口からのハッカー
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ステラ・ヴァレンタインが手元の電子帳簿に細い指先を滑らせた瞬間、国境の台地は、無機質で残酷な青いグリッド線によって完全に包囲された。
それは魔術による物理的な破壊ではない。世界そのものを「無価値なデータ」として定義し、存在の権利を剥奪する、多元宇宙貿易公社の絶対的な法権力――強制凍結だった。
グリッド線が触れた箇所から、世界は急速に色を失い、灰色の一時停止状態へと陥っていく。
ミュリンが命よりも大切にしている超巨大精霊炉の炎は、熱を失ったまま静止した立体映像のようになり、クロエの足元に広がっていた瑞々しい薬草の畑は、デジタルの砂嵐となってグレーアウトしていった。兵士たちの歓声は喉の奥で凍りつき、彼らの身体の輪郭には「資産価値:凍結中」という忌々しい発光文字が浮かび上がる。
「私の……、私の精霊炉が……。動かない、精霊たちの声が聞こえなくなっちゃった……!」
ミュリンがハンマーを握りしめたまま、絶望に声を震わせた。クロエもまた、自分の身体が徐々にデータ化していく感覚に、恐怖で大鎌を落としそうになっていた。
「無駄よ、ミュリン、クロエ。……抗うだけエネルギーの無駄だわ」
リーゼロッテが自身の小さな手を眺めながら、自嘲気味に呟いた。その指先もまた、青いグリッド線に侵食され、ポリゴンのように透け始めている。
「これが、世界の外側のルール。どんなに為替を動かそうが、どんなに実物資産の価値を高めようが、元締めの親会社(公社)が『その市場は上場廃止だ』と一言サインすれば、すべては一瞬でゼロに書き換えられる。私たちは最初から、勝てないゲームをさせられていたのよ……」
魔導戦車の上で崩れ落ちていたマクシミリアンも、虚ろな目で空を見上げていた。
「クスクス……。一〇〇%の最適化の果てが、これか。私たちは、より高次元の資本家たちが退屈しのぎに転がす、ただの末端の使い捨てセクターに過ぎなかったのだ……」
戦場全体を覆う、底きれぬ無力感。
スーツ姿の有能美女が放つ圧倒的な「法の重圧」の前に、誰もがひざまずき、世界の終わりを受け入れようとしていた。
だが、その凍りついた灰色の世界の中で、ただ一人、外套のポケットに手を突っ込んだまま、ステラを真っ直ぐに見据えている男がいた。レオン・ヴァルハイトである。彼の身体の周囲だけは、なぜか青いグリッド線が侵入できず、パチパチと弾け飛んでいた。
2
「執行役員ステラ。……お前の言う『多元宇宙間独占禁止法』の適用だが、一つ重大な手続き上のエラーがあるぞ」
レオンの静かだが通る声が、フリーズした戦場に響き渡った。
ステラは電子帳簿から顔を上げ、眼鏡の奥の冷徹な瞳でレオンを凝視した。彼女の背後にある次元の裂け目からは、未だに不気味な電子アラート音が鳴り響いている。
「……エラー、ですか? 現地人の分際で、我が公社のコンプライアンスに口を挟むつもりですか、レオン・ヴァルハイト」
「口を挟むさ。俺は元・同盟の特級交渉人だ。同盟が親会社(お前たち)と交わした古い基本規約書(フランチャイズ契約)の裏ページまで、全て頭に叩き込んでいる」
レオンは懐から、先ほど拾い上げた『漆黒の契約書』をステラに向けて突きつけ、フリーズした世界を法的に解凍するための、極めて緻密な逆張りロジックを展開し始めた。
ステラの言う「独占禁止法」や「強制凍結」が合法的に執行できるのは、対象となる世界が、公社の完全な支配下にある『末端市場』である場合に限られる。しかし、先ほどのハチミツ本位制によるバーストによって、公社の子会社であった商工魔導同盟は完全に「自己破産」した。そして、その破産した同盟のすべての債権と、市場の統治権は、敵対的買収によってルード王国の『精霊手形経済圏』が正式に取得している。
「つまり、現在のこの世界は、お前たちの下請け店舗じゃない。公社に対して巨額の不渡り手形と、子会社の焦げ付きを突きつけている『独立した外部の大債権者』だ」
レオンは一歩、ステラに向けて踏み出した。彼の足元から、黄金の手形の魔力が波紋のように広がり、青いグリッド線を押し返していく。
「多元宇宙商業法・第三百四条。独立した外部債権者に対し、親会社の内部規定(独禁法)を一方的に適用して資産を無償没収することは、公社自身の最高コンプライアンスに対する明白な『優越的地位の乱用』および『不当な債務逃れ』に該当する。……監査官、お前が今ここで強制凍結を執行すれば、お前自身が本社の最高裁判所から『違法監査』の罪で更迭され、全資産を没収されて永久クビになるぞ。さあ、サインを続けてみろ」
ピピッ、ピピピピピピッ――!!!
次の瞬間、ステラが持っていた電子帳簿から、それまで聞いたこともないような甲高い警告音が鳴り響いた。半透明の画面に表示されていた「凍結執行」の文字が激しく点滅し、一瞬で『法的整合性エラー:執行一時停止』という真っ赤な文字へと上書きされたのだ。
3
「な……、どういうことですか、これは……!?」
ステラの冷徹だった美貌が、初めて屈辱と驚愕によって激しく歪んだ。彼女の長い指先が、エラーを吐き続ける電子帳簿の上で何度もフリーズする。監査システムそのものが、レオンの指摘した「違法性のリスク」を完全に検知し、これ以上の執行を自動的にロックしてしまったのだ。
「未開の世界の原住民が、なぜ本社の、それも最高法規の裏コードを知っているのですか……!」
「言っただろ、お前たちの帳簿はすべて頭に入っていると。お前たちが『法』というシステムで縛ってくるなら、俺はそのシステムの『バグ(脆弱性)』を突いてお前たちをハメ殺すだけだ」
レオンは不敵に微笑み、外套のポケットから手を抜いた。
ステラは激しい屈辱に震えながらも、上級執行役員としての冷酷な合理性を取り戻すべく、深く息を吐いて眼鏡の位置を直した。
「……認めざるを得ませんね。確かに、現在のこのセクターは法的な『グレーゾーン』にあります。ですが、執行が完全に中止されたわけではありません。法的整合性の再審査のために、あなた方に与えられる猶予は最長で『七日間(百六十八時間)』です」
ステラは冷たい視線をレオンへと突き刺した。
「一週間後、我が公社の最高監査委員会が納得する【代替資産の償還】、あるいは、この世界が公社に利益をもたらすという【新たな市場価値の証明】ができなければ、その時は法的な手続きを完了させて、この世界を文字通り塵にします。……精々、短い余命をあがくことです、レオン・ヴァルハイト」
ステラの身体がホログラムのように掻き消え、頭上の青いグリッド線が徐々に後退していく。世界に一時的な時間が戻り、ミュリンの精霊炉の炎が再び青く揺らめき始めた。だが、与えられたのはわずか七日間の猶予(執行猶予)に過ぎない。
『――アハハハハ! やったねお兄さん! あの本社から来た鉄面皮のお局監査官を、法律のヘ理屈だけでフリーズさせるなんて最高!』
空間の歪みから、再びルチアの勝気な声がレオンの通信機に割り込んできた。画面の中のルチアは、機械仕掛けのゴーグルをパチパチと鳴らしながら大爆笑している。
『でも、七日間で公社を納得させる資産なんて、この世界にはもう残ってないでしょ? ……だからさ、アタシと組まない? 公社の奴らが喉から手が出るほど欲しがっている、異世界の「禁忌のコモディティ(裏商品)」を市場に流す、最高のルートをアタシが握ってるんだよね』
ルチアは画面越しに、レオンに向けて不敵なウインクを投げてみせた。
同盟との戦争を勝ち抜いたルード王国の前に突きつけられた、宇宙規模のメガコーポによる七日間のリミット。そして、異世界からの怪しげな密輸人が持ちかける、禁断の取引。
世界を賭けたレオンの次なる交渉の舞台は、ついにこの世界(惑星)の枠組みすらを超え、次元の狭間の闇市場へと突入していく――。




