第14話:ハチミツ本位制の狂気、あるいは概念的ハイパーインフレ
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黒い「債権の鎖」が国境の台地を侵食し、草木を枯らし、兵士たちの生命力をじわじわと吸い上げていく。中央銀行の『魔力貨幣』システムは、大陸全土の人間が抱く「大暴落への恐怖」を吸い上げて、その支配力を全方位へと拡大していた。
そんな絶望的な状況の中で、レオン・ヴァルハイトだけは、獲物を狙う狼のような鋭い目を崩していなかった。彼の視線の先にあるのは、リーゼロッテが握りしめる小さなハチミツの瓶。ルード王国が誇る職人、クロエの最高傑作であるそれは、王国の豊かな精霊力が極限まで凝縮された、文字通りの「奇跡の現物」だった。
「レオン……、あなた、本当にこのハチミツで中央銀行を破産させられるのね?」
リーゼロッテは、恐怖に濡れそうになる瞳を必死に押し留め、毅然とした態度でレオンを睨み返した。彼女は大陸中央銀行の総裁だ。通貨の本質が「信用」であり、その信用を操作することがどれほど恐ろしい結末を招くか、誰よりも理解している。
「ああ、お嬢様。同盟のゴールドは、人々の欲望と引き換えに形骸化した『架空の数字』だ。だが、このハチミツには、この土地の精霊と職人が注ぎ込んだ、決して誤魔化せない『本物の価値』が詰まっている。奴らが紙の上の帳簿で攻めてくるなら、俺たちは圧倒的な『実物資産』の暴力で殴り返す」
レオンは静かに右手を差し出した。その手のひらには、これまでルード王国で積み上げてきたすべての経済交渉の重みが乗っているように見えた。
「いいわ。私の全資産、そして最高金利の決定権、そのすべてをあなたに委託する! 中央の傲慢なジジイどもに、為替の魔女の本当の恐ろしさを教えてあげなさい!」
リーゼロッテは力強く頷き、ハチミツの小瓶をレオンの手へと託した。その瞬間、元特級交渉人と合法ロリ総裁の間に、かつてないほど強固な「経済的同盟」が結ばれた。
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「トマス! 生きてるか! 生きてるなら今すぐ『ワンクリック・ギルド』の全端末を起動しろ!」
レオンが背後の魔導通信機に向かって叫ぶ。
『ハッ、死にかけだが、まだ算盤を弾く指は動くぜ、レオン! だが一体何をさせる気だ!? 市場は完全にパニックで、誰もゴールドなんて信じちゃいねえぞ!』
「それでいい。今から、ルード王国の『精霊手形』のルールを上書きする」
レオンはハチミツの小瓶を掲げ、敵であるエレオノーラ、そして戦場すべての者に向けて、狂気とも言える新たなる金融宣言を叩きつけた。
現在の世界経済において、通貨の価値は同盟のゴールドという「信用」にペッグ(固定)されていた。しかし、ゴールドが暴落し、中央銀行が人々の生命力を強制徴収し始めた今、市場が最も求めているのは、実体のない信用ではなく、明日を生きるための「確実な食料」であり「魔力」そのものである。
「たった今から、ルード王国は『ハチミツ本位制』への移行を宣言する! このクロエ特製『最高級精霊ハチミツ』の一滴を、精霊手形一億枚の絶対担保として固定する!」
『な……、一滴で一億枚だと!? おいおい、それはいくらなんでもハイパーインフレが過ぎるぞ!』
通信機の向こうでトマスが悲鳴を上げる。だが、レオンの狙いはそこにあった。
「それでいいんだ、トマス。このハチミツは、ウーヴェの標準化結界すら焼き切るほどの高濃度マナの塊だ。つまり、一滴で大魔導師一人の魔力を完全に回復させ、荒れ果てた農地を一瞬で豊穣の土地に変える『絶対的な実物価値』がある。中央銀行のクソみたいな帳簿上の数字とは、比べ物にならない本物の資産価値だ。このハチミツの価値を基準にして、大陸全土の『精霊手形』の価値を、元の数万倍へと強制的に引き上げる(デノミネーション)!」
レオンの宣言と同時に、トマスのギルドネットワークを通じて、大陸全土の地方職人たちの端末へ「新たなる通貨基準」が秒速で書き込まれていった。
ゴールドという呪いに縛られていた人々の前に、突如として「ハチミツという絶対的な豊穣」に裏付けられた、超高価値の『精霊手形』が津波のように供給されたのだ。
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『馬鹿な……、何を言っているのですか、レオン先輩!』
空に浮かぶエレオノーラの遠隔映像が、初めて激しく乱れた。彼女の背景にある中央銀行の地下大金庫のデータが、異常な数値を検知してアラートを鳴らし始めている。
『通貨の価値を数万倍に引き上げるなど、市場が崩壊します! そんな無茶苦茶なインフレ、システムが受け付けるはずが――』
「受け付けるさ。なぜなら、お前たちの『絶対経済結界』は、市場の負の感情を吸い上げるために、世界中の決済ネットワークと『一〇〇%』同期してしまっているからな!」
レオンは不敵に笑い、ハチミツの小瓶の栓を抜いた。
次の瞬間、ボタボタと滴り落ちたハチミツの一滴が、地面に描かれていたトマスの魔導陣へと触れた。
ゴォォォォォォォォォォンッ!!!
世界が、ひっくり返るような全域マナ共振が起きた。
エレオノーラが展開した結界は、人々の「喪失感(負のエネルギー)」を燃料にしていた。しかし、レオンが仕掛けたハチミツ本位制による「爆発的な資産価値の暴騰」は、地方の職人たちに「これで救われる」「自分たちの手作りの品が、中央のゴールドの数万倍の価値になった」という、圧倒的な「歓喜と希望(正のエネルギー)」を爆発させたのだ。
ネットワークを通じて中央銀行の魔導心臓へ逆流したのは、処理不可能なほどの膨大な「豊穣の価値」だった。
『――警告。警告。想定外の資産価値が流入しています。債権の計算式が成立しません。システム、過剰流動性により爆発的飽和を起こしています!』
「キャァァァァァァァァァッ!?」
エレオノーラの悲鳴と共に、空を覆っていた黒い「債権の鎖」が、内側から黄金の光を放って次々と破裂し始めた。負の呪いを進化させていた中央のシステムが、ローカルの圧倒的な豊穣のエネルギーを処理しきれず、完全に逆流を起こしたのだ。
フェリックスや兵士たちを縛っていた鎖が弾け飛び、国境の台地には、ハチミツの甘い香りと共に、かつてないほどの清浄なマナの風が吹き荒れた。
「やった……! また、レオンが勝ったんだわ!」
ミュリンがハンマーを掲げて歓喜の声を上げる。マクシミリアンもまた、完璧に論破され、システムを破壊された現実の前に、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
エレオノーラの遠隔映像がバチバチと火花を散らし、完全に消滅しようとした、まさにその刹那――。
ズウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥン……ッ。
結界が壊れたはずの暗黒の空が、さらに深く、ドス黒い「本物の闇」へと変質を始めた。中央銀行の方向から、エレオノーラの狂気すらも生温いと感じるほどの、悍ましい「世界の理」そのものの怨嗟の声が、地平線を越えて響いてきた。
「――愚かなる、反逆者どもよ。為替の均衡を崩した罪、その命(資産)をもって償え」
それは、三百年間大陸の富を貪り食い、概念としての『ゴールドの神』と化した、同盟理事会の老人たちの成れの果て――真の最終防衛システム(ラスボス)が、ついに物理的な実体を持って目覚めた瞬間だった。




