13
隣の部屋のドアが開く音がして、続いて廊下に足音がした。熟睡していても、耳だけは寝てない。オトのものだと瞬時に判断する。
その足音はボクの部屋の前で止まり、ドアノブがカチッとまわった。危険はないので寝たままだったけど、しかたなく目を覚ます。いつもは朝五時には起床して茶店の開店準備をはじめるから早寝なんだけど、そういえばオトは康三さんと遊びに出かけていたのだった。
ドアがちょっとだけ開いた。
わずかな隙間から目だけが見える。
さらに少しドアが開いた。
かわいらしい顔が覗く。
もっとドアが開き、大きな枕を抱えているのがわかった。
「なに?」
本当はわかっているのだが、わからないふりをして尋ねる。
「ねえ、ハヤ。一緒に寝ていい?」
「二人で寝るには、このベッドちょっと狭くない?」
「狭いか?」
「寝ぼけて蹴飛ばすかもしれないよ」
「いいまでそんなことは一度もなかった気がするけど?」
「そうだっけ?」
「一緒に寝るのイヤ?」
オトは幼いころとかわらない。いや、ちゃんと成長しているのにもかかわらず、ボクとの関係は昔のまま。一緒にご飯を食べさせられ、一緒にお風呂に入れられ、一緒の布団で寝かされ……。
しかもオトは自分の頼みをボクが断るとはまったく考えてない。聞いてもらうのが当然なのだ。それだとかなり性格が悪く、わがままなようだが、まず無理なことは要求しなかった。そこらへんの見極めは抜群にうまい。
だから、わがままではない。しかし、甘えん坊ではあった。
ベッドにもぐり込んでくると、すぐにオトはボクの上に抱きつくように乗っかってくる。
「ねえ、ハヤ。抱っこして」
やっぱりオトが甘えた声を出した。
ボクが腕を広げると、オトはしがみついてくる。そして、クンクンと子犬のように鼻を鳴らす。いや、やっていることは犬とおなじ。オトは馴染んだにおいを嗅ぐと気分が落ち着くようだ。
とくに精神が不安定なときには。
オトが馴染んだにおいというのは自分自身だったり、自分の部屋だったりするのだが、そういうものの中にボクも含まれている。
胸のあたりに鼻をすりつけ、だんだんと横に移動する。脇のあたりに鼻を突っ込んできた。
くすぐったいし、恥ずかしい。
しばらくすると、においを嗅ぐのに満足したのか、オトはボクの胸に頭を擦りつけてきた。どうやら頭を撫ぜて欲しいらしい。
髪をクシャクシャといじってやると、オトはクーンと甘えた声で吠えた。これは精神がかなり不安定な感じがする。
ボクは今日あった出来事を朝から順番に思い出してみる。楽しいことばかりの一日だったとは言えないものの、つらいこととか、悲しいこととか、疲れるようなことはなかったと思う。夕方から夜にかけては康三さんとどこかに出かけたから、その間のことはわからないけど、野球の観戦で興奮しすぎたのかもしれない。
康三さんがオトに野球観戦にいかないかと誘った。店のお客さんがチケットを二枚くれたのだと言う。ボクは野球にまったく興味がないが、オトは中日ドラゴンズのファンだった。
それにバットに異常なほどの愛情を抱いている時期もあった。なにしろ、どこにいくにもバットを持ち歩くのだ。小学生がナイフを持って歩いていたらお巡りさんに捕まるかもしれないけどバットならだいじょうぶだと言っていたので、ボクがプロ野球の選手を夢見る野球少年とかには絶対に見えないと答えた。すると、ソフトボールが大好きなスポーツ少女には見えるかもしれないと反論してきたので、それもないと否定しておいた。
今年の夏に神社の賽銭を盗もうとした泥棒をボコボコにした、金属バットで。拝殿の裏でこっそりタバコを吸っていた不良グループも。近所をうるさく走りまわっていた暴走族を追いかけまわしてに襲撃をかけたときも金属バットだ。
でも、やっぱり持ち歩くのには邪魔なんだろうね。それに、やっぱりフランス人形みたいな格好でバットを持って歩いたら不審人物以外の何者でもないし。
それでバットは捨てたが、野球は好きなままだ。
さて、中日ドラゴンズは勝ったのかな? それとも、オトが一生懸命応援したのにもかかわらず負けたのか。巨人ファンと乱闘でもしてきたのかもしれない。うん、それがありそうだな。
しかし、康三さんは止めてくれなかったのかな? あの人も案外と血の気が多いところがあって、オトがはじめたら、一緒になってやってしまうところがある。姉ちゃんがジワジワ締めつけるとすると、康三さんは一気に完膚なきまでに叩き潰す。
オトは胸に摺りつけていた頭をもたげた。這うように前進してくる。顎にかみつかれた。まあ、甘噛みだから痛くはないけど。
「ねえ、ハヤ。ギュッとして」
「はいはい」
強く抱く。ボクのほうもオトのにおいを堪能した。別に精神的に不安定になっているわけじゃないけど、やっぱり安心できるにおいだ。シャンプーもボディーソープも同じものを使ってたいるはずなのに、なぜかボクのにおいとオトのにおいは違う。性別の差なのかもしれないけど、やはりオト自身のにおいがシャンプーやボディーソープと混ざり合って、こんな一言では表現できないクラクラするようなにおいになるのだと思う。
「もっと、もっとギュッとして……」
「これぐらい?」
「もっと……」
痛くないかな? と心配になるくらい強く抱きしめると、うれしそうにハアハアとオトは息を弾ませた。
「くうん、くうん……」
オトに鼻をぺろりと舐められた。頬や額にも舌を押しつけくる。ぬめぬめと柔らかくて、熱い。
そのうち舐めただけでは満足できなくなったみたいで、かぷっと鼻に噛みついてきた。甘噛みだから歯を立てているわけではなく、くすぐったい感じだ。
「はうはうはうっ……」
なんだかうれしそうな声を上げている。ちゅーちゅーと吸う。ボクの鼻で遊ぶのはかなり楽しいらしい。
オトがくわえていた鼻を離したので、今度はボクのほうがオトの鼻をぺろりと舐め返すと、わうっと叫びながら右耳に噛みついてきた。耳たぶを唇ではさんで引っ張る。
「わふわふわふわふっ」
足をバタバタさせた。そして、ボクの頭の下にある枕をくわえて引っぱった。
好きなようにさせる。枕が欲しいなら、持っていけばいい……ボクはベッドの脇に放り出してあるオトの枕を手にとった。
その瞬間、やられたというような顔でオトは慌ててボクの枕を放し、自分の枕を取り返そうとした。立ち上がるか、手を伸ばせば奪い返せるのに、なぜか這ってボクの上に乗っかって、首だけ伸ばして枕を噛もうとする。
だけど、ボクは上へやったり、右や左にかわして枕を返さない。
「うーっ……」
オトが唸って、ボクの腕に噛みついた。それは反則だよ。
咎めるかわりに、ボクのほうもオトの耳を噛んで引っぱる。軟骨の感触がなかなか楽しくて、ちょっと興奮してきたかも。
「がうっ!」
オトも興奮しているようで、頭をふって耳に噛みついたボクを振りほどくと、ベッドの中にもぐり胸を噛んで、脇腹を噛んで、太腿を噛む。
やられっぱなしではおもしろくないから、ボクもベッド中にもぐってオトを追い、お尻を噛んでやった。
「ぎゃははは……」
なんかうれしそうに笑っている。
オトは人型汎用兵器みたいなところがあって、しかも汎用というのが人間として汎用ではなく、あくまで兵器として汎用だったりする。戦闘能力のみ突出していて、それ以外のことはさっぱりダメ。いつもかわいい服を着ているけど、あれは姉ちゃんが着せ替え人形にしているだけで、本人はファッションに関心はまったくない。いまみたいな季節だと寒くない格好をしていれば、それで満足なのだ。
学校の勉強もできない。宿題はボクがみてあげるけど、ほとんど写しているだけ。
マンガも読まないし、ゲームもやらないし、パソコンも使えないし。まあ、ボクが本を読んでいると横から覗き込んだり、対戦ゲームをやることもあるけど猛烈に下手だから負けてあげるのが大変だったりする。
それでは唯一得意な戦闘が好きなのかというと、違うのではないかとボクには感じられる。戦うことしかできないし、実際にも乱暴なところもあるが、むしろ人を傷つけるのは嫌いではないかと思う。だから戦闘終了後にはこんなふうになるのではないかと……あくまで推測だけど。
ボクがオトを守らないといけないのだ。
だって、ボクが五軒家さんの妹の事件でいろいろダメになったけど、結果的にはオトのおかげで能力の一部が戻ったのだから――そのとき、思い切りオトを傷つける形になったし。
あのとき、康三さんのところから自宅に運ばれても、ボクの肉体も精神も麻痺したような状態になってた。まったく痛みもないし、悲しくもなく、楽しいと感じることもなく、なにをされても怒りがわかず、すべてのことに興味を持てず、しゃべることはできても話す言葉はない。歩くこともできるけど、いきたい場所もない。
祖父ちゃんは抜群だった嗅覚の喪失を悲しみ、なんとか訓練で元に戻そうと何度も誘ってきた。
だけど、ボクは全部断った。すべてを忘れたくて、大神の力なんかいらなくて、むしろなくなって欲しくて……。
「ま、あんなことがあったばかりだからな、しかたなかろう」
最後には残念そうに呟きながら、しばらく様子を見ようと言ってくれた。
しかし、オトは諦めなかった。攻撃特化タイプで臭跡を追う能力はかなり低いから、訓練がすきとか、楽しいということはないと思う。どちらかというと、一緒に遊びたいという感じなのだろう。
ここ数年は言葉が理解できるようになり、無闇に他人を噛んではいけないことを言い聞かせることができるようになったから、ボクの付き添いなしで座敷牢から出してもらうこともできるようになっていた。しかし、オトは一人で外出することはほとんどなかった。みんなオトを恐れて近寄らないから、ボクの他に友達ができないからだろう。
だから、ボクと遊びたいという気持ちはわかる――ボクにも臭跡は二度と追いたくない気持ちがあるんだ。
しかし、この日のオトはしつこかった。断っても断っても、ボクのお腹に頭突きをしてきたり、腕を引っぱって無理に外に連れ出そうとしたり、まったく諦める様子がない。遊ぶなら家でゲームでもやろうと提案してみたけど、どうしても山にいきたいと言い張った。
「そんなにいきたいなら、勝手にいけばいいじゃん。ボクはいかない」
オトにつかまれた腕を振りほどく。
「一緒にいこうよ、ちょっとだけでいいから」
「いかないって言ってるでしょ、いくらなんでも今日はしつこいよ。そんなオトは嫌いだ」
「……嫌い?」
「そう、嫌い」
ボクは一歩後ろにさがって距離をとった。
オトはそんなボクを見て、とても悲しそうな顔を歪めた。そして、だんだんと目から涙が盛り上がり、頬を伝わって、ポタポタと床に落ちた。
いつもだったら、このあたりでボクのほうが折れただろう。年下のイトコを泣かせるなんて最低なことだし。
だけど、このときのボクは止まらなかった。
「嫌い、嫌い、嫌い」
「そんな酷いことは言わないで」
「嫌い。嫌い、嫌い」
「お願いだからオトのことは嫌わないで。なんでもするし、いい子になるから、そんな酷いことだけは言わないで」
「嫌い、嫌い、嫌い」
「…………………………………………でも、オレはハヤのこと好きだから。ずっとずっと好きだから」
そう言いながらオトは裏山のほうへとぼとぼと歩いていった――泣きながら。
一瞬、追おうとしたけど、やっぱりやめた。どうにも怒りが収まらない。全部がしつこくしたオトのせいというわけではなくて、だから半分以上は八つ当たりなんだろうけど。
一人で山に入ったオトはそのまま帰ってこなかった。一族の何人かが臭跡を追ったが、オトは川に入ったり、崖を飛んだりしたらしく、三日たっても発見できなかった。
以前のボクならともかく、いまのボクでは絶対に無理なんだけど、同時にボクの責任だからボクが連れ戻さないといけないとも思った。
集中してにおいをかごうとすると、ありもしない血のにおいにむせてしまうけど、何度も気分が悪くなったり――それどころか吐いたりしているうちに、だんだんと折り合いをつけられるようになり、二日かかって県境を越えて静岡の山奥で力尽きて倒れているオトを発見した。
「誰からも嫌われる奴は、そこから消えたほうがいい」
なんでこんなところにいるのかというボクの問いに対する、オトの答えだった。
だから、ボクは今後オトを嫌いならないと決めた。日本中――たとえ世界中の人々がオトのことが嫌いだったとしても、ボクだけはオトのことを好きでいようと誓ったのだ。




