背(せな)[二]
「秋、じじ殿は怪我をされておられる。そう上から圧し掛かられては、苦しくて堪らぬぞ。早く涙を拭いて、おとぎりを摘んできなさい」
秋よりも先に心を落ち着かせた伊織は、妹にそう言って宥めるや床の側に刀を置き、その隣に腰を落とした。ややあって涙を拭い笑顔を取り戻した秋は、悠仁采に謝罪をして小屋の外へ飛び出していった。
「……おとぎりとは……?」
恐ろしい悪夢から放たれ、再び息を吹き返した悠仁采は、既に汗の引き切ってしまった身体を、伊織に助けられながら起こしてみた。
「煎じ薬にもなる草の一種で、止血や打撲に効き、収斂薬・鎮痛剤としても効能のある優れた生薬でございます。必ずやじじ殿……いや、失礼……朱里殿の傷を癒してくれることでしょう」
「じじで構わぬ」
照れるが如く、咳払いでお茶を濁した伊織を横目に、悠仁采は少々の笑みを洩らしたが、意外にもそれが心からの笑いであったことに、自ら驚きを隠せずにいた。
──このわしが、この兄妹に癒されている……?
と云わんばかりに。
「……では……じじ殿。これを召し上がれ。まずは腹ごしらえです」
唖然とした悠仁采は言われるがままに手を差し出し、囲炉裏で程好く温められた小柄な椀を受け取っていた。昨夜の鍋を仕立て直した粥であった。
ややあって手製の木匙ですくい口に運ぶ。唇に触れた汁は舌の上を通り、喉を熱くすると共に、凍てついた悠仁采の心まで溶かしていくようだった。
「伊織殿……と申されたな。もしや姓は“織田”であろうか?」
ようやっと食欲を取り戻せたのであろう。椀を半分ほど進め、一息ついた彼は伊織に問うた。しかし問われた若武者は眉をしかめ、
「何故に“織田”と……?」
と問い返した。どうやら的は外れたらしい。訝しげなその表情は違うものを語っている。
「……いや……昨夜、右京殿が「織田に助けられた」と溢した故……わしと同様、そなた達に救われたと思うただけだが……」
すると鍋に戻しておいた粥をよそる底の深いヘラに手を伸ばし、ほんのり口角を上げた伊織は、
「それはこの森のことでしょう……右京殿はこの森に救われ、この森に生かされている……しかし、その所有者は織田家なのです」
そう言って悠仁采の手から椀を受け取り、先程と同じ位の量にして返そうと彼の顔を見た。
「……朱里殿?」
此度は戻された椀を受け取らずに、怪訝な表情で伊織を凝視した悠仁采の心の内は、如何なるものだったのだろうか。
織田の領地で暮らす敗北者の嫡男。其処を訪れる“織田ではない”青年武士。──ならば伊織は──?
「詳しく説明致しましょう……私は……正式には織田であって、織田でない者です。つまりは織田の姓を持たない、織田配下の者」
囲炉裏の端に一先ず椀を置いた伊織は、苦笑を帯びた溜息をつき、観念したように向き直った。
「では……?」
「曽祖父の時代、信長様の父上──信秀様に命を救われた水沢家の嫡男に当たる者……水沢 敏信と申します」
「水……沢……」
大きく開かれた左眼の見詰める先には、伊織、いや敏信の哀し気な瞳があった。やはりこの若者と妹 秋姫は月葉の縁の者なのだ。悠仁采は失われた右眼の在るべき場所が疼いた気がして、思わず眼帯を押さえた。
「命を救われたとは皮肉な物言い。依然幼名を好むのもその所為か? 敏信の一字は織田家より授けられたのであろう?」
右半身が焼けるような熱さを感じて、悠仁采はおもむろに息を荒くさせながらも、その左眼を伊織から離さなかった。
「じじ殿は全てお見通しのようだ……いかにも、私は右京殿と同じく家を潰された者。しかし同じく織田によって生かされているのですよ……我が祖母 月は和睦の際、織田家に嫁ぎ一男を儲けました。ですが既に正妻の下、嫡男は存在しておりました故、月の男子は信秀様の許しを得て、水沢家再建の火種となりました。……もちろん織田家直属の一族として──そしてその次の世が私なのです」
──月葉はやはり子を儲けていた……あの一件の二ヶ月後、病で逝ったと告げられたあの知らせは何だったのか? 我が配下の同情による偽りか、それとも織田への復讐の念を断つための如何様……?
いや、月葉自身が悠仁采を想って流させた嘘の噂やも知れぬ……が、もはや確かめる術はない。
「察するに、じじ殿は右京殿のご祖父どころか、我が祖母 月までもご存知とお見受け致しまする……祖母は我が父を産む際に熱に侵され亡くなりました。人質としての輿入れでしたが、正妻に勝るとも劣らぬ寵愛を受け、幸せな二年を送ったと聞いております。……ですが──」
幸福な歳月──それは悠仁采と共に過ごした十数日をも上回る月日であったのだろうか。口のきけぬ月葉が唯一発した言葉──それが“悠仁采”のみであったという逸話を信じたい気持ちに、些か己の弱さを嘲ってみる悠仁采ではあるが、しかしそのような考えに浸る間も与えず、彼を現実へと呼び戻したのは、伊織の濁った言葉の続きであった。
「ですが……織田家に尽くして参った私に与えられた名……敏信の『敏』は、曽祖父 龍敏の一字。これを頂戴致しました訳を信長様はっ……「あの者のように織田に従順であれ」と嗤い飛ばしたのでございます」
歯を喰いしばり、伏し目がちに床へと向けられた視線は次第に一点を睨み、燃え立つようであった。それはいつしかの悠仁采、いや、龍敏にも右京にも現れたものに違いない。が、そのお陰で悠仁采はにわかに落ち着きを取り戻していた。
「見ず知らずのわしなどに斯様なことを口にするものではありませぬ。それが叶うのは天に立った者のみ。今は時を待ちなされ。伊織殿にもその機運は訪れる筈」
そう……誰にでもその『時』は通り過ぎる。それを獲るか否かは自身の才能の度合いだ。が、わしにはなかったか……と我が身を哀れむのは一瞬のこと。
「いや……確かに……。お館様を愚弄するようなこと、じじ殿に申し上げるとは……失礼仕りましたっ」
悠仁采に諭されはっとした伊織は、視線の行き処もおぼつかない様子で、額に現れた大粒の汗をあたふたと拭う。
まるで昔のおのれを見るようだと感じ入った悠仁采は、その姿に親しみを覚えた──。




