◆背(せな)[一]
その夜はいやに冷え込みの厳しい黒々とした星月夜であった。
右京は精を出すようにと豪勢な鍋料理を作ってくれたが、悠仁采は殆ど口にすることはなかった。ただただ右京を見詰めるのみである。
薪がぱりんと爆ぜ、長い沈黙を破る。他に灯りはなく、時々月光が壁の隙間から細く差し込むだけである。右京はそんな光には気付かず、ぼんやりと焚き火を眺めながら、火を掻き混ぜては、また炎を眺めていた。
「そなた、織田を憎むか」
──ぱりん。
薪の音と共に、悠仁采は喉からの低い声を発した。一瞬その言葉に反応を示した右京ではあったが、何心なく再び焚き火を転がしている。
「私は父と母と、多くの家来を失いました」
視線はそのままに、彼の頬を赤々と照らす火は激しさを増す。
「では織田を憎むと……」
「いいえ」
最後まで言い切る間を与えずに、右京は悠仁采に向かって言った。
哀しげな瞳であった。
そしてそれは紛れもなく、月葉を失った時の悠仁采の瞳であった。
「何故──」
悠仁采は床についたまま問う。
秋に出逢った瞬間の、あの戦慄を帯びた余力は、もはや彼には残されていなかった。全身に糸のような傷が散らばり、それはぱっくりと恐怖の口を押し開けている。所々に見られる火傷もかなりの疲労をもたらし、湯が沸々と滾るように、悠仁采の身体を熱くさせるのだった。
右京が一度炎に水を掛けるや、焚き火は白い煙を立てて鎮まり、闇を創った。
月の光を頼りに、悠仁采の傍らに用意したもう一つの寝床に潜り込み、溜息をつく。
「私は誰も憎みはしない。我が家が崩れたのも、誰の所為でもないのです。ただ崩したのが織田であったというだけ。たとえ織田がそうしなくとも、誰かが橘を潰すでしょう。それが戦乱の世の条理です」
闇の中で何かが蠢いた気がした。悠仁采か右京か、それは分からない。ただ「何か」だ。
悠仁采は何も答えず、また問いもしなかった。右京の方から薄明かりへと目を移し、ゆっくりと息を吐く。
右京の言っていることが正しいのは、痛々しいほど彼には理解が出来た。と共に自らの過ちに気付かずにはいられない。月葉を失った哀しみのまま、世を突っ走ってしまった悠仁采。それとは対称的に己を押さえつけることの出来た右京。織田を倒せなかった今、全てが過ちとなろう。
「私は一度たりとも織田を憎まなかったとは言いません。……ただ」
闇夜の深い淵から洩れてくる右京の言葉が、少し途切れてくぐもり消えた。
「ただ……?」
「ただ、私は同時に織田に助けられもしたため、憎もうにも憎みきれないのです」
悠仁采の問いに即答した右京の口調には、少々皮肉にも似た苦笑を帯びていたことを、彼自身気付かずにはいられなかった。右京は密かに涙する。が、それも一瞬のこと。
「もう夜も深くなりました。眠ることと致しましょう。おじじ様の傷にも障ります」
右京のそう発したまもなくに、寝返りの衣擦れと柔らかな寝息が聞こえたのは、故意であったのだろうか。
悠仁采は疑問を残したまま、やがて訪れる恐ろしい睡魔と、悪に彩られた夢を待ち焦がれながら、その重い瞼を閉じた──。
◆ ◆ ◆
──翌朝。
かはたれ時の薄煙の中を、早くも伊織と秋は右京の小屋へと向かって馬を走らせていた。
狩人の朝は早い。既に右京は朝食の準備を済ませ、森の奥へ進むための用意をしている。二人が到着したことに気が付いて、彼はそちらに手を振り、未だ暗い森の道を歩み始めるのだった。
秋は伊織に優しく馬上から降ろしてもらい、静かに小屋へと入っていった。薄暗い中、囲炉裏の炎が微かに燃え、鍋の中の粥を冷まさないようにしてある。右京の床はすっかり片付けられ、しかし悠仁采のものは未だそのままであった。
悠仁采は目を覚まさなかった。
近付いてみれば静かに息をしてはいるが、顔じゅう身体じゅうから汗が噴き出し、苦しげな表情をしている。秋は急いで彼の汗を拭いはしたが、それは無意味にも等しかった。
「……」
時折震える唇から小さく声が洩れる。右手はちぎれそうなほどに布団を掴み、長い銀髪は汗に濡れて床に広がった。
──悪夢、だ……。
秋はそう感じて、伸ばした手を戻しながら後ずさった。悠仁采のこけ細った頬からは死相が微かに色を見せている。死、そのものではなく、死までの長い道のり。
「……つ……き。月っ! ……」
以前秋に向けて発せられた言葉。それは「秋」ではなく「月」であったにも関わらず、耳を塞いでしまうほど苦しい。
「おじじ様! ……おじじ様……」
彼女には彼の悪夢を解することは出来なかった。徐々に蒼みを帯びる肌は救いを求めてはいるが、同時に解放をも願っている。
「朱里殿──」
戸口で呆然と立ち尽くした伊織もまた、秋同様次の句を失いつつあった。
そして──風。
その時何処からか舞い降りた薫風が、悠仁采の濡れた髪を掻き上げ、己を覚醒させたことに二人は気付いたであろうか。
緩やかに開く視界が、昨日と同じであったことに知らず安堵感を催している。──死にたかったのに……? いや、死は月葉の元へと旅立つための一段階に過ぎない。
「おじじ様、大丈夫ですか? 酷い汗です」
そしてもう一人、ほっと息をついた秋は駆け寄ると、悠仁采の布団へしがみつき、潤んだ瞳を彼へと向けていた。
悠仁采の肉体と精神は、既にいつ崩壊しても不思議でないほどの傷を受けている。が、昨晩も今も生と死の狭間を彷徨いながら、結局は秋と伊織のために引き返すこととなってしまった。
──月葉よ。そなたはわしに会いとうはないのか……。それともわしには未だ、やらなければならない使命でもあるのか──。
安堵のためか泣き崩れた秋の美しく艶やかな黒髪を、皺の刻まれた細い手で、いつの間にか撫でてやりながら、悠仁采はそう呟いていた──。




