背(せな)[三]
「おじじ様っ、おじじ様! おとぎりを摘んで参りました。外はとても良い天気です。少し表へ出てみませぬか?」
そんな複雑な空気を澄み渡らせたのは、元気良く馳せ戻った秋の止め処ない呼び掛けであった。
「これっ……秋。じじ殿が休まれていたら起こしてしまうところだったぞ」
今度は諭す側に回った伊織に、
「お二人のお声が聞こえましたので……さぁ兄様、手伝ってください。おじじ様を小川のほとりへお連れするのです」
悪びれる様子もなく土間から駆け上がった秋は、しかし先程までの勢いは刹那に落ち着かせ、悠仁采の横に鎮座するや優しげな面持ちでこう言った。
「おじじ様、お天道様に傷を癒して戴きましょう」
──と。呆気に取られた悠仁采は、又もや差し出された手に手を委ねていたが、これも又良しと心の内で苦笑しながら、暫しこの兄妹に身を任せる気持ちになっていた。
二人の肩を借りて、久しく触れていなかった足裏を草履に当てれば、すっかり踏み締める力が抜けていることに気付かされる。少々くたびれた引き戸を開けた途端、眩い陽の光に眼を突かれた。やがて明るさに慣れ、小屋を囲うように広く生い茂った木々の青き匂い、すぐ前を流れる小さな川のせせらぎなど、五感全てを甦らせる自然の力が彼を取り巻いた。
「暖かい……」
秋の支えで数歩前進すると、小川の透明な水面が悠仁采の蒼褪めた顔を照らした。小屋へ戻った伊織は茣蓙を持ち出し、小川の手前に敷いて、鍋の粥も召し上がるようにと椀も添え、其処へ悠仁采を座らせた。ひんやりした茣蓙の感覚は徐々にぬくもりを得、再びの粥も身体を温めてくれる。伊織は以前乾燥させておいたおとぎりの花で煎じ薬を作ると言って中へ戻り、秋は悠仁采の隣に座して、先程摘み取ったおとぎりの葉を、桶に汲んだ小川の水で洗い始めた。
「おじじ様、これがおとぎりでございます」
山野や路傍で良く見掛けるような、小さく可憐な黄色の花弁が幾つも群れを成している。秋はその透けるような白い指先で、優しく丁寧に作業をした。小さくとも領地を所有する武将の娘が、庶民の生業をすることに、月葉が館で暮らした短い日々を重ねずにはおられなかった。
「秋姫殿……それ以上は。後はわしがやります故……」
そうして差し出した手を、水を払った掌で押し戻した秋は、
「何をおっしゃいます! おじじ様はお客人。それに傷を負っていらっしゃるのですよ。この森へ参ったら、私は姫ではござりません。秋とお呼びください」
と、完全に遮断した。天下の悪人 八雲 悠仁采も、秋の前では形無しのようだ。が、悠仁采も負けてはいない。
「ですが右京殿は確か『姫』とお呼びであったと……」
すると秋は途端に頬を赤らめて俯き、
「右京様にも何度もお願いしましたっ。ですが……止めてはくださらないのです──」
必死に洗われたおとぎりは揉みくちゃにされ、少々原形を留めぬ姿になっていた。
「あらっ……私としたことが。えっと……おじじ様、このおとぎりは煎ずるだけでなく、この葉を汁にして傷口に塗りますと、止血や収斂の薬になるのですよ。昨日もおじじ様がお目覚めになる前に、私共で塗らせていただきました」
「それはかたじけない……姫」
「おじじ様!」
秋はぷうっと頬を膨らませて悠仁采を睨みつけ、そして二人で笑った。
どうりで──と、悠仁采は思う。我が身から草の潰した匂いがしているのには気付いていた。が、まさかこの二人の手当てであったとは。
しかしそれより気になるのは、秋の右京を想う仕草であった。乙女の恥じらいはいつの世も奥ゆかしい。だが此処にも又、叶わぬ恋が在るということだ。
「おじじ様……このおとぎりの名の由来には、哀しい物語がありますのをご存知ですか?」
「いや……」
その話──。
──相伝う。
(時は平安時代)花山院の朝に鷹飼い有り。
晴頼と名づく。
其の業に精しきこと神に入る。
鷹傷を被ること有れば、草を揉みて之に傳くれば則ち癒ゆ。
人乞うて草の名を問えども、之を秘して云わず。
然るに家に弟有り。
密に之を洩らす。
晴頼大いに念り之を刃傷す。
此れ自り、鷹の良薬たることを知り、弟切草と名づく──
(一七一三年刊行)『和漢三才図会』寺島良安著より
つまり平安の世、秘法の薬草を用いて鷹の傷を治す晴頼という鷹匠が、その名を他人に洩らしたかどで、弟を怒りに任せ斬り殺し、その薬草がこのおとぎりであったと云うのだ。
「弟切草……」
悠仁采はぽつりと呟くと、急に胸の内が痛んだ気がした。
──自分もあのまま橘家にて育ったならば、弟を切りはしなかっただろうか──と。
「……この鷹匠が弟を斬った際、血潮が飛び散り、その痕がこの葉に暗点を残したと云い伝えられているのです」
秋は憂いを帯びた表情で弟切の葉片を手渡し、太陽にかざすように促した。光に透かして見れば、確かに黒く細かい油点が散在している。このように健気な花にそれほど悲しい名があるとは──悠仁采の面持ちは次第に頑なに変貌し、自己を内へと押し留めていった。
「おじじ様?」
掲げた手を下へと降ろし、そのまま弟切の葉を見詰める悠仁采の沈黙に、秋は首を傾げた。
何も発せず、反応することもなくなった悠仁采に、秋の呼び声は届かない。
「おじじ様……」
秋は知らず知らず彼の背に手を伸ばし、その柔らかい掌で擦っていた。
「秋……殿……?」
「だって……おじじ様の背、淋し過ぎます──」
ゆっくりとゆっくりと、掌の熱が彼の背を温めていく。
──右近、わしは……。
弟切を見詰める視線はそのまま、そして秋の手も、暫く止まることはなかった──。
◆以降は2014年に連載していた際の後書きです。
【序】・【壱】に続きまして、彩りも美しい秋のイラストをazサマより戴きましたので、文末に置かせていただきました♪
どちらかと言えば明るく元気な印象の秋ですが、今話では悠仁采の憂いを想い、その心に寄り添おうとしている健気な感じが、こちらのイラストと共鳴しているように思われました*
azサマ、沢山の素敵なイラストを誠に誠に有難うございました!!
貴重なお時間を拙作に下さいましたこと、そうしたいと思うほど拙作を愛してくださいましたこと、深く感謝を申し上げます☆
二〇一五年十二月十一日 朧 月夜 拝




