第73話「彼女と過ごす休日」
見慣れた天井。窓から入ってくる心地良い風。ここは……おれの部屋か?
ルトナの北西にある高台の上の貸宿。その部屋の一つを何故か無償で借り続けられている。おれはあまり荷物を持ちたくない性格だったらしく、部屋の中には必要最低限の生活用品くらいしかない。
家具だって今寝そべっているベッドと、部屋の中央にある四角いテーブルが一つあるだけだ。そのテーブルの上には精霊術士や唱術などを調べていた時の魔法書や、魔獣マンティコアについて調べた時の書物が置いて……なかった。
小さなグラスが三つ置いてある。これは……どういうことだ? そういえば、おれはどうしてここにいるんだろうか? 確かおれは……。
「ええ、また三日後に……」
女の子の声が聞こえた。
その声の主をおれは知っている。優しくて一生懸命で、真面目で思いやりがあって、笑顔がとてもよく似合う、可愛い女の子だ。
バタン……と扉を閉める音がして、その女の子が部屋の中へと入ってくる。白と青の神官服を着ていて、薄い青色の長い髪を左肩の前でまとめている。その姿を見ると不思議と心が安らぐ。
彼女は黙ってテーブルの上のグラスを片付け始める。声をかけようかと思ったが、驚かせてグラスを落としたら危ないし待ってみることにした。グラスを片付け、テーブルを綺麗な布で拭いている。
「そんなことまで、しなくてもいいのに」
彼女の手が止まった。どうやら、おれは声に出してしまったようだ。彼女がこちらを振り向いている。一人だけ時が止まっているみたいだ。
「マキア……おはよう」
彼女はみるみる泣き出しそうな顔になり、それを我慢するように下唇を噛んだ。
「おはよう……ございます。ナナトさん」
そう言って笑顔を見せてくれた。
おれは起き上がろうとしたが体に力が入らず、もう一度頭を枕に戻してしまう。マキアは慌てて枕元まで来てくれた。
「無理をしないでください。まだ寝ていないとダメです」
「……どのくらい、寝てたのかな?」
「二日です」
「そっか……心配かけちゃったかな?」
「いえ……はい。心配……しました」
「ごめんね?」
「目を覚ましてくれて……よかったです」
「ずっと看ていてくれたんだ?」
「……はい」
「ありがと」
もしかしたら彼女は、自分の責任だから……とか思い詰めていたりするのかなって思ったけど、どうやら純粋に心配してくれていただけみたいだ。もうこの子はあの頃の彼女に戻れたんだな。よかった。
――いつの間にかまた眠っていたのか、次に目を覚ましたのは夜だった。食欲をそそるいい匂いがする。おれは体を起こす。今度は起き上がることができた。
テーブルの上には大きな鍋のようなものが置かれている。どうやらこの匂いはそこから漏れてきているみたいだ。おれは誘われるようにテーブルの前まで這いずって進んだ。ゆっくりと鍋の蓋を取り上げる。白い湯気が登ってくる。その先にあったのは、だしの香りが染み込んだ白い米に卵が混ぜられている……卵粥だ。嗅いでいるだけで腹が鳴り、見ているだけで汗が出てくる。食べてもいいのだろうか?
部屋の中を見回すと、どこからか水の流れる音が聞こえていることに気がついた。おれは風呂の方へと視線を向ける。風呂とは言ってもシャワーしかないんだけど。扉の前には籠があり、その中には神官服が入れられているのが見える。風呂に脱衣所はないし中もそんなに広くはない。まぁ……そこに籠があると便利だよね。
そんなことを考えていると水の流れる音が止まった。しばらくすると、ゆっくりと扉が開いて中から白い腕が伸びてくる。タオルと神官服と……おそらく下着も置かれているのであろう籠を掴んで風呂の中へと引きずり込んでいく。扉は再び閉じられてしまった。
何を考えたのか、おれは立ち上がり風呂の扉の前まで進んだ。この宿はたぶん物件としてはとても優良だと思う。もちろん部屋に鍵をかけられるし、間取りも一人暮らしにしては広い方だ。窓から見える景色も素晴らしくて、おれはとても気に入っている。
ただ、一人暮らしの為の部屋だから……風呂に鍵なんて付いてはいない。この扉の向こうには……きっと、素晴らしい世界があるんだと思う。ここはおれの部屋だ。今は中から音もしないし、扉の外には誰かが入っているという目印みたいなものも置いていない。
……もしも、この扉を開いてしまったら、おれは罪に問われるのだろうか?
「マキア?」
おれは扉を開かずに声をかけた。勝手に開くなんてことはしない。ずっと看病してくれて、粥まで作ってくれて……この上さらに、シャワーまで一緒に浴びようだなんて。流石に贅沢が過ぎるよな。
「は、はい!」
彼女の慌てふためいた声が聞こえた。それだけで少し笑みがこぼれてしまう。今この扉の向こうにいる彼女は、一糸纏わぬ姿で驚いた表情を浮かべ、体を拭いていたであろうそのタオルで必死に体を隠そうとしているのだろう。そういう風に想像ができる。
「シャワー……使ってた?」
「ごめんなさい。勝手に使ってしまって」
「いいよ」
「……ありがとうございます」
「おれも……入ろうかな?」
「え? えっ!?」
「……ダメ?」
「ダ、ダメです……その、今は!」
「今すぐに……とは言ってないけどね?」
「…………」
返事はなかった。ちょっとからかいすぎたかな? おれはテーブルの方まで戻って大人しく待つことにした。またしばらくすると、ゆっくりと風呂の扉が開いてしっかりと神官服を着たマキアが出てきた。
「……上がりました」
「うん」
「…………」
マキアは黙っている。もしかして……怒ってる? 彼女がテーブルの前に座る。おれの正面ではなく、右隣に。顔を覗き込むと少しだけ頬を膨らませているように見えた。それがとても愛らしくて笑ってしまう。
「怒っています」
「そう……みたいだね」
「ナナトさんは……女の子を困らせて喜ぶ人だったのですか?」
「……そうかもね。うん、ちょっと楽しいって思ったかも」
「もう知りません!」
彼女はそっぽを向いてしまった。
「ごめん」
「知らないです!」
「今度からは気をつけるよ」
「……本当ですか?」
「うん。ちゃんとする」
「困らせたり……しませんか?」
「うん。マキアが困ったりしないように、先に言っておけばいいんだろ?」
「?」
マキアが振り向いて「何を?」という表情をした。
「一緒にシャワーを浴びようって」
「……ち、違います!」
「あれ?」
「もう!」
「ははっ!」
散々からかった後、とうとう空腹で限界だったのか大きな腹の鳴る音が響いた。マキアはまだ頬を膨らませていたが、卵粥を器によそってくれた。
「熱そうだね?」
「さっき……作ったばかりですから」
「やっぱりマキアの手料理だったんだ?」
「はい……口に合うか……分かりませんけど」
「食べる前から美味しいってことは分かるよ」
「……どうぞ」
マキアは器を手渡そうとする。
「食べさせてはくれないの?」
「え? ……また、からかってるんですか?」
「先に言っただけだよ。ちゃんとね」
「……もう」
マキアはスプーンを右手に持ち、卵粥を掬う。それを口元へと運ぶと、ふぅ……ふぅ……と息を吹きかける。一度こちらに視線を向けた後、こぼさないように左手を添えながらゆっくりとおれの口元へと腕を伸ばす。
「どうぞ……」
「あーん」
「あ、あーん……」
口の中にスプーンが突っ込まれる。程よく熱も冷めていて食べやすかった。口の奥を通ってだしの香りが鼻腔をくすぐる。スプーンが抜かれると味わうように咀嚼し飲み込む。
「……どう……ですか?」
「うん、美味しいよ」
「よかった……」
「この腕だったら、みんなも喜ぶんじゃない?」
「簡単なものしか作れませんから。わたしも……ココハと一緒にルミルから習おうかな」
「いいんじゃない? 一緒に暮らすならそういう機会も増えるだろうしね」
「上手に作れたら……また食べてくれますか?」
「うん、もちろんだよ。マキアの手料理ならいつだって、どんなものでも食べてみせるよ」
「……ありがとうございます」
照れているマキアを見れるのも嬉しい。もっといろんな表情をさせてあげたい。からかって困らせたり、冗談を言って怒らせたり、褒めて照れさせたり。
「そろそろ……帰らないと」
「そっか」
「……はい」
「送って行こうか?」
「いえ……」
「じゃあ……いや、これはダメかな?」
「…………」
マキアは俺が言おうとした冗談が分かっていたのか、黙って俯いてしまった。
「明日も来てくれる?」
「……はい」
「よかった。それなら安心して眠れそうだ」
「お腹が空いたら、残りの粥を食べてくださいね?」
「分かったよ、ありがとう」
そうして彼女はアムリス神殿へと帰って行った。楽しかった時間が終わってしまい寂しいと感じたけど、明日もまた会えると思ったらニヤニヤが止まらなくなった。
――翌日もマキアは、おれが目を覚ます前から部屋の中にいた。確か……昨晩は鍵をかけたはずだけど。
「ごめんなさい。鍵を持って帰ってしまっていて……」
彼女はそう謝罪した。まぁおれは部屋から出る予定もなかったし構わないんだけどね。でも、また今回みたいなこともあるかもしれないし、仲間の誰かに持っていてもらうのもいいのかもしれないとも思った。
「あとで合鍵を作りに行こうか」
「え……?」
「持っててほしい」
「……はい」
断られるかなって思ったけど、そんなことはなかった。またこんなことがあったら……と思うのはおれだけじゃないってことだろう。もう心配をかけたくはないけど。
しばらく雑談をしながら時間を過ごし、昼になってからおれたちは部屋を出て宿の主人に合鍵を作る許可を貰いに行った。相変わらず「代金はもう頂いております」としか言わないので勝手に作ることにした。
不思議なことに、以前レイトたちが訪ねて来た時は、主人は普通に会話ができておれのいる部屋を教えてくれたと言っていた。それなのに、おれが話しかけるとあのセリフしか言わなくなる。それをマキアは「気味が悪いですね」と言っていた。
合鍵を作りマキアに手渡す。彼女はそれを大事そうに両手で握りしめていた。ずっとそうしているつもりなのだろうか? その後は二人で昼食を摂り、市場で生活用品や食料などを買い、再びおれの部屋へ戻った。
「いやー楽しかったなー」
「買い物……好きなんですか?」
「マキアと一緒だったから、だよ」
「……また……ですか? もう慣れましたけど」
「慣れちゃうの早いね。もっとマキアで遊びたいのに」
「わたしをおもちゃにしないでください!」
それからも二人でのんびりとした休日を過ごした。明日はレイトたちと一度会うことになっているということも聞いた。おれの体調も戻ったし、そのまま合流することも二人で決めた。
「あの子たちは今何してるって?」
「猪狩りをしてると……無茶もしないって言っていましたから」
「そっか、マキアもいないしな。きっとレイトとルミルが上手くやってくれてるだろ」
「はい。それにしても不思議……」
「ん?」
「わたしも含めて、まだまだ新人冒険者の集まりなのに……シシノ平原の巨大猪を倒してしまったり、ナナトさんがいてくれたとはいえ……コイマの森の魔獣さえも倒してしまうなんて。普通ではちょっと考えられないですよね?」
「そうだね。普通の新人が通っていく道ではないのかもしれない。でも、おれはそう不思議とは思わないかな」
「どうしてですか?」
「君たちは……何か特別な力を持っている! ……なんてことは言わないよ?」
「分かっています」
マキアは呆れたように言った。
「ただ、誰よりも臆病だけど相手をよく観察してるリーダーがいて、それを振り回して暴走するけどちゃんと仲間のことを見てる子がいて、自分の役割に責任を持って実力以上の働きをしている子がいて、冷静に状況を把握して誰よりも早く行動ができ腕も立つ子がいて、泣き虫で怖がりなのにみんなの為にって必死に努力をしている子がいて、そしてなにより、みんなのことを守ってくれる美人なお姉さんがいるからね」
マキアはじっとおれの目を見ていた。おれの冗談を真に受けたのか少しだけ悲しそうな目をしていた。
「わたしには……できることが少なくて……」
「マキア。ヒーラーはパーティーには欠かせない存在だよ。マキアがそこにいるってことが何よりも大事なこと」
「はい……」
「激戦続きだからね、マキアは一度……魔法力を測定し直してみたら? レベルアップしてると思うよ?」
「だと……いいのですけど」
「まぁこれからだよ。君たちはまだまだこれから。むしろ調子が良くなってくると危険も寄ってくるから、危ないのはこれからかもね。それを上手くコントロールしてやるのがおれの役目だから」
「お願いします」
「任せなさい!」
「ふふっ」
マキアは過去の経験からすぐに思い詰めてしまうようになっている。気をつけないと……こういう子は危うい。守りたい。ずっと笑っていてほしいんだ。
――次の日。レイトたちと合流するために準備をして南門の前へ向かった。八時……少し前。そこにはマキアが一人で待っていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「まだ一人?」
「はい」
「南門であってるんだよな?」
「はい。猪狩り……ですから」
「んー、場所を変えたのかな?」
「…………」
分からないよな。おれたちはしばらくそこで待っていた。時計塔の針はもう十時を示している。約束を忘れているのか、全員が寝坊しているのか……そんなことを考えていた。
東側の通路から一人の男の子が歩いて来た。茶色が混じったような黒髪の男の子。いつも纏っている漆黒のマントは見えない。武器の片手剣すらも背負ってはいない。その男の子は俯いたままおれたちの前で足を止めた。
「レイト、おはよう」
「……レイト?」
彼は返事をしようとはしない。マキアの表情も曇っていく。レイトのただ事ではない雰囲気に呑まれそうになっている。はっきりさせた方がいい。
「レイト、みんなは?」
レイトの肩がピクリと動いた。いきなり核心を突いたのか……おれは深呼吸をしてから、その核心を掘り下げていく。
「ココハちゃんは?」
「ココハは……宿に……まだ……」
弱々しい声だがようやく声が聞けた。
「ブレンは?」
「ブレンも……たぶん……宿に」
隣でマキアの息が荒くなっていくのが分かる。それでもおれは確認することを止めない。
「ジェニオは?」
「…………」
「ジェニオはどうした?」
「ジェニオは……」
レイトの体が震え出す。
核心の底が見えた。レイトは立っていられなくなったのか、膝から崩れ落ちるようにして地面に座り込む。尋常ではないほどの震え方をしている。
「……すみません。ナナトさん……マキア……俺は……俺たちは……」
「レイト、詳しく話せ。つらいだろうけど……おれたちに全て話すんだ」
「……はい」




