第72話「決死の逃亡戦」
「ギョァァァァアアアアアアアア!!!」
猛々しく咆哮する影。ユトの丘で空を飛べる存在なんて……俺には一つしか思い当たらない。
「あれが成鳥なの!?」
俺は前を走るルミルに向かって問いかけた。
「違うわ! あんなの、あたしは知らない!」
知らない……? あれは怪鳥の成鳥じゃないのか? それじゃあ一体……なんだっていうんだよ。
「やべえやべえやべえ!」
誰よりも一目散に逃げようとしているのはネスカさんだ。その逃げっぷりからはあの空にいる相手のことを知っているような感じがした。
「ネスカさん! 何なんですか!?」
返事はない。それだけ必死に逃げている。あれだけ自信がありそうだったネスカさんが逃げ出すような相手? 走りながら考えていると、俺たちの上を大きな影が通りすぎていった。
「ギョァァァァアアアアアアアア!!!」
急降下してネスカさんの進路上に降りてきた。俺たちは足を止めざるをえなかった。今度はその姿がはっきりとよく見ることができた。
全長は約八メートルくらいだろうか。その体はゴツゴツとした硬そうな緑色の鱗に覆われた強靭そうな筋肉質の肉体。鋭い爪が生えた太い脚に、長い鞭のような尻尾。腕はなく、大きな二枚の翼を持っている。頭は角が生えた蜥蜴のようだ。
「……ワイ……バーン」
ネスカさんがそう呼んだ。
「ワイバーン? 怪鳥とは違うんですか!?」
「全然違うだろ、見て分からねえか?」
それは……分かる。でも、こいつがどういう存在なのかは全く分からないんだ。
「ゼルナ知ってる。ワイバーンは竜人族が飼ってる翼竜で……人を食べる」
「は!? 竜人族!? マジかよ!?」
竜人族……それはこの世界ミルグラムにおいて、下位五種族に分類される人間族よりも位の高い存在。巨人族と敵対関係にあって悪魔族を倒す力を持つ、上位五種族の中の一つだ。
「…こ、怖い……」
「は、早く……逃げないと!」
「逃げるったってどうすんだよ!? 相手は空を飛べるんだぞ!!」
「みんな! 密集陣形で! 全員で守りながら離れよう!」
「バカヤロウ! 密集なんてするんじゃねえ! まとめて殺られるぞ!」
ネスカさんの怒号が響いた。
「ギョァァァァアアアアアアアア!!!」
ワイバーンが反応して動き出した。
浮上して狙いを定めると、急降下して鋭い爪を突き立てようとする。
「全員散開!」
咄嗟にそう叫んだ。
ドォン! と地面をワイバーンの脚が抉る。あんなのをまともに受けたらひとたまりもない。逃げないと……でも、こんなの相手に逃げきれるのか?
「…レイトくん! 私が!」
「え? ココハ!?」
「…追い風!」
そうか! あの翼に向かって突風を吹かせれば吹き飛ばせるかもしれない。その隙に逃げればいい。風がワイバーンに向かって流れていく。瞬く間に勢いを増して突風となった。ワイバーンは一瞬だけ怯んだように見えたが、翼を強く羽ばたかせて耐えている。こいつはこの突風の中でも平気なのか。
「ココハ、ダメだ! もういい!」
指示を出して魔法を停止させようとした。
ヒュンッ……と風の切る音が聞こえた。ルミルの矢だ。我流閃技の襲撃。その矢はワイバーンの翼を傷つけ破る。体勢を崩し、少しだけ落下しかけたように見える。
「翼を攻撃すれば飛べなくなるはず!」
ルミルが叫んだ。
「全員で遠距離攻撃! 翼を狙って! ブレンはココハとルミルを守って!」
「りょ、了解……!」
「くそが!!」
「ネスカさんとゼルナさんも!」
「指図すんじゃねえ!」
ワイバーンが再び浮上して狙いを定めている。ブレンの挑発を使うか? いや、ブレンでも受けられるか分からないし、下手をしたらココハとルミルも巻き添えを食らってしまう。
「俺が引き付ける! みんな離れて!」
俺は出来る限りの殺気を上空のワイバーンにぶつけてみる。やつと目が合った。脚の爪をこちらに向けて急降下してくる。俺はすぐに横に飛び退いた。
ワイバーンは俺の幻影へ一直線に向かってくる。その脚が地面へと到達すると俺だった影が消滅して灰色の煙となる。ワイバーンは煙を吸い込みながら急浮上した後、動きを止めた。
「みんな! 今だ!」
「…風鋭刃!」
「いくわよ! 襲撃!」
「水針」
「おらあぁぁああ! 炎拳!」
ワイバーンの翼を矢と針が貫き、刃が斬りつけ、波動が焦がす。それでもやつを地面に落下させるまでには至らない。
「必殺! 威圧跳躍!!」
ジェニオが上空へと跳躍した。
あれはマンティコアとの戦いで使った我流閃技だ。高く飛び上がってから攻撃するものだけど、今回の相手はそれよりも更に上空にいる。ジェニオは空中で回収した長槍を頭上へと持ち上げて伸ばす。その切っ先がワイバーンの顔……左目を掠めた。
「ギョァァアアアア!!」
ワイバーンは落下を始めた。ジェニオと同じ速度で落ちてくる。このままだと押し潰されてしまうかもしれない。……そう思った時、ジェニオがワイバーンの脚を蹴り付けて横に飛び跳ねた。
ドスン! ドン! と2つの落下音がした。ワイバーンは血を流し開かなくなった左目を気にしているのか頭を振っている。ジェニオは痛がってはいるものの、すぐに起き上がった。
「撤退する! ジェニオ、走れるか!?」
「誰に言ってやがる!!」
「急いで!」
「おおよ!!」
俺たちは丘を滑るような勢いで降りていく。緩やかな坂をこの時ほど嘆いたことはない。もっと早く、もっと遠くへ逃げないと!
「ギョァァァァアアアアアアアア!!!」
もう何度目かの咆哮だ。きっと立ち直って追いかけてくる。
「みんな! 隠れろ!」
俺の一言でみんなが散り散りになって近くの木に飛び込み、その陰に身を潜める。呼吸音を沈めたいけど、そんなに急には落ち着けるはずもない。近くにはルミルがいた。ココハは無事だろうか? ……大丈夫だ、ブレンと一緒にいるのが見えた。ジェニオは遠くの木々の中にいた。ネスカさんとゼルナさんもその近くにいる。
「追いかけてくると思う?」
「分からないわよ。でも、腹を空かせてるなら来るんじゃない? 人間も食べるんでしょ?」
「だよね……怖っ」
「……あいつ、大丈夫なの? 近くにいるなら治療を頼みなさいよ!」
「ルミル?」
ルミルはジェニオの方を見ていた。ジェニオは左肩を痛めていたのか、右手で押さえているのが見える。ゼルナさんが近くにいるのに治療を頼もうとはしていない。自分から言い出せないのか? ゼルナさんも自分から動けるような人じゃない。ネスカさん……気づいてくれ!
想いが通じたのか、ネスカさんがジェニオとゼルナさんを自分の方へと呼んでいた。「ふぅ」と安心したような吐息が聞こえた。そんなルミルを見て、少しだけ不思議な気持ちになった。それが何かは分からなかったけど、仲間が無事でいてくれることは俺も嬉しいことだと思った。
ワイバーンが上空を旋回している。きっと俺たちを探しているんだと思う。このまま諦めて去ってくれればいいんだけど。俺はブレンたちの方を見た。震えるココハに、ブレンは「だ、大丈夫……大丈夫だから」と言ってくれているのだろう。ココハはそれに頷いて返している。
ネスカさんたちの方を見る。何かを話してはいるが……ジェニオはまだ肩を押さえたままだ。治療してもらってたんじゃないのか!? ネスカさんとジェニオがこっちを向いた。
「何か……言ってる?」
「……あいつ、なんで!?」
手振りで何かを伝えようとしている。ジェニオ……たち三人で……囮になるから……その隙に……逃げろ……? 何か間違えて伝わってるんじゃないか? 俺は手を横に振り、分からないという合図を送った。ジェニオが両手を広げてこちらに向けた。右手の親指を折る。……カウントダウンか!?
「ルミル!」
「分かってるわよ! でも!」
「ネスカさんもいるし、何か考えがあるんだと思う!」
「あたしはあいつを信用なんてできない!」
「とにかく! 今は逃げるしかないって!」
ジェニオの指はもう四本が折られていた。ブレンの方を見るとこちらを向いて頷いていた。どうやら向こうにも伝わっているみたいだ。俺も頷いて返す。ジェニオの指が折られていく。三……二……一……。
「走れ!」
俺たちは木の陰から飛び出した。ワイバーンは当然のように気づいて咆哮する。ブレンたちと合流しようと振り返ると、遠くに人影が見えた。あれは……ジェニオか? なんで一人なんだ? それに驚いた顔をしているように見えた。
「ネスカの兄貴!?」
ネスカさんとゼルナさんは!? さっきまでいた木の辺りにはいない。どうなっているんだ? これが作戦? そんなわけない。これじゃあ囮になってるのは治療をしてもらえていないジェニオだけだ。
「ジェニオ!」
ルミルが足を止めて叫ぶ。
俺とブレンとココハも止まってしまう。上空からワイバーンが急降下してジェニオを襲う。咄嗟に横に飛び退いて避けている。
「た、助けないと……!」
「行くわよ!」
ルミルとブレンがジェニオの元へと走る。ココハも走りかけたが俺に気づいて振り返る。俺は何か嫌な予感を感じていた。背後の木々の中から何かが飛び出してくる。振り返るとそこには二人の冒険者の姿。逆毛の赤髪で黒いグローブを付けた男と桃色短髪で長杖を持った女。
「ネスカさん!?」
ネスカさんは一度こちらを見たものの何も語ることはなく丘を降りていく。ゼルナさんもそれに続く。……そんな、嘘……だろ? 俺たちを囮にしたのか? いや、ジェニオを囮にしたんだ。俺たちは走っていれば助かったのかもしれない。でも、こんなのってないだろ。
「…レイトくん!」
ココハに呼ばれて前方に向き直る。瀕死のジェニオの前にブレンが立ち守っている。ルミルは矢を射ってワイバーンの気を逸らそうとしている。その矢を疎ましく思ったのか、翼を広げて上空へと舞い上がる。
「ギョァァァァアアアアアアアア!!!」
前方を見つめて咆哮すると、降下しながら俺とココハの方へと飛んでくる。俺はココハの手を引いて抱き寄せると、タイミングを見計らって横に跳んだ。
「ココハ、大丈夫!?」
「…ん……」
よかった。俺もココハも無事だ。ワイバーンは旋回してくることはなく、そのまま前進を続けた。その先にいるのは……。
ルミルたちが駆けて来る。俺はココハを立ち上がらせるとみんなと合流した。ジェニオは体中を傷だらけにしていた。ブレンとルミルは大丈夫みたいだ。
「ど、どうする……の?」
「え?」
「…ゼルナさんたちが、危ないよ?」
「そんなの……あの人たちが悪いんじゃないか。俺たちを……ジェニオを囮に使ったんだぞ?」
「…………」
ジェニオは肩で息をしているが何も話そうとはしない。
「そうね。でも、あたしたちもここでこうしているわけにはいかないでしょ? 街へ戻るにはこの丘を下っていくしかないんだから」
「……そう、だよね。ごめん……よし、なるべく木々のある方を行こう」
俺たちは走った。ジェニオはブレンに肩を借りている。少し先でワイバーンの咆哮が聞こえた。炎が上空に飛んでいくのも見えた。戦っている。
「炎拳!」
火の波動がワイバーンの顔面に直撃した。その隙にネスカさんたちは再び逃亡を始める。ワイバーンはすぐに立ち直って上空へと浮上する。
「ゼルナ!」
ネスカさんが前方を走るゼルナさんを呼ぶ。
「おまえ、あいつらに会いてーんだよな!?」
「うん、ゼルナ……今日もみんなに会う。会わせてほしい!」
「会わせてやるよ! だから……ちょっと止まれ!」
ゼルナさんが走る速度を落とした。ワイバーンは既に狙いを定めている。ネスカさんは彼女に追い付くと、左手でゼルナさんの右肩を掴んで後ろへと引っ張った。
「きゃっ!」
ゼルナさんは体勢を崩して後ろから尻餅を付いた。
「あいつらに言っておけ! おまえらの死は無駄じゃなかったってな!」
え? 何をしているんだ? そんなことをしたら……ネスカさん、なんで走って行っちゃうんだよ。ゼルナさんを助けないと……ワイバーンが。
急降下してくる大きな影。その鋭い爪でゼルナさんの体を地面へと押し付ける。それを見た俺たちは再び足を止める。呆然とその光景を眺めていた。
ワイバーンはゼルナさんの腰を掴むと翼を羽ばたかせて浮上していく。ゼルナさんはまだ息があるみたいで、何とか逃れようともがいていた。
「ネスカ! 助けて、ネスカ! ネスカァァァアアアア!!」
バキッ……と骨が折れる音がした。ゼルナさんはもうぐったりとしていた。ココハが気を失いかけて倒れそうになっていたけら肩を掴んであげた。俺たちはそれ以上は見ることも逃げることもできなくて、木々の中に身を潜めた。
誰も声を発することはしない。どのくらい隠れていたんだろう。そろそろ日が暮れてしまうかもしれない。街まではまだ距離があるし、精神的にも限界だ。
「みんな、行こう」
静かにゆっくりと歩を進める。木々の中を通っていればそう簡単には見つからないはずだ。しかし、それも長くは続かなかった。丘の中腹より下には木々が生えてはいない。芝生のような短い草が一面に広がっているだけだ。
「一気に駆け抜けよう。ブレンはジェニオを連れて先頭に、ルミルはココハをお願い。俺は後ろから付いて行くから」
みんなが頷いたのを確認してから合図を出した。一斉に飛び出して駆け抜ける。
「ギョァァァァアアアアアアアア!!!」
ワイバーンの咆哮がした。
「くそ、まだいるのかよ!」
振り返るとワイバーンが後方で飛び上がるのが見えた。やつの目はしっかりとこちらを見据えていた。翼を羽ばたかせて前進を始める。すぐにでも追いつかれてしまうだろう。
「瞬速!」
数本の矢が順々に射ち込まれる。ワイバーンはそれを避けようと上下左右へと動く。ルミルが列を離れるように横へと移動していく。
「レイト! ココハを!」
「ルミル、どうする気だよ!?」
「あたしが引き付けるから、逃げなさい!」
「…ルミル!」
思えば……ジェニオの様子がどこか変だとブレンは言っていたけど、ルミルだって普段とは違ってなかったか? 頂上でジェニオが単独行動をしようとした時もいつもなら呆れて『放っておきましょ?』とか言うのに、今日は追いかけて行った。ワイバーンから逃げて木々に隠れた時も傷ついたジェニオのことを心配していた。あの……男嫌いのルミルが?
ずっと仲間として過ごしてきて、ジェニオのことだけじゃなくて俺やブレンのことも認めてくれるようになったのかもしれないけど……この命を失うかもしれない状況で一人残ってみんなを助けようとするほどか? ココハもいるし理由はそれかもしれないけど、誰かを助けたいって気持ちはみんな同じなんだ。それなのになんで一人で行ってしまったんだ。
「…ルミル!」
ココハが足を止めて再び声をかける。
「行きなさい!」
「…でも!」
「アイツ……何考えてやがんだ……バカヤロウが……」
「ジェ、ジェニオくん……無理しない方が」
「おいレイト!!」
「なんだよ!」
俺がジェニオの方を振り返ろうとした時、ワイバーンが翼を大きく羽ばたかせて風を起こした。その風に煽られてルミルが体勢を崩して後ろから尻餅を付く。ワイバーンが狙いを定める。
「ル、ルミルさん……!」
「ルミル!」
ワイバーンが急降下を始めた。ルミルはまだ起き上がることが出来ないでいる。そして、ワイバーンの鋭い爪がルミルを襲う。
「…ルミルゥゥゥウウウウウウ!!」




